29話 癒しを求めて(ルイス視点)
《ルイス視点》
生徒会の雑務を終えたルイスは、学生寮へと続く夜道を歩いていた。
ふと東の森を揺らす風が、彼の視線をさらっていく。ルイスは歩みを止め、無意識に寮へと続く道ではなく、深い森の奥へと方向を変えていた。
これは単なる気まぐれか、それとも別の理由か。疲労を感じた頭では判断がつかなかった。
薄暗い森を進むにつれ見えてきたのは、古びた外観の『第二図書館』だ。閉館時間はとうに過ぎているというのに、窓からは小さな琥珀色の灯りが漏れている。
(まだ誰か残っているのだろうか……)
それが誰かなんて、考えるまでもない。こんな時間まで第二図書館に残り続ける人物を、ルイスは一人しか思い当たらなかった。
自然と足取りが速くなる。
ルイスは胸の奥で小さな光が弾けたような感覚を抱きながら、重厚な扉を静かに押し開けた。気配の少ない館内へ足を踏み入れると、最初に目に留まった人物は、見覚えのある大柄な男の姿だった。
「ああ、ルイスか」
低い声で応じたのは、腕を組んで本棚に背を預けていたディランだ。彼の鋭い眼差しが、ルイスを捉えると少しだけ鋭さが緩む。
「どうも。もしかしてまだ、アイリス嬢が残っているのですか?」
ルイスが声を潜めて尋ねると、ディランは無言のまま本棚の奥を顎で示した。ルイスが顔を覗き込ませてみると、案の定、机に頭を伏せて眠ってしまっているアイリスの姿がある。
さらりとした長い髪が机の端から滑らかに流れ落ち、微かな寝息と共に小さく揺れている。
「少し前まで起きていたのだが、寝不足だったのか限界がきて眠ってしまった。起こすのも不憫で、しばらく寝かせたままにしていたのだが」
「寝不足……?」
「なにやら熱心に魔術式を解読しているようだったぞ」
ルイスは弾かれたように顔を上げ、彼女の近くに積み重なる本の山へと目線を移した。どれも見覚えのある術式の関連書だ。
綻びかけた口元を隠すように、ルイスは上品な微笑をその身にまとった。
「この後の護衛は、私が代わりましょう。ディランは寮へ戻って身体を休めてください」
「しかし今日の護衛は俺の担当だ。それなのにルイスへ頼むわけには……」
「お気になさらず。貴方は明日も朝早くから剣術の訓練を行うのでしょう? 私もちょうど読んでおきたい魔導書がありますし、読書をしながら彼女の目が覚めるのを待つとします」
ルイスが流れるような口調でそう告げると、ディランはしばらくルイスの青い瞳を凝視する。けれどやがて、珍しく何かを察したかのように小さく溜息を吐き出し、ルイスへと姿勢を正した。
「……分かった。では、後を頼む」
「ええ。おやすみなさい、ディラン」
ディランは一度だけアイリスの様子を伺うと、足音を殺しながら図書館を去っていった。遠くで扉の閉まる小さな音が聞こえると、館内に静寂が訪れる。
ルイスは静かな動作で、眠るアイリスの隣の席へと腰を下ろした。顔を横に向けペンを握ったまま眠っている彼女のノートを覗き込むと、そこにはやはり、見覚えのある術式の羅列がある。
それは数日前、ルイスが彼女に解読を依頼した古代の魔術式だ。ノートの端々に何度も構築をやり直した跡や、インクが滲むほど強く引かれた思考の線が残されている。しかも術式の解読だけでなく、術式の応用まで書き込まれておりルイスは思わず目を見張ってしまう。
「んん…………」
微睡みの底から零れ落ちた小さな吐息が、静寂を震わせた。導かれるように視線を上げれば、アイリスの柔らかそうな薄い唇が夢心地のまま言葉を続ける。
「……解け、ました……よ、……ルイ、スさま…………」
ルイスの名を口にした彼女の顔は、驚くほど嬉しそうに緩んでいる。夢に見るほど、術式を解読できたことが嬉しかったのだろうか。
(…………それとも、私からの依頼だから――)
「はぁ…………」
胸の奥が、酷く締め付けるように痛んだ。
込み上げてくる熱を冷ますように、片手で顔を覆い息を吐き出した。普段は氷のように冷たい自身の手までもが、今は仄かな熱が孕んでしまっている。
普段まとっている上品な仮面など、今の彼には一欠片も残されていなかった。どうしたものかと頬杖をつき、眩しいものでも見るかのように目元を細めて彼女の寝顔を見つめた。
「アイリス嬢……」
声を顰めて名前を呼ぶも、彼女は変わらず心地良さそうに眠ったまま起きる気配はない。
時間が許す限り無理に起こしはしないが、これほど近くに他人の気配があるというのに、目を覚さない彼女は些か無防備がすぎる。
もちろん不敬を働く気はない。けれど男であるディランや自分の前で、清らかな寝顔を晒している自覚はあるのだろうか。こんなに無防備な令嬢など、聞いたことがない。
出会って間もない頃、ウィルバートが過保護ではないかと思ってしまうほど、頑なにアイリスへ護衛を付けようとした理由が今ならわかる。
呆れた吐息を零しながらも、彼の深く青い瞳は未だアイリスだけを真っ直ぐに捉えている。
(綺麗な寝顔……)
長く伸びたまつ毛が閉じた瞼の下に美しい影を落とし、淡い灯りに照らされた肌は白く透き通り、触れればたちまち崩れてしまいそうなほど儚くも美しい。
彼女は自分を平凡だと謙遜するけれど、ルイスにはそうは思えなかった。
「ん〜……」
アイリスが小さな吐息を溢し僅かに身じろぐ。長く伸びた横髪がさらりと流れ、彼女の寝顔を気まぐれに覆い隠してしまった。
髪の隙間から寝苦しそうに顔を顰めるので、ルイスはクスッと喉を鳴らしながら、彼女へ手を伸ばす。けれど伸ばしかけた手は、彼女に触れる手前で行き場を失ったようにピタリと止まる。そして一度だけ虚空を握りしめた後、そっと髪の束を耳の後ろへと滑らせたのだ。
さらりとしたダークブラウンの髪に触れる彼の指先は、まるで壊れ物を扱うかのように優しい。ルイスはそのまま、彼女の頭を一度だけ撫でた後、ゆっくりと手を離す。
「…………ねぇ、アイリス嬢」
零れ落ちた声はいつもの冷静沈着な響きを完全に失い、甘く熱を帯びていた。
「貴女の隣にいると胸が痛むのに……どうしてこんなにも、離れ難いのでしょうね?」
胸を満たしていくこの感情を、どう言い表せばいいのか分からない。ただ、アイリスの存在が、どうしようもないほどに――――。
これがただの興味や好感で片付けられる段階を、とうに過ぎている。けれどルイスは未だ、この感情に名前を付けることができずにいた。




