第8話 その館、泡の洗礼につき
「なんだ!?……魔法か?」
アラインカプス領主屋敷の門番が、思わず槍を握る手に力を込めた。
現れたのは、馬も引いていない奇妙な荷車だ。何より驚くべきは、その車輪の動きだった。
狭い館の入り口を、まるで生き物のように滑らかに、前輪が向きを変えて曲がってきたのだ。
荷車の操舵レバーを握り、車体の横に立っているのは湊。
客席から優雅に降り立ったのは、リール。
その後ろから、イベリーとフィーナが続いた。
圧倒される門番たちを余所に、リールは一度荷車を振り返り、仲間たちへ視線を送る。
「さて、ここからは私の戦場ね。商談は私がやってくるから、あんたたちはここで荷物を見ていてちょうだい」
リールの言葉に、湊が問いかける。
「リールさん、その間、俺は少し鍛冶屋に行ってきてもいいかな? 今後のことで、オルメイさんと話しておきたくて」
リールは一瞬だけ意外そうに目を細めたが、すぐに納得したように頷いた。
「いいわよ。イベリー、フィーナ、二人に任せて大丈夫かしら?」
問われたイベリーが、頼もしく胸を叩く。
「は、はい!」
「この子の前輪の動きも、もっと滑らかになるよう見ておきます。湊様は安心してオルメイさんのところに行ってらしてください」
フィーナも少しだけ表情を和らげて頷き、荷車の車輪へ視線を落とした。
「助かるよ。じゃあ、後で合流しましょう。……リールさん、よろしくお願いします」
「ええ、任せなさい。良い条件を獲ってくるわ」
湊は三人に見送られ、館の庭を横切って街の端にある鍛冶屋オルメイの工房へと足を向けた。
一方のリールは、緊張の面持ちのイベリーとフィーナを引き連れ、屋敷の使用人に案内されて奥の応接室へと消えていった。
領主屋敷の喧騒を背に、湊は慣れた足取りで街の端にある鍛冶屋へと向かった。
* * *
工房からは、金属を叩く重い音が規則正しく響いている。
「オルメイさん、今いいかな」
声をかけると、火床の前で大きな槌を振るっていたオルメイが、顔を上げた。
タオルで顔の汗を拭い、湊をギロリと見る。
「……湊か。今日は一人か? リールのお嬢ちゃんはどうした」
「リールさんたちは別行動だよ。……オルメイさん、前に少し話した『窯』の構造のことなんだけど、もう一度相談させてもらえないかな」
湊は、作業台の隅に積もった灰を指で払い、以前説明した「熱を逃がさず、上に送る構造」のイメージをなぞった。
「あの時話した理屈で、もっと大きなものを造りたいんだ。今のままじゃ、俺が本当に作りたいものを焼くには、どうしても火力が足りなくて。……オルメイさんの技術で、もっと頑丈で熱を閉じ込められる、本当の『大型の窯』を形にできないかな」
オルメイは湊が灰の上に描く図をじっと見つめた。
しばらく沈黙した後、鼻を鳴らす。
「……あの妙な理屈か。最初は半信半疑だったが、お前が作った石鹸を見れば、あながち出鱈目じゃねえことは分かっている。……だが、そんなデカいもんを造るとなると、レンガも人手も、何より場所が要るぞ。あてはあるのか?」
オルメイの言葉に、湊は伸ばしかけた指を、灰の上で止めた。
やりたいことは明確だ。頭の中には大型窯の構造ができあがっている。
だが、それを描き進めようとした指が、止まる。
「……いや。オルメイさん、ごめん。やっぱり、今はここまでかも」
「あぁ? なんだ、急に」
「……場所です。こんな巨大な窯、どこに築けますか? 煙も出るし、大量の資材を運び込むスペースも要る。俺がここでどれだけ緻密な図を引いても、建てる場所が決まってなきゃ、一歩も先に進めないんです」
これまでの石鹸作りやレンガの試作とは、規模が違う。自分の手に負える範囲を、とうに超えようとしていた。
「……ふん。ようやく気づいたか」
オルメイは鼻で笑い、無造作に作業台の上の灰を太い腕で拭い去った。
「お前さんがどれだけ奇妙な知恵を持ってようが、この街で勝手にデカいもんを建てるわけにはいかねえからな」
