第63話 その帰還、消えない罪と泥の道につき
夜明け前の荒野は、骨まで冷えるような静寂に満ちていた。
アピウスが湊の体を抱き直すたびに、少年の薄い背中から体温が逃げていくのが分かる。
「……あつい」
虚ろな声が、また漏れた。
何度目か、数えるのをやめた。
エレナは湊の手を握りながら、夜明けの空に溶けていく闇の端を見つめていた。
その手は冷たく、小刻みに震えていて、まるで眠れない夜が続いている人間の手だった。
顔に傷のある傭兵が五十歩ほど先を歩き、暗がりを槍で突きながら進路を確かめている。
誰も口を開かなかった。
ただ一行の足音だけが、湊の作った「結合法の道」を叩いていた。
* * *
日が高くなる頃、道沿いの給水所で一行は足を止めた。
湊が設計した施設のひとつだ。
丁寧に積み上げられた石の壁、水を引き込む溝、排水路。水は今日も静かに、清潔に流れている。
だが、その脇に荷馬車が横転していた。
麻袋は切り裂かれ、中身が散乱し、泥に踏み荒らされて原形を留めていない。
「……略奪ですか」
傭兵が低く呟いた。
「荷車が三日止まれば、こうなる」
アピウスが答えた。
それ以上は言わなかった。
エレナが給水所の陰に目を向けた。
石の壁に背を押し当てて、一人の女が子供を膝に乗せて座り込んでいる。
子供はぐったりとして、目を閉じていた。
「……大丈夫ですか」
エレナが近づくと、女はぼんやりとした目を上げた。
「食べ物が……二日前から……」
声が途切れた。
エレナは迷わなかった。
持っていた干し肉と固焼きのパンを女の手に押し込む。
女は震える指でそれを受け取り、子供の頬を軽く叩いた。
「起きて。もらえた」
子供がゆっくりと目を開けた。
幼い男の子だ。
目が覚めると彼が最初にしたのは、近くに転がっていた石鹸の欠片を拾い、給水所の水で手を洗い始めることだった。
白い泡が、小さな指の間に広がっていく。
湊の目が、その泡を捉えた。
焦点の定まらなかった視線が、初めて一点に止まる。
男の子が何かに気づいて振り返った。アピウスに支えられた少年と、目が合う。
子供は何も考えていない顔で、ただ言った。
「きれい」
石鹸の泡のことか、水のことか、分からない。
湊は答えなかった。
ただ、白い泡が指の形に沿って膨らんでいくのを、ぼんやりと見つめていた。
* * *
アルヴェアルの外壁が見えてきた頃には、夕日が西に傾いていた。
城壁の上に灯された魔導ランプが、橙色の光を溢れさせている。湊が設計した照明だ。
「……着くぞ」
アピウスが低く言った。
湊は答えなかった。
ただ、足が少しだけ自分の力で動き始めていた。アピウスの腕を借りながら、ゆっくりと、確かに。
外壁の門の前に、一人の人影があった。
金色のくせ毛。新しいドレス。閉じた扇子。
リールだった。
彼女は動かなかった。
走り寄るでも、声を上げるでもなく、ただそこに立ち、近づいてくる一行を見ていた。
夕光が彼女の横顔を照らしている。
その表情は読めなかった。
いつも通りの商人の顔。
いつも通りの冷たい瞳。
アピウスと湊が門の前に達した時、リールはゆっくりと口を開いた。
「……おかえりなさい」
静かな声だった。
三つの言葉だけだった。
それから彼女は踵を返し、何事もなかったように門の中へ歩いていく。
まるで別の用があったかのように、迷いなく。
エレナが息を呑む気配がした。
湊は何も答えなかった。
ただ、アピウスの腕に寄りかかりながら、リールの背中を追って一歩、また一歩と門をくぐっていく。
(……おかえり)
誰かの声が聞こえた気がした。
自分の声かもしれなかった。
* * *
部屋に横たえられた湊は、天井を見上げながら、長い時間をかけて目を閉じた。
燃える男の姿が、まだ網膜の裏にいる。
でも今夜は、それだけではなかった。
白い泡が、小さな指の間に広がっていく光景も、一緒にあった。
第63話、お読みいただきありがとうございます。
長い台詞も、劇的な再会もありません。
それが今の湊には合っていると思いました。
次話では、停止した世界が何をもたらしたかが明らかになります。




