19話 救いの眼差し(ローズ視点)
《ローズ視点》
それは今でも鮮明に思い出すことのできる、五歳の春の記憶。ローズ・ブラッドレイにとって、その年は世界の色ががらりと変わってしまった残酷な季節だった。
その年、ブラッドレイ侯爵家に次女となる少女が連れてこられた。
父の弟夫妻が災害で亡くなり、一人残された『マリー』という名の、ローズよりも一つ歳の違う娘を養子として引き取ったのだ。
我が家にやって来たマリーは、まるで天使の生まれ変わりのように愛らしかった。
柔らかく美しいピンク色の髪に、ローズと同じ金色の瞳。けれど目尻はローズのように鋭く吊り上がっておらず、大きくパッチリとした愛らしい目をしていた。
両親も、屋敷の使用人たちも、それまでローズに向けていた視線のすべてを、瞬く間にマリーへと注ぎ込むようになった。
『あらあら、マリーったら。怖い夢でも見たの? 仕方がないからお母様と一緒に寝ましょうか』
『洗濯の途中にマリー様がいらして、お花を摘もうとねだってこられるんです。マリー様は本当に甘え上手で可愛らしいわ』
誰もがマリーに夢中だった。
ローズがどれほど完璧に勉強をこなしても、どれほど品のある振る舞いをしても、周囲の大人たちは生返事ひとつで通り過ぎてしまう。
『ブラッドレイ家の長女として、恥じないように振る舞え』
『ローズはしっかりしているから、一人でも平気よね?』
『ローズ様は相変わらず優秀だわ。侯爵家の長女に相応しいわね。でもマリー様のように、もう少し可愛げがあってもいいのに……』
そんな言葉を向けられるたびに、幼いローズの胸の奥に冷たい泥のような寂しさが積み重なっていく。
(わたくしは、もう誰からも見てもらえない。わたくしの居場所は……もうどこにもないの? もっと見てもらえるように自分を主張しなきゃ……)
それからというもの、ローズはワザと見栄を張り、高飛車な鎧を身にまとうようになった。
そして十歳を迎えたある日、一つの転機が訪れる。
王宮から第二王子ウィルバートの婚約者候補の一人として、ローズの名が挙げられたという報せだった。
期待と不安が入り混じる中で迎えた、王宮の庭園での顔合わせ。そこに現れたウィルバート・エルセリオは、十歳とは思えないほど、すでに完成された美しさをもった少年だった。
「初めまして、ローズ嬢。君のように美しい方を婚約者候補として迎えられ、とても光栄だ」
陽の光を浴びてきらめく金髪を揺らし、新緑のようなエメラルドの瞳をローズを真っ直ぐに捉える。
家族からも向けられなくなった、一人の人間としての温かな敬意。ただの形式的な挨拶だと分かっていても、ローズの強張っていた心は、一瞬で解きほぐされていった。
――けれど、そんなささやかな幸福すらも、マリーという妹の存在によって容易に脅かされるのだと、ローズはすぐに思い知らされることとなる。
それは何度目かのお茶会のときだった。
ブラッドレイ家にウィルバートを招き、共にお茶の時間を過ごす予定だったある午後のひととき。
着飾った妹が気恥ずかしそうに扉の隙間から顔を出したのだ。
「あの、お姉様……」
「マリー……!」
「見てください、このドレス。お父様が新調してくださったの。マリーもウィルバート殿下にご挨拶したいわ! お姉様、良いでしょう?」
マリーの潤んだ瞳がローズを見上げる。けれど妹とはいえ、許可もなく殿下に挨拶をさせるなんて、できるわけがない。
ローズは部屋の外へ出るようにマリーに声をかけようと、口を開きかけるが――
「ローズ嬢の妹か。お名前を聞かせていただいても?」
ウィルバートが優しくマリーへ声をかけると、マリーはパッと花が咲くように笑顔を浮かべる。そして扉の前に立つローズの横を通り過ぎ、彼の目の前で愛らしく一礼をしてみせた。
「初めまして、ウィルバート殿下。ブラッドレイ侯爵家次女のマリーと申します。お会いできて光栄ですわ! よければ庭園をご案内しますわ!」
マリーの澄んだ金色の瞳が、ウィルバートを見上げる。
(――あぁ、まただわ……)
その美しい瞳はローズと同じ色のはずなのに、どうしてこんなにもローズの瞳は澱んで見えるのだろうか。
ローズの心臓が、冷たく揺れる。きっとウィルバートも愛嬌のある妹を気にいる。そして、その愛らしさを褒め称えるのだろう。
(また、居場所が奪われる)
確信に近い諦念が、ローズの視界を暗く染めていく。彼女はすっと目を伏せ、これ以上傷つかないように心に鎧を纏う。
しかし――
「――すまないが、それはできない」
頭上から響くのは穏やかな、けれど明確な拒絶の響きを含んだ声だった。
「私はローズ嬢と、お茶会をするために今日訪れたんだ。お互いをより理解し合う大切な時間を切り上げるような不誠実な真似はできない。すまないな、マリー嬢」
マリーの、妹の誘いを、ウィルバートは断ったのだ。
そればかりか、彼は妹の姿には目もくれず真っ直ぐにローズの方へと歩みを寄せる。
「待たせてすまなかったローズ嬢。ん? 顔色が悪いようだが、大丈夫か?」
美しいエメラルドの瞳が、はっきりと、ローズだけを映し、瞳の奥にある自身の赤色の髪が確かに揺れているのが見えた。
彼はローズ・ブラッドレイという一人の少女に、向き合おうとしてくれている。
ただ、それだけで――世界のすべてに無視されていた自身の心が、救われたような気がしたのだ。
(この方に、相応しい女性になりたい……)
たった一度の、救いのような眼差し。
それがローズ・ブラッドレイにとっての、終わりのない恋と忠誠の始まりだった。




