第9話 その妥協、大工房の礎につき
「……湊。私は賭けに出るわ」
領主館からの帰路、月明かりに照らされた旋回荷車の中で、リールは口を開いた。
その声は酷く静かで、氷のように冷たかった。
リールは視線を落とし、手元の羊皮紙を強く握りしめた。
「今まで私がこの商会で稼ぎ、積み上げてきた金貨五百枚……その全財産を、ギルドへの特急依頼に注ぎ込む。街から人をかき集め、一週間で廃区画を更地にし、建屋を建てる。これで私は一文無しよ。もし納品に失敗すれば……路頭に迷う。」
一ヶ月の試用期間内に完璧な納品を成し遂げるため、リールは「時間」を金で買う不退転の決断を下したのだ。
だが、その土地の図面を覗き込んだ湊の口から出たのは、リールの想定とは全く異なる言葉だった。
「リールさん、だったらこの土地の中心に『大型の窯』を作らせてほしい!」
空気が、凍りついた。
「……湊、自分が何を言っているか分かっているの?」
リールは感情を抑え込み、冷徹に湊を射抜いた。
「一週間で巨大な窯? レンガを焼くだけで何日かかると思っているの。今は最短で小屋を建てて、一秒でも早く火を入れるのが先決よ。私の人生を賭けた金を、湊の道楽の実験で潰す気?」
「道楽じゃない」
湊は図面を握りしめ、真っ直ぐにリールを見返した。
「今の小さな火床のやり方をただ広げるだけじゃ、設備が持たない。将来を見据えて、最初に熱効率のいい『礎』を作らなきゃ、リールさんの望む量産は必ず行き詰まる」
「行き詰まる前に、完成しなきゃ意味がないのよ!」
リールの声が、初めてわずかに荒ぶった。
焦りと恐怖から来る、切実な怒りだった。
「湊が描いたこの馬鹿でかい窯、これだけの数のレンガを誰が焼くの? どうやって一週間で形にするの? 途中で窯が崩れたら? その時点で私たちの首は飛ぶのよ!」
「だからこそ、だ!」
湊も負けじと声を張る。
「間に合わせの小屋で無理な火力を出し続けて、途中で設備が壊れるリスクの方がはるかに高い。窯の熱を逃がさず、効率よく回す仕組みさえ最初に作れれば、その後の作業速度は今の何倍にもなる。一週間の建設の遅れなんて、残り三週間で必ず取り返せるはず!」
「夢物語よ! 実際に建てるのは街から集めた素人たちなの。湊の頭の中にある理想の窯なんて、絵空事に過ぎないわ!」
互いの視線が激しく火花を散らす。
その息の詰まるような緊迫した空気を破ったのは、同乗していたオルメイの鼻で笑う声だった。
「……おいおい、嬢ちゃん。そうカリカリしなさんな。湊の言うことは、あながち夢物語でもねえぞ」
オルメイは図面を指で叩き、職人としての助け舟を出した。
「いいか、火を直接受ける『火床』だけなら、俺のところで一週間もあれば必要な分厚いレンガは焼き上がる。外側や煙突なんてのは、街の石屋から普通の石や安いレンガを買い集めて、湊の例の『灰色の泥』で塗り固めちまえばいい。そうすりゃ、一週間でこの化け物みてえな窯も形にはなるぜ」
その言葉に、リールは息を呑んだ。
湊の突拍子もない知識に、ベテラン職人であるオルメイの生きた経験が裏打ちされたのだ。
リールは目を伏せ、ゆっくりと深く息を吐き出す。
(……職人が『できる』と言うなら、成功率は跳ね上がる。この巨大な窯が完成すれば、他領の商人が束になっても追いつけない圧倒的な独占権が手に入る。もし失敗しても、湊の知恵を一生買い叩けば、五百枚の損失の担保にはなる……)
計算は「是」。
自分の直感が、この無謀な賭けに乗れと囁いていることに、リールは激しい苛立ちを覚えた。
「……分かったわ。そこまで言うなら、やりなさい」
リールは冷たく、しかし確かな覚悟を持って告げた。
「ただし湊、オルメイさん。もし間に合わなかったら、二人の人生、私がまとめて買い叩かせてもらうわよ」