「……そうですよね。俺一人で悩んでても、どうにもならないか」
湊は、空になった作業台を見つめ、一つ息をついた。
自分にできるのは、あくまで不完全な知識の提供。
それ以外の、この世界での「土地」や「交渉」といった問題は、自分よりもずっと長けている人物がいる。
「……よし。リールさんが戻ったら、一度ちゃんと相談してみるよ。あの人なら、何か良い案を持ってるかもしれないし」
湊は椅子から立ち上がり、館の方向を見やった。
今はまだ、何も始まっていない。
けれど、リールに相談するという方針が決まっただけで、胸の内の霧が少し晴れたような気がした。
* * *
領主館の一室。重厚な木目調の応接室には、静かな沈黙が流れていた。
リールは、対面に座るこの地の財政と屋敷の管理を預かる執事と、紹介された商人の二人に対し、一礼した。
「お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」
リールは椅子に座り、落ち着いた様子で対峙した。執事は手元の書類から目を上げ、無表情にリールを見る。
「……それで。リール嬢、君が持ってきた『新しい品』というのは?」
リールは、持参した小さな籠から、布に包まれた石鹸を取り出し、机の上に置いた。
「こちらです。私たちの工房で試作した、新しい洗浄剤になります」
リールが布を解くと、滑らかで白い石鹸が現れた。
執事がそれを指先で触れる。
これまで彼が管理してきた、油と灰を混ぜただけの質の低いものとは、見た目も手触りも明らかに違っていた。
「……ずいぶんと質が良いようだが。これをどうしろと?」
「一度、お試しいただけないでしょうか。汚れ落ちの良さはもちろんですが、肌への負担が非常に少ないのです」
リールは用意されていた水受けを使い、自らの手で泡を立てて見せた。きめ細やかな泡が立ち、室内には微かに清潔な香りが漂う。
「屋敷で働く方々の手間も減りますし、何より、これを贈答品として扱うことができれば、領主様の名も広まるかと存じます。もしよろしければ、今後継続してお納めしたいと考えております」
執事は泡の消えていく様子をじっと見つめ、横に控える商人と短く視線を交わした。
「……なるほど。確かにこれまでの物とは一線を画す。だがリール嬢、これほどの品だ。相応の対価を求めるのだろう?」
執事の目が、実務家の鋭いものに変わる。リールはそれに怯むことなく、わずかに微笑んで応じた。
「もちろんです。ですが、まずはこの屋敷での『実績』を頂きたいと考えています。価格については、継続的な契約を前提とした提案を用意してきました」
「継続的な契約、か……」
執事は顎に手を当て、机の上の白い石鹸をじっと見つめた。
実務家である彼の頭の中では、今、屋敷で消費されている洗浄剤の予算と、この新しい石鹸に切り替えた際の利点が天秤にかけられている。
「……確かに、この品質は魅力的だ。だが、既存の納入業者との兼ね合いもある。新参の君たちが、安定してこれを供給できるという保証はどこにある?」
執事の問いは鋭かった。
単発の購入ならともかく、「継続契約」となれば、供給が途絶えることは許されないからだ。
「供給についてはご安心ください。すでに体制は整えつつあります」
リールは迷いなく答えた。
実際にはまだ湊が「大型の窯」を欲しがっている段階だが、リールはこの場で弱気な顔は見せない。
「今回は、まずお試しとして一ヶ月分の納品。その後の反応を見て、正式に契約を結ぶという形ではいかがでしょうか。価格についても、その一ヶ月間は現在の洗浄剤の調達コストに合わせます。私たちが欲しいのは利益以上に、この館で使われているという『信頼』ですから」
横に控えていた商人が、驚いたようにリールを見た。
原価や手間を考えれば、現在の安価な「灰の塊」と同じ価格でこの石鹸を出すのは、明らかに赤字に近い。
