第61話 その着火、白煙に焼かれる無知の罪につき
「……粉だと?」
クラインは胡散臭そうに眉をひそめた。
「は、はい……! それを窯の中で舞わせないと、石灰が底で固まって……爆発、するから……!」
湊の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
声は上擦り、目は虚ろに宙を泳いでいる。あまりの恐怖に錯乱しているガキの姿にしか見えなかった。
「チッ……おい、その袋を全部窯の中にぶちまけろ!」
クラインの怒声に、見張りの男たちが舌打ちしながら動く。
彼らは真っ白な小麦粉と炭の粉が入った麻袋を乱暴に持ち上げると、未完成の石窯の中へドサドサと放り込み、足で蹴り散らした。
バサッ、バサッ。
閉鎖された地下の広場に、大量の白い粉がもうもうと舞い上がる。
すぐに視界が白く濁り、粉っぽい空気が喉に張り付いた。
「ゲホッ……なんだこの粉は! 息が詰まるぞ!」
「早くしろ! 次はどうするんだ、小僧!」
クラインが剣を構えたまま、湊に怒鳴りつける。
湊は、床を這うようにして後ずさった。
背中が、冷たい石壁にぶつかる。
すぐ横には、見張りが壁の燭台に挿していた松明が、チロチロとオレンジ色の火の粉を散らしていた。
(……やめろ)
頭の中で、誰かが叫んだ。
(それをやったら、本当に)
「おい! 聞いているのか!」
さっきまで「妹の熱が下がった」と笑っていた見張りの男が、苛立ちに顔を歪めて湊の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
黄色く欠けた歯が見えた。
「ひっ……!」
湊は悲鳴を上げ、無我夢中で壁の松明を掴み取った。
「来るなあっ!!」
目を固く瞑り、めちゃくちゃに松明を振り回す。
だが、恐怖で汗ばんだ手から木の柄がすっぽりと抜け落ちた。
弧を描いて飛んだ松明が、白く濁った粉の舞う窯の中へと吸い込まれていく。
スローモーションのように見えた。
松明の火が、空中に漂う無数の白い粒子に触れる。
「あ……」
一瞬。
本当に、ほんのわずかな一瞬だけ、地下の空気が膨張したように感じた。
直後。
ボオォォォォンッッッ!!!
鼓膜が破れそうな、腹の底を殴り抜けるような重低音。
オレンジ色の閃光が、窯の中から爆発的に膨れ上がった。
熱波と衝撃が地下空間を吹き荒れる。
「熱っ――!」という誰かの悲鳴は、轟音に一瞬でかき消された。
「……っ!!」
湊の体は、おもちゃのように吹き飛ばされ、鉄格子に激しく叩きつけられた。
後頭部に強烈な衝撃。
肺から空気が搾り出され、視界が明滅する。
キィィィィィィン……。
耳鳴りしか聞こえない。
もうもうと立ち込める黒い煙と、粉塵。
熱い。息ができない。
湊は咳き込みながら、泥だらけの床を這いつくばって目を開けた。
「ぁ……、あ……」
地獄だった。
未完成だった石窯は粉々に吹き飛び、広場の壁は黒く焼け焦げている。
そして。
『あァァァアアアアアッ!!』
耳鳴りの奥から、鼓膜を裂くような絶叫が聞こえてきた。
見張りの男だった。
全身の服が焼け焦げ、皮膚がドロドロに溶けている。
男は顔をかきむしりながら、火だるまになって床をのたうち回っていた。
肉が焼ける、酷く甘ったるい悪臭が鼻を突いた。
「う……オェェェッ……!」
湊は胃袋を裏返すように、黄色い胃液と胆汁を床にぶちまけた。
涙と鼻水と吐瀉物で顔を汚しながら、ガタガタと痙攣するように震える。
クラインの姿はない。
爆風でどこかに吹き飛ばされたか、瓦礫の下か。
鉄格子の扉は、衝撃でひしゃげて外れかかっていた。
逃げられる。
逃げなきゃいけない。
だが、湊の足は動かなかった。
火だるまになって転げ回る男の姿が、黄色く欠けた歯の記憶が、網膜に焼き付いて離れない。
(僕が、殺した)
(僕が、生きたまま焼いた)
「ああ……あ、あああ……っ!」
湊は頭を抱え、獣のような声を上げて泣き叫んだ。
自分が生き残るために、他人の命を奪った。
その決定的な事実が、平和な世界で生きてきた少年の精神を、容赦なく粉砕していく。
這いつくばり、泥と吐瀉物にまみれながら、湊はただ暗い地下道へと転がり出るしかなかった。
助かったという安堵など微塵もない。ただ、自分のしでかした光景から逃げ出すために。
* * *
同じ頃。
夕闇が完全に落ちた荒野を歩いていたアピウスは、ふと足を止めた。
「……アピウスさん?」
怪訝な顔をするエレナの視線の先。
遥か東の果て、闇に沈む岩山の砦から、鈍い閃光が瞬いた。
数秒遅れて、地鳴りのような低い轟音が、荒野の風に乗って届く。
そして、砦の一部が崩れ落ち、黒い煙が夜空へと立ち昇り始めた。
「……湊」
アピウスの顔から、血の気が引いた。
剣の柄を握る手に、ギリッと力がこもる。
「走るぞ!!」
元勇者の絶叫が、荒野に響き渡った。




