30話 目覚めと月夜
読書灯のほのかな炎が静寂の中で小さく爆ぜ、その瞬きに誘われるように、アイリスは目を覚ました。
(……私、いつの間に寝て…………)
まだ覚めきらない頭のまま、痺れた上体をゆっくりと起き上がらせる。
頬に残る木肌の感触と微かに漂う古い羊皮紙の香りが、自分がまだ第二図書館にいることを悟らせた。調べ物をしていたはずが、つい居眠りをしてしまったらしい。
(今日の護衛は……ディラン様。起こされなかったということは、どこかで待たせているかもしれない……)
悪いことをしてしまったと思いつつ、寝ぼけ眼でディランの姿を探そうと辺りを見渡した。その瞬間、アイリスは隣にあるはずのない気配を感じ、心臓を大きく跳ね上げる。
「よく眠れましたか? アイリス嬢」
鼓膜を揺らしたのは、男性にしては少し高めな落ち着いた声。分厚い魔導書を優しくめくりながら、隣の席に座っていたのは――ルイスだ。
「る、ルイス様……!? なぜここに……? ディラン様は?」
思わず声が裏返る。アイリスが眠ってしまう前までは、ディランがこの空間にいたはずだ。それなのになぜ、自身の隣にルイスがいるのか。
混乱するアイリスを他所に、ルイスは手にしていた魔導書をパタンと閉じる。
「ディランは朝が早いので、私が貴女の護衛を引き継ぎました」
何食わぬ顔でそう言うと、彼の細く白い指先がアイリスのノートをトントンと指差した。そこには数日前、彼から相談された術式の解読を書き込んである。
「この術式の解読、もう終わらせていたのですね。気になって少し目を通しましたが、まさか歪みの修正だけでなく、実践的な応用にまで思考を巡らせているとは思いませんでした」
「これは、ただの書き殴りで……! 明日きちんと清書したものを改めてお渡しします!」
アイリスは慌ててノートを胸元に抱え込み彼の視界から隠すが、ルイスは綺麗な青い瞳を優しげに細める。
「そのままでも構いませんよ? 問題なく読めますし、貴女がどう思考を巡らせ答えを導き出したのかが分かって、むしろ興味深いですから」
「絶対ダメです……! 清書したものを受け取ってください!」
「残念ですが貴女がそこまで言うのなら、大人しく清書を待つとしましょう」
頑なに拒むアイリスに、ルイスは小さく溜息を吐いて肩をすくめた。アイリスがホッと胸を撫で下ろすと、彼は「それにしても……」と言葉を続けた。
「人けの少ないこの場所で居眠りをするなんて、ご令嬢としての危機感が足りないのではありませんか?」
声はどこまでも優しく響くのに、緩やかに弧を描く口元からは、凍てつくような冷徹さが滲み出ている。
「まさか……今回が初めてではない、なんて言いませんよね?」
「い、いえ! 今回が初めてです!」
アイリスが必死に否定をすると、僅かにルイスの顔から鋭さが消える。「それならば良いのですが……」と、その言い分を免じてくれるようだった。
「護衛がいるからと油断せず、次からは気をつけること。良いですね?」
「はい……」
「よろしい。もう遅いですし、そろそろ帰りましょうか」
深いため息をひとつ吐き出した彼は、困ったように眉を下げて彼女へ優しく微笑みながら立ち上がる。けれど、ふと何かを思い出したかのように、足を止めルイスの視線がアイリスへと落とされた。
「……そうでした。アイリス嬢が眠っている時に、私、貴女に触れてしまいました」
「…………え?」
アイリスが瞬きを繰り返すと、ルイスは胸に手を当て頭を下げると淡々とした口調で話を続けた。
「貴女の顔に髪がかかり、寝苦しそうにされていましたので……つい指で避けてしまいました。その際に少し、頭に触れてしまったのです。不敬な真似をしてしまい、申し訳ありません」
「な……なんだ、そんなことですか。私は全然構いませんよ。お気になさらず」
髪を払ってくれただけなら、むしろ親切心だ。前世の感覚も残っているアイリスにとっては、特に気に留めるようなことでもなく、彼に微笑みかける。
「…………そんなこと、ですか?」
そう言って顔を上げたルイスの声は、普段よりも少し低い。向けられた表情は先程よりも冷たく、まるで一切の体温を消し去ってしまったかのようだった。
ルイスは一歩、アイリスとの距離を詰める。そして机に片手を突くと、椅子に座っているアイリスを上から圧し潰すような体勢で見下ろすのだ。
わずかに青みを帯びた細い銀髪の束が、彼の輪郭をなぞるように揺れる。長いまつ毛の隙間から、ただ静かに深く青い瞳がこちらを覗き込んでいる。
「……私以外の男が、アイリス嬢に触れたとしても――『そんなこと』と、容易く許してしまうのですか?」