だが執事は、その提案の裏にあるリールの意図を正確に読み取った。
「……自分たちの品に、絶対の自信があるというわけか。一度使わせてしまえば、二度と元の粗悪品には戻れなくなると」
「ええ。その通りです」
リールは静かに、だがはっきりと言い切った。
執事はわずかに口角を上げ、手元の羽ペンを手に取った。
「よかろう。その一ヶ月の試用期間、認めよう。ただし、品質が一度でも落ちればその場で終わりだ。……正式な書面を整えさせる。少し待っていなさい」
執事が席を立ち、奥の部屋へと向かう。
残された応接室で、リールは小さく、誰にも気づかれない程度の深呼吸をした。
(……まずは第一段階)
「……で、価格だが」
執事が手元の資料にペンを走らせようとして、手を止めた。
「君の言う、この『せっけん』という未知の塊……。水に溶かして肌をこするだけで、落ちにくい油や煤が消えるという、あの奇妙な術。一つ、銀貨数枚といったところか?」
執事の提示した価格は、この街で取引される貴重な香油や、傷口を清めるための強い酒などを基準にした、彼なりの譲歩だった。だが、リールは静かに首を振った。
「いいえ。一つ、金貨十枚でお願いいたします」
室内の空気が凍りついた。傍らにいた商人が、飲んでいた茶を危うく吹き出しそうになり、執事の眉が不快げに跳ね上がる。
「……リール嬢。冗談を言いに来たのなら、今すぐ帰りたまえ。正体不明の固形物に金貨十枚など、正気の沙汰ではない。そんな金があれば、家畜が何頭買えると思っている」
「冗談ではありません。これは単なる『汚れを落とす道具』ではないのです。執事様、先ほどお見せした、あの白い泡を思い出してください。水だけでいくら擦っても落ちなかった頑固な油汚れが、あの泡に触れただけで跡形もなく消えました。……あれは、この大陸のどこを探しても見つからない『奇跡』ではありませんか?」
「それは……確かに、見たこともない現象だったが」
「存在しないのです。この『石鹸』以外には。これは、これまで人々が諦めてきた『不潔という病』から解放されるための、全く新しい発明です。王都の貴族たちがこの価値を知れば、金貨十枚ですら安いと競い合うでしょう。その独占的な権利を、今この領地で掴むための投資とお考えください」
執事の目が鋭くなった。彼は実務家だ。
この「白い塊」が持つ、汚れを根こそぎ奪い去る異常なまでの力が、もしリールの言う通り唯一無二のものなら、その価値は測り知れない。
「投資だと? 夢想家の戯言だな。実績もない未知の品に、そこまでの大金を出す道理はない」
「戯言ではありません。私は、この『石鹸』を持っていないことが、恥だと思われる世の中にしたいのです。これを使わない者は不潔であり、持たない者は富裕層としての資格がない。そんな新しい常識を作ろうとしています」
「……何だと?」
「想像してください。王都の舞踏会で、この石鹸を知らない貴族が、その不潔さを指差して笑われる光景を。その時、これを独占的に供給できるのが我が領だけであったなら。金貨十枚というのは、その『新しい世界の理』を最初に手にするための対価です」
執事は沈黙した。リールはその隙を逃さない。
「では、こうしましょう。石鹸自体の納入価格は、金貨一枚まで下げます。その代わり――」
リールは視線を逸らさず、核心を切り出した。
「今後、私たちがこの地で安定して生産を続けるための『場所』と、大量の水を得るための『水源』の利用権を、無償で認めていただきたいのです。金貨九枚分の差額は、その権利への前払い、あるいはこの技術をこの領地で育てるための『献上』とお考えいただけないでしょうか」
沈黙が流れる。
執事にとって「使い道の決まっていない土地」や「川の水」を貸し出すことは、実質的な出費ではない。
「……食えない娘だ。単なる物売りではない、我々をこの『石鹸』という未知の事業に引きずり込み、共犯者にしに来たというわけか……」
執事は深く椅子に背を預け、ふっと短く息を吐いた。
