10話 秘密の地下書庫(1)
放課後の第二図書館は、いつもと変わらず静謐な空気に満たされていた。
けれど今日のアイリスは、いつものように窓際の席で魔導書を読み耽るのではなく、高い天井へと伸びる書棚の間を、目的を持って歩いていた。
実は先ほど、年配の司書から何気なく聞かされた奇妙な噂話が、彼女の魔法オタクとしての探究心を激しく揺さぶったのだった。
(まさかこの第二図書館のどこかに、歴代の研究資料や幻の魔導書が眠る『秘密の地下書庫』が存在しているかもしれないなんて……!)
司書の話によれば、その場所は目眩しの魔法によって完全に隠されており、長年誰も足を踏み入れていないという。
「たしかこの区画の壁面に、古い魔力回路の残滓があると言っていたけれど……」
長くさらりと流れるダークブラウンの髪を揺らし、アイリスは紫色の瞳を凝らして壁面をなぞる。
しかし、強力な目眩し魔法が施されているのか、表面的な視覚だけでは何も捉えることができない。それなら一度自身の魔力を薄く展開して、空間の歪みを探した方が早いかもしれない――そう考え、集中しようとしたその時だった。
「こんなところにいたのか、アイリス。いつもの席にいないから探したぞ」
不意に背後からかけられた気さくな声に、アイリスは小さく肩を跳ね上げて振り返った。そこに立っていたのは、陽の光を浴びてきらめく金の髪と、鮮やかなエメラルドの瞳を輝かせた青年、ウィルバートだ。
そしてその斜め後ろには、絹糸のように細い銀髪を揺らし、上品な笑みを浮かべたルイスが静かに控えている。
「ウィル、それにルイス様も! ごきげんよう」
アイリスは慌てて淑女の礼を取ったが、頭の中は秘密の地下書庫のことでいっぱいだった。
「ああ、それで一体ここで何を探しているんだ? 探している本があるのなら僕たちも手伝おう」
「いえ、私が探しているのは『本』ではないのです」
アイリスの言葉に、ウィルバートとルイスが首を傾げる。アイリスは先ほど司書から聞いた話を少し興奮交じりに打ち明けた。
「実は……この第二図書館のどこかに、古い目隠しの魔法で隠された『秘密の地下書庫』があるとお聞きして。もし本当に幻の魔導書があるのなら、一目見てみたいと思い、手がかりを探していたのです!」
呆れられるかと思いきや、ウィルバートのエメラルドの瞳が、まるで子供のように爛々と輝き出した。
「秘密の地下書庫……! それは興味深いな。ルイス、彼女を手伝ってやってくれないか? 僕は明日から公務で王宮に戻らなければならないが、そんな場所があるのなら、僕もぜひこの目で見てみたい」
「……ウィル、噂の真偽も定かではない上に、もし禁書が眠るような場所であれば、不用意に近寄るのは危険です」
ルイスは呆れたように、溜息を隠さずに応じた。他者への関心が極めて低い彼にとって、出所の分からない噂話に付き合うのは、時間と労力の無駄でしかないのだろう。
「危険な場所ならば、早々に見つけてこちらで管理した方が良い。それにお前がいれば、どんなに危険でも問題ないだろう? 頼むよ、私のお願いだ、ルイス」
ウィルバートにそう懇願されると、ルイスは苦い顔を浮かべる。ウィルバートの眼差しや言葉から、ルイスを心の底から信頼しているのだと見て取れる。
「……はぁ。殿下がそこまでおっしゃるのなら、仕方がありませんね」
ルイスの上品な微笑みの裏に、ほんの少しだけ諦念を滲ませながら、ゆっくりとアイリスの方へと視線を向けた。その深く青い瞳に射すくめられ、アイリスは無意識に背筋を正した。
「――というわけです、アイリス嬢。不本意ながら、その秘密の地下書庫とやらの探索に、私もご協力させていただきます。……貴女の好奇心が、ただの徒労に終わらないと良いのですが」
さらりと毒を吐くルイスに対しアイリスは内心で、笑顔が少し胡散臭い……と身震いしつつも、幻の魔導書への誘惑には勝てず、「……よろしくお願いいたします、ルイス様」と小さく頷くのだった。
○
翌日の放課後。アイリスは再び第二図書館へと足を運んでいた。
あらかじめ知らされていた通り、ウィルバートは王宮での公務で不在。代わりに彼から探索を託されたルイスは、律儀に約束の時間通りに姿を現し、一緒に秘密の地下書庫を探すこととなった。
(……それにしても、本当に広すぎる)
アイリスはそびえ立つ書棚を見上げ、小さく息を吐いた。第二図書館は学園の外れにあり、普段は利用者がほとんどいない。だが、その規模は学園のものとは思えないほど広大だ。
地下の記載がないか、学園の古い地図を広げてルイスと確認したが、地下室らしき場所があるのは学園の西側にある旧研究室の下だけで、第二図書館にはそれらしい記述はない。
結局、地道に探すしか方法はなかったのである。
何千、何万と並ぶ古書の背表紙、薄暗い通路、幾重にも交差する影――この中から、僅かな魔法の痕跡を自力で見つけ出すのは、まさに砂漠の砂粒を数えるようなものだった。
壁や床、あるいは特定の古い記述に絞ってルイスと共に魔力探知を展開してみたものの、それらしい魔力の歪みは中々見つからない。
よほど強力な目隠しの魔法が施されているのだろう、と彼は言っていたが、アイリスは隣を歩くルイスの様子が、先ほどから気になって仕方がなかった。