「あ、あの、ルイス様……?」
動揺で声が震える。感情の灯が消えたその表情は、見る者の息を止めるほどに冷たくも美しい。
ルイスは彼女を静かに見つめ、どこか熱を孕んだ声で囁いた。
「気軽に、触れさせないで。……分かりましたか?」
「はい……」
アイリスが何度も頷くと、ルイスはいつもの上品な笑みを浮かべ前屈みになっていた上体を起こす。
「私は本を片付けてきますね。貴女は自分の荷物をまとめておいてください」
ルイスは机に置かれた本を手に取ると、何事もなかったかのように本棚の奥へと消えていった。残されたアイリスは張り詰めていた糸が切れたように、ドッと大きな息を吐き出す。
(美形の無表情って怖い……! 息が止まるかと思った……)
高鳴る鼓動を押さえながら、アイリスは慌てて荷物を鞄へと詰め込んだ。
○
図書館の外へ出ると、辺りはすっかり真っ暗になっていた。
冷え込んできた夜風にアイリスが小さく身を縮めると、温もりが彼女の肩を覆った。驚いて顔を上げるとルイスが自身の制服のジャケットを、彼女の肩に掛けてくれたのだった。
「今夜は少し冷えるでしょう? 着ていてください」
「ですが、これではルイス様が冷えてしまいますよ!」
「私は大丈夫ですよ。それよりも貴女が風邪を引いてしまう方が心配ですから」
ルイスは上品に微笑みながら、アイリスの言葉を遮った。紳士的でありながら強制力のある様子に、アイリスはそれ以上拒むことができなくなってしまった。
「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えさせていただきます」
ルイスの善意を受け取り、アイリスはジャケットの襟を小さく握り締めた。彼の香りと体温が身体を包み込み、冷え切っていた身体がじんわりと温まっていく。
二人は並んで、静かな寮への道のりを歩き始めた。
しばらく歩いた頃、鬱蒼と茂る森の木々の隙間から月明かりが差し込んだ。この世界の月は欠けることなく常に丸く輝いているが、今日は一段と大きく明るい。
木漏れ日のように降り注ぐ月光が、アイリスの隣を歩くルイスを美しく照らし出す。その青みがかった銀色の髪が、儚く幻想的に輝いている。
まるで絵画のような美しさにアイリスは思わず見惚れてしまい、つい、言葉を零してしまった。
「……ルイス様の髪は、月明かりのように美しいですね」
ルイスは一瞬、驚いたように目を見開いた。けれどすぐに愉しげに目を細め、アイリスを揶揄うような笑みを浮かべる。
「なんですかそれ。私のこと、口説いてます?」
「な! 違いますよ……!? 純粋に綺麗だと思っただけで、他意はありません……!!」
軽率だったと反省しながら、顔を真っ赤にして慌てて否定する。慌てふためくアイリスの姿に、ルイスはとうとう堪えきれないとでも言うように喉を震わせた。その笑顔は、普段の仮面のような上品な笑みとは違い、とても自然なものに思えた。
「ふふっ、冗談ですよ。ありがとうございます」
息を吐きながらルイスは呼吸を整えると、慈しむような優しい眼差しでアイリスを見つめた。
「ふふっ、真っ赤。温まりました?」
「は……はい! もう充分温まったので、上着も――」
アイリスは羞恥心にかられながら、借りていた彼の上着に手をかけようとした。けれど不意に伸びてきたルイスの手によって、アイリスの小さな右手は掠め取られてしまった。
顔を上げると彼は笑みを浮かべ、包み込むようにしてアイリスの手を握りしめる。ほんのりと温かなルイスの体温が、重なった手を通して流れてくるようだった。
ルイスの中性的な容姿に惑わされていたけれど、重ねられたその手はしなやかでありながらも驚くほど大きく、彼が男の人なのだと改めて思い知らされる。
「手はまだ少し冷たいですね……このまま握っていてもいいですか?」
「っ……、」
動揺で目を見開いたアイリスを他所に、ルイスは握っている手を見せびらかすかのように顔の近くまで持ち上げ、愉しげに青い瞳を細めている。
アイリスは混乱して目眩を起こしそうだった。時間が遅く人けがないとはいえ、もしこんなところ誰かに見られたら、アイリスの平穏な学園生活は一瞬で崩壊してしまう。
(善意を無下にするのは心苦しいけど、ここは遠慮して断るのがモブ令嬢として正解のはず……!)
「上着まで借りてしまっていますし、さすがにそこまでしていただくわけには――」
アイリスが断ろうとした、その時。
茂みの奥からガサリと葉の擦れ合う音が響く。魔獣かと思い一瞬、身構えたアイリスだったが……




