32話 癒しの時間だからこそ
アイリスは手元にある羊皮紙の束を丁寧に整えながら第二図書館で、ある人物を待っていた。
そわそわと少し忙しなく本棚の間を行き来する。すると入口の方から扉の開く音が聞こえアイリスはパッと視線を上げた。
「アイリス嬢、お待たせして申し訳ありません」
軽やかな声と共に現れたのは、月明かりのような銀髪を揺らしたルイスだ。
「こちらこそ図書館まで来ていただいて、ありがとうございます!」
「構いませんよ。貴女の平穏な学園生活のためですからね」
揶揄うようにそう言って笑うルイスに、アイリスは配慮してもらったことへの申し訳なさで苦笑いを浮かべる。そして本題である術式の解読をまとめた束を彼に差し出した。
「こちらが、頼まれていた魔術式の解読をまとめたものです。応用を効かせた術式もいくつか添えておきました」
ルイスはその紙を受け取り視線を落としすと、小さく息を漏らし上品な笑みを浮かべた。
「……やはり貴女の解読はわかりやすいですね。助かりました、ありがとうございます」
「いえ! お役に立てて光栄です」
胸を撫で下ろしたアイリスが満面の笑みでそう答えると、ルイスは優しく目を細める。
「本当に綺麗にまとめてありますね。これは私からのささやかなお礼です」
そう言って差し出されたのは、手のひらサイズの小さなガラス瓶だ。小瓶の中には淡い赤色の輝きを放つ、親指ほどの大きさの美しい結晶が収められている。
それを見た瞬間、アイリスの瞳が大きく見開いた。
「紅炎石!? しかもこんなに純度が高く、魔力の含有量が多いものは市場でも滅多に出回らない代物ですよ! 私が術式を解いた程度の対価としては、到底見合いません!」
ぶんぶんと首を横に振り慌てて断ろうとするアイリスに対し、ルイスは上品な毒を孕んだ笑みを更に深める。
「実は貴女に解いていただいた術式は、不具合を起こした薬品庫の結界に使用する予定の術式だったのですよ。本来は生徒会で受けた依頼ですが、対処できる者がおらず貴女に依頼をしました。これはその報酬に値するだけの価値が十分にありますよ」
「…………ですがこの術式、ルイス様も解けたのではありませんか?」
ルイスはアイリス以上に魔法の才がある。単なる魔力量だけでなく、魔法の操作、術式の知識。それら全てを彼は兼ね備えている。そんなルイスがアイリスの解いた術式を解けないはずがない。
疑うように視線を上げると、ルイスは相変わらず目を細めたまま。
「なんのことでしょか? それに私は手が空かなかったので、貴女にこうしてまとめていただけるだけでも、本当に助かったのですよ」
(と、いうことはやっぱり、自分でも解けたということ……)
「アイリス嬢が生徒会に加入してくだされば、もっと助かるのですが……」
するとあらぬ方向へと話題が移り変わり、アイリスは後ずさって首を大きく横に振った。
「絶対にお断りします……!」
「相変わらず、貴女はつれませんね」
全校生徒の注目を浴びる生徒会にだなんて、絶対に加わりたくない。地味なモブ令嬢は、古びた図書館で過ごすのがお似合いだ。
(でも――)
「…………生徒会には入れませんが、ルイス様からのご相談であれば、またいつでも引き受けます。ルイス様のお役に立てるのは、私も嬉しいので」
豊富な知識を持つ彼には、いつも助言をもらってばかりだ。だからこそ、そんな彼に頼られることは、アイリスにとって誇らしく嬉しいことでもあった。
アイリスが満面の笑みで告げると、ルイスは一瞬大きく目を見開かせると、目元を甘く緩ませコテンと首を傾げる。
「ふっ、あはっ、ではまたお願いしますね。まずは、この報酬を受け取っていただかなくてはいけませんが……」
「で、ですからこれは……」
愉しげに喉を鳴らすルイスにアイリスが言葉を詰まらせていると、図書室の重厚な扉が静かに開く音が聞こえた。
本棚の奥から顔を覗かせたのは、ディランだ。切れ長の赤い瞳でルイスとアイリスを交互に捉える。
「ルイス、まだ学園にいたのか。今夜は宮廷魔法使いの任務に向かうのではなかったのか?」
「ええ。アイリス嬢に用事があったので少し立ち寄っただけですよ」
ルイスはアイリスに一歩踏み込むと彼女の小さな手を取り、その手のひらに魔法石の入った小瓶を滑り込ませた。
「しばらく学園を空けることになりますが、貴女は先日のような無理をしてはいけませんよ? それではまた、次の機会に」
囁くような甘い声を残して、握られていた彼の手が離れていく。そしてルイスはそのまま、図書館から立ち去ってしまった。
残されたアイリスは手の中に残る小瓶の確かな重みを見つめながら、ぽつりと呟く。
「ルイス様、本当にお忙しそうですね……申し訳ないことをしてしまいました」
いくら天才と称される彼であっても、最近のスケジュールはいつにも増して過酷に見える。
そんな忙しい彼を、アイリスはわざわざこの図書館まで出向かせてしまったのだ。
「申し訳ない? なぜだ」
「……ルイス様へ魔術式をまとめた紙を渡すためだけに、ここへ来ていただいたんです。お忙しいのに出向かせてしまったことが申し訳なくて」
アイリスが小瓶を軽く傾けると、石同士が重なり合う音が聞こえる。その音を聞きながらアイリスは言葉を続けた。
「ルイス様と学年が同じディラン様やジーク様に預けて渡していただくことだって、できたはずなのに……。でもそれではディラン様たちにまで迷惑をかけてしまいますね」
アイリスが直接、校舎で手渡せば済む話なのに、ただ『目立ちたくない』という自分の都合に彼らを巻き込んでいる。
寂しげに眉を下げたアイリスは、不甲斐なさに堪えるように形の良い唇をわずかに噛んだ。けれど話を聞いていたはずのディランは、意味がわからないとでも言うように鋭い眼差しを更に細めた。
「それぐらい迷惑ではない。……だが直接手渡してやった方が、ルイスは喜ぶだろうな。それにアイリス嬢に呼び出されることも、ルイスの苦にはなってはいない。迷惑だったのなら、ハッキリと断るような奴だ」
横から腕を組んだディランが、感情を読ませない意志の強い一文字の唇を僅かに動かした。
「俺たちに、気を使いすぎなくていい」
信頼が籠もったディランの言葉に、アイリスは瞳を揺らした。心が少しだけ軽くなるのを感じる。
手の中の魔法石の輝きを見つめた後、返事をするようにディランへと微笑み返したのだった。