ルイスはいつもと変わらぬ完璧な佇まいだ。だが、アイリスの目には、彼の白い肌が心なしかいつもより青白く、その双眸の奥に濃い疲労の色が沈んでいるのを見逃さなかった。
彼はハワード公爵家の嫡男であり、学園の最高権力者たる生徒会長だ。それだけでも多忙を極めるというのに、彼は宮廷魔法使いの見習いとしての任務も並行してこなしている。
ただでさえ忙しい第二王子の側近に、本当にあるかどうかもわからない秘密の地下書庫の探索に付き合わせてしまっている。彼が元々乗り気ではなかったことも相まって、アイリスの心に申し訳なさが込み上げてくる。
「ルイス様」
アイリスは足を止め、振り返って彼を見つめた。
「どうかしましたか、アイリス嬢。何か手がかりでも?」
「いえ、そうではなくて……。ルイス様、非常にお疲れですよね? ここは私が残って探しておきますので、ルイス様は、あちらの席で休まれてください」
しかし、ルイスは僅かに青い瞳を見開いた後、いつものように上品な笑みを深くした。
「お気遣いに感謝しますが、結構ですよ。これは殿下に頼まれたことですから。それに……」
そこで言葉を一度区切ると、ルイスはふっと視線を斜め下の古い床へと落とした。上品な仮面の隙間から、ほんの僅かだけ、あどけない笑みが落ちる。
「実は私も少し、気になるのです。もし本当に、幻の魔導書が眠っているのだとしたら……一目見てみたいと、そう思ってしまっただけですから」
髪の隙間から覗く耳が、微かに赤く染まっているように見えた。普段は他者への関心が低く、完璧な天才としての壁を崩さない彼が、魔法への純粋な探究心を少し気恥ずかしそうに口にした。同じ魔法オタクとして、アイリスの胸に親近感と、彼に対するたしかな好感が灯った。
「それなら、少しだけ休憩にしましょう。私に良い考えがあります!」
アイリスはそう言うと、自身の鞄から小さな薬草の小瓶と魔法でカップを出現させる。
第二図書館の片隅にある机を借りて、魔法で湯を沸かした彼女が手際よく淹れたのは、清涼感のある不思議な青色のお茶だった。湯気と共に微かに甘く、それでいて涼やかな香りが周囲に広がる。
「どうぞ、ルイス様。温かいうちに召し上がってください」
「これは……ハーブティー、でしょうか? 青いお茶なんて珍しいですね」
ルイスは物珍しそうに眉をひそめながらも、差し出された白磁のカップを細い指先で受け取った。そして上品な動作で一口、喉に流し込む。すると彼の青い瞳が驚きで丸く見開かれた。
「……身体の奥に滞っていた魔力の巡りが、滑らかに解けていくようです。ただのお茶ではありませんね?」
「ふふ、お口に合って良かったです」
アイリスは満足そうに微笑む。
「ルイス様の属性は『氷』ですよね? 氷の属性者は、その魔力特性ゆえに魔力の回路が冷え、凝固しやすい傾向にあります。特に疲労が溜まると、魔力操作の負荷がそのまま身体の重みになってしまうのです。ですから、氷属性の魔力循環を阻害せず、魔力の流動性を高めるための特性を持つ薬草をブレンドいたしました」
嬉々として配合の理屈を語るアイリスを、ルイスは呆気にとられたように見つめていた。だがその瞳の奥には、明らかな感心の光が宿っている。
「なるほど……氷の属性をそこまで深く理解し、この調合に落とし込むとは。貴女の魔法に対する知識とその妙な執着心には驚かされますね」
「妙な執着心だなんて人聞きが悪いです。ただの純粋な探究心です」
アイリスが少し不満げに頬を膨らませると、ルイスは今度こそ、いつもの貼り付けたような上品な笑みではなく、ふっと自然な穏やかな笑みを漏らしたのだった。
温かいお茶によってルイスの体力が回復し、魔力探知の精度が劇的に向上したことで探索は一気に進展を見せることとなった。
二人が再び壁面に沿って歩き始めた時のことだ。
「――アイリス嬢」
ルイスの声にアイリスは緊張の面持ちで近寄る。彼が示したのは一見すると何の変哲もない、歴史書の棚の隣にある黒い壁だった。
しかし、ルイスが手をかざし、彼の魔力が壁に触れた瞬間、表面にまるで霜が降りるかのように青白い魔術式が浮かび上がった。
「これは……目隠しの魔法の術式!? でも、ただ魔力を流すだけでは開きませんね」
アイリスは瞳を輝かせ、壁面に浮かぶ複雑な回路を凝視した。その回路の起点となっているのは、小さな窪みだった。その形状は一般的な鍵穴のそれではない。幾重にも絡み合う、風の流れを模したような細い溝――。
「この溝、まさか……」
アイリスは自身の魔力を極限まで細く緻密に制御しながら、その窪みへと滑り込ませた。現在の学園で習う直線的な流し方ではなく、螺旋を描くよう複雑に。
するとカチリと、静寂に包まれた館内に金属音が響く。術式回路の光が青から白へと反転し、不気味なほど滑らかな音を立てて、巨大な書棚ごと壁が内側へと開き始める。
現れたのは地下へと続く、闇に閉ざされた石造りの階段だった。
「ここが、秘密の地下書庫へ続く道……?」
「本当にこんな場所があったのですね……」
長く閉ざされていた為か微かに埃っぽい香りと、濃密な魔力の気配。二人は息を呑み導かれるようにして、奥へと足を進めたのだった。