* * *
翌日から、二つの現場で文字通り命を削る死闘が始まった。
リールの家の裏にある工房では、不眠不休で石鹸を作り続けた。
一方、廃区画の現場では、数十人の荒くれ人夫たちが湊の指示で動いていた。
彼らは最初、若造の指図を鼻で笑っていたが、湊が作らせた「灰色の泥」が、不揃いな石やレンガを瞬く間に強固に接着していくのを見て度肝を抜かれ、次第に熱を帯びて作業にのめり込んでいった。
だが、昼は現場監督、夜は裏の工房で石鹸作りのシフトを回す湊の体力は、三日目の夜に限界を迎えた。
「……だめだ、もう……目が……」
泥を練る桶の前で、湊の体がふらりと傾く。意識が深い闇に落ちかけたその時だった。
「湊さん、お疲れのようですね! 癒やしの光を……『ヒール』!」
金で雇われ待機していたシビラが杖を振るうと、温かな光が湊を包み込んだ。
「おお……すごい、体が軽い……!」
バキバキに悲鳴を上げていた腰の痛みも、腕の筋肉痛も嘘のように消え去った。
だが、湊はすぐに「決定的な絶望」に気づいた。
肉体の疲労は完全に抜けたが、三日間眠っていない脳の猛烈な眠気は、魔法では一切回復しなかったのだ。
「さあ湊さん、お体も治りましたし、リールさんが『休まず働け』って言ってましたよ」
満面の笑みで背中を押すシビラ。
体は羽のように軽いのに、意識は泥のように重い。
湊は虚ろな目で宙を見つめ、フラフラと歩き出した。
「ちがう……魔法で治してほしいのは、そこじゃない……俺を、眠らせてくれ……たすけて……」
絶対に倒れることを許されない不死身の現場監督の異様な執念に、人夫たちは青ざめながら作業の速度をさらに上げた。
* * *
建設も終盤に差し掛かった頃。
領主館の権利で引かれた水路に、初めて勢いよく水が通された。
死んだ魚のような目をしている湊に水差しを持ってきたイベリーが、その水の流れを見てふと足を止めた。
彼女の手には、棒を振り続けたことでできたマメがいくつもある。
「湊さん……このお水、すごい勢いで流れていきますね」
「ああ……これで、一度に大量の仕込みができる……」
「あの、思いつきなんですけれど」
イベリーは水路を指差した。
「この流れる力を使って、あの『ギア』を回すことはできないでしょうか? そうすれば、誰かがずっと棒を振り続けなくても、石鹸が勝手に混ざると思うのですが……」
その瞬間、湊の眠気が吹き飛んだ。
「……水車か!!」
熱源である窯のことばかり考えていた湊の盲点を、現場で棒を振り続けたイベリーの観察眼が突いた。
湊は地面に木の枝で猛然と「水車」と「動力伝達の歯車」の図面を書き殴り、木工担当のフィーナに向かって叫んだ。
* * *
そして一週間後の、早朝。
かつて荒れ地だった廃区画には、異世界の常識を塗り替える威容がそびえ立っていた。
オルメイたちの分厚いレンガと灰色の泥で築かれた巨大な窯。
排気のための高い煙突。
そして、横の用水路で轟々と水しぶきを上げて回る、真新しい巨大な水車。
すべてが組み合わさった「石鹸大工房」が、朝日を受けて輝いていた。
「……本当に、一週間でこれを建ててしまうなんてね。街の連中が腰を抜かしていたわよ」
目の下に隈を作ったリールが大工房を見上げながら、手の中の革袋を湊に向かって軽く投げた。
受け取った袋は、ひどく軽かった。
「見て、湊。金庫はこれで空っぽ。今日から納品が完了するまでの間、私は本当に一文無しよ」
リールは冷ややかな声のまま、しかしどこか吹っ切れたような、商人特有の凄みのある笑みを浮かべた。
「私の人生、湊のその得体の知れない『知恵』と完全に心中することになったわ」
巨大な熱源と動力を備えた大工房。
退路を断った商人と、理想の礎を手に入れた技術者の、本当の戦いがここから始まる。




