2話 王子と秘密の取引
式典が終わり、生徒たちがそれぞれの教室や寮へと散っていく中、アイリスは喧騒から逃れるように、校舎の裏手にある人気のない庭へと足を向けていた。冷たい風が頬を撫で、ようやく乱れた呼吸が落ち着きを取り戻しつつあった。
(落ち着いて、私。王子と幼い頃に出会っていたとしても、それは過去の話)
あちらは雲の上の王族で、こちらは田舎の伯爵令嬢。数年も会っていなかったのだし、アイリスのことなんて忘れているに決まっている。だけど――
(ウィル、元気そうでよかった……)
突如、王都へ行くことができなくなったあの日から、彼のことがずっと気がかりだった。けれど第二王子という彼の正体を知った今。それでよかったのだとも思える。私は乙女ゲームのシナリオに登場しないモブ令嬢。そもそも出会うはずのない存在。
シナリオ通り、モブとして平穏な学園生活をおくればいい。そう静かに他人を装うことを決意した、
その時――
背後から確かな足音が近づいてきた。草を踏みしめるその足取りは驚くほど迷いがなく、アイリスの方へと向かってくる。
「やっと見つけた……! 探したぞ、アイリス!」
耳に届いたのはかつてよりも幾分か低く、けれどあの頃と変わらない、心地よい響きを持った声だった。
驚きに目を見開いたまま振り返れば、そこには新入生代表の立派なペリースをつけたウィルバートが護衛もつけずに立っていた。彼は嬉しそうに輝くエメラルドの瞳を、アイリスへ向けている。
「僕のことを覚えているか? 五年前に王都の中央図書館で会った――」
「……五年前? 申し訳ございません、殿下。私にはそのような記憶はありません。恐れながら、どなたかとお間違えではないでしょうか?」
アイリスは冷静に優雅なお辞儀をとりながら、他人行儀な言葉を返した。関わってはならない――そう、本能が警告していた。
しかし、ウィルバートはその冷たい拒絶に、ひどく傷ついたように眉をひそめた。その表情に胸の奥が痛む。
「いいや、間違いではない。僕がずっと探していたのは、君だ、アイリス」
彼は一歩、また一歩と距離を詰め、アイリスの目の前で足を止める。
「君が突然姿を消してしまったあの日から、どれほど君のことを心配したか……。なぜ何も言わずいなくなってしまったんだ。僕が身分を隠していたから、君を怒らせてしまったのだろうか……?」
ウィルバートは捨てられた子犬のようにエメラルドの瞳を潤ませ、切なげな眼差しを彼女に向けている。
無垢なその眼差しにアイリスの決意も揺らがざるを得ない。かつてあれほど真剣に、ただの『一人の人間』として魔法を語り合った少年の面影が、今の彼の姿と重なっていく。
「違います……! ウィルのせいではなくて、私が――」
アイリスが『しまった』と思った時には、もう遅い。
彼の愛称を口走ってしまった瞬間、ウィルバートは嬉しそうに瞳を輝かせる。彼女がもう後戻りができないことを、確信したように。
初めて出会ったはずの令嬢が、第二王子のことを間違っても『ウィル』だなんて気安く呼んでしまうはずがない。
アイリスは覚悟を決めて、深々と頭を下げた。
「…………あの時は何も告げずいなくなってしまい、申し訳ございませんでした! 実は荷台にこっそり乗って王都に通っていたことが両親にバレてしまい、王都へ向かうことを禁じられてしまったんです。……だからウィルバート殿下のせいではありません」
「ふっ……あはは! やはりあの時、荷台に乗って来ていたのか。君がそう溢した時、聞き間違えかと思っていたのだが。君に何かあったわけではなくて安心したよ。アイリス、頭を上げてくれ」
申し訳なさを感じつつも、アイリスが顔を上げると相変わらずウィルバートは爽やかに微笑んでいる。
「また、こうしてアイリスと話せることができて嬉しい。しかも同じ学園で、共に学ぶことができるなんて。……ところで、君はなぜ覚えていないふりをしていたんだ?」
彼の問いにアイリスは気まずそうに視線を泳がせる。
なぜ覚えていないふりをしたか? そんなの決まってる。乙女ゲームのモブ令嬢が王子と知り合いだなんておかしいからだ。それにアイリスの目的は『大好きな魔法を学びながら、平穏な学園生活を謳歌する』こと。巻き込まれそうな修羅場はできるだけ回避したかった。
「……できるだけ目立たず、平穏な学園生活をおくりたいからですね」
「平穏な学園生活?」
「はい。私はこの学園で修羅場に巻き込まれることなく、大好きな魔法の研究に没頭したいだけなんです。だから他の令嬢たちや、殿下の婚約者に睨まれるようなことは避けたくて」
「婚約者? 候補なら数名いるが、正式な婚約者はまだ決まっていない」
「え……?」
アイリスは思わず間抜けな声を上げ、紫色の瞳を見開かれる。
乙女ゲームのシナリオでは、ウィルバートには『ローズ』という美人で高慢な婚約者が存在していたはずだ。
(ゲームのシナリオと違う……?)
まさか、何かの拍子でシナリオが変わってしまったのだろうか。
「君の平穏な学園生活も尊重してあげたいが、せっかく再会した友人を僕も手放したくはない。――アイリス、僕と取引をしないか?」
「と、取引ですか?」
「人前では君が望むとおりに振る舞おう。その代わり放課後は、学園の東側にある『第二図書館』に来てくれ。人の出入りも少ない場所だから、そこにいる間だけは昔みたいに僕の話し相手になってほしい。これなら君の平穏は守られるだろう?」
眉をひそめて渋るアイリスに、ウィルバートは最後の一押しとでもいうように悪戯に微笑み――
「それに第二図書館には、君好みの古代の魔導書が多く収められている」
「その取引、お受けします」
魅惑の言葉にアイリスは思わず即答してしまった。
だって国内屈指の魔法学園にある古代の魔導書なんて、絶対に貴重だ。そんなの読みたいに決まっている。
「ただし! 殿下が来られる際は必ず護衛をつけてください!」
「護衛か、わかった。ならば僕からももう一つ。図書館では堅苦しい呼び方をしないでくれ。先程、君が呼んでくれたように僕のことは『ウィル』と。いいか?」
真摯にきらきらと輝くエメラルドの双眸で見つめられたアイリスは、しばらくの沈黙の後、「……わかりました」と頷いた。
「ならば取引成立だ。これからよろしく、アイリス」
「よろしくお願いします……ウィル」
混迷の海に突き落とされたアイリスを余所に、ウィルバートは再び出会えた友人を嬉しそうに見つめ、その柔らかな金の髪を風に揺らした。