「よかろう。街外れの廃区画と、そこを流れる小川の使用を暫定的に許可しよう。ただし、一ヶ月後の成果次第だ。……金貨一枚と、土地の利用権。これで手を打つか?」
「……ええ。ありがとうございます」
リールは丁寧に、深く頭を下げた。
その様子を、執事は無表情のまま見届けていたが、その胸中は穏やかではなかった。
(……金貨十枚、か。狂人の物言いに聞こえたが、この娘、最初からこの『場所』と『水』が狙いだったな……)
執事は、机の上に残された白い塊を、まるで毒薬か宝石でも見るような目で見つめた。
(ただの汚れ落としなら、追い返して終わりだ。だが、先ほどのあの泡……。水ですら太刀打ちできなかった脂が、一瞬で跡形もなく消えた。あれはもはや『道具』ではない。既存の暮らしを根底から覆す、恐るべき『力』だ)
彼は指先で石鹸に触れた。滑らかな感触が、非現実的なまでの清潔さを訴えてくる。
(もしこれを他領の商人に握らせれば、我が領の富は吸い取られる一方になる。逆に、今ここでこの娘たちを『囲い込んで』しまえばどうなる? 土地も水も、領主様にとっては痛くも痒くもない余剰資産だ。それを貸し出すだけで、この未知の利権をこの地に繋ぎ止め、あわよくば独占できる……)
執事は、リールの背中が扉の向こうに消えるまで、その鋭い視線を外さなかった。
(金貨一枚は、その独占権のための手付金だ。この『石鹸』が王都まで届けば、金貨一枚どころか、この街に金色の雨が降ることになる……。フン、安い買い物だったと言える日が来るのを祈るばかりだな)
執事は再び羽ペンを手に取ると、契約書に力強く署名を走らせた。
* * *
執事が署名した契約書を手に、廊下を歩くリールの内心は冷徹だった。
(……勝った。金貨十枚なんて、今のこの石鹸にそれだけの価値がないことくらいわかっている。でも、あそこで相場を口にしたら負けだった。これは価値観を変える劇薬なんだって、あの執事に信じ込ませる必要があった……)
(どうせ作る数が増えれば、希少価値なんてすぐに消える。いずれは銅貨二枚程度まで値が下がる消耗品よ。だからこそ、価値が奇跡だと思われている今のうちに、一番太い商路を掴んでおかなくちゃいけない……)
(場所も水も、これで手に入ったわ。あんな狭い工房じゃ話にならない。……湊の知恵は、私の商会を大きくするための最高の道具。今はまだ彼が必要だけど、一度大量に作るための仕掛けを整えて、誰でも作れるように手順を書き記してしまえば……あとは代わりの者を置くだけ。彼にしかできない技を、彼がいるうちにすべて奪い尽くしてやるんだから。誰にも不当に横取りなんてさせない)
* * *
正門を出ると、旋回荷車の傍らで不安げに待機していたフィーナとイベリーが駆け寄ってきた。
「商談成立よ。石鹸は金貨一枚。さらに、土地と水源の利用権も勝ち取ったわ!」
「金貨一枚……! でもリールさん、どうして土地と水源なんですか?」
不安げなフィーナに、リールは答えた。
「今の工房で湊がちまちまと作っていては、いつまでも珍し物で終わるわ。私が狙っているのは、この国すべての『清潔』を支配することよ。まずは大工房を作る。でも、それだけじゃない。私は自分の店をこの街のあちこちに構えるつもりよ」
圧倒される二人に、リールはさらに畳みかける。
「石鹸を作る過程で出る余り物も、それを収める箱も、すべて金に変えるわ。大工房の隣には木を扱う工房も建てる。……フィーナ、その工房の差配は、あなたに任せたいと思っているの」
「……はい、リールさん!」
二人の明るい返事が響く。喜びとリールの野心への畏怖を乗せて、旋回荷車が動き出す。
お読みいただきありがとうございました。
今回はキリの良いところまでお届けしたく、いつもより気合の入った増量版となりました。
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