第60話 その足掻き、震える泥の手と殺意につき
「……おい、なんで石灰を焼くのに『小麦粉』なんかが要るんだ?」
見張りの男が、不審げに麻袋を床に放り投げた。
ドサリという鈍い音と共に、真っ白な粉が牢の中に舞い散る。
湊の肩が、ビクッと跳ねた。
泥と煤で汚れきった手を必死に背中に隠し、震える声を絞り出す。
「す、水分を……吸わせるためです。ここの地下は湿気が多すぎる……そのまま焼いたら、水蒸気爆発を起こして、全員死ぬかもしれないから……」
「チッ、面倒くせえな。とっとと窯を仕上げろ。お前がチンタラしてるせいで、俺たちの飯まで減らされてんだよ」
男が忌々しそうに鉄格子を叩き、足音を荒立てて遠ざかっていく。
一人残された湊は、その場にへたり込み、胃液を吐き出すように何度もえずいた。
何も出ない。昨日から、水しか飲んでいないのだから。
(……嘘だ。小麦粉なんか、石灰に関係ない)
湊は、床に散らばった白い粉を虚ろな目で見つめた。
文化祭の準備をしていた美術室。
『密室で粉を撒くな。火がついたら爆発するぞ』
先生の怒鳴り声が、不意に脳裏をよぎった。
本当に起きるかどうかなんて分からない。
ただ、窯の周囲に細かな小麦粉と炭の粉を撒き散らし、そこに松明の火が引火すれば、せめて『目眩ましの煙』か『ちょっとしたボヤ』くらいは起きるんじゃないか。
その隙に、走って逃げられるんじゃないか。
最初は、ただそれだけの、子供騙しの逃走計画のつもりだった。
だが。
湊は、自分の震える両手を見た。
(もし、本当に『爆発』したら……?)
見張りの男たちは、すぐそばにいる。
ただの悪党だ。自分を誘拐し、蹴り飛ばした連中だ。
それでも、彼らはさっき『昨日、妹の熱が下がった』と笑い合っていた。
生きている人間だ。
自分が火を放てば、彼らは生きたまま火だるまになるかもしれない。
肺に炎を吸い込んで、のたうち回って死ぬかもしれない。
見張りの男が笑った。
黄色く欠けた歯が見えた。
さっきまで「妹の熱が下がった」と笑っていた口だった。
その喉に炎が入り込む光景を想像した瞬間、 湊は胃液を吐いた。
冷たい石の壁に頭を押し当て、凑は目を強く閉じた。
だが、目を閉じれば、自分が炎に巻き込まれて焼け死ぬ未来しか想像できず、一睡もできない夜がもう二日続いていた。
*
その頃、東部商業ギルドの長・クラインの執務室には、絶望的な怒号が響き渡っていた。
「どういうことだクライン! お前が『リール商会はすぐに折れる』と言ったから協力したんだぞ! なぜうちの領地に一切の物資が入ってこない!」
「暴動だ! 腹を空かせた領民たちが、私の館を取り囲んでいる! 今すぐあの女に謝罪し、荷車を動かさせろ!」
通信用の魔導具から響く、東部の領主たちの悲鳴と罵声。
クラインの顔は、滝のような冷や汗で濡れていた。
リール商会が東部への物流を完全に停止して、二日が経った。
その影響は、クラインの想像を遥かに超えていた。
配給庫の扉が打ち壊され、雪崩れ込んだ群衆が乾燥肉を奪い合っていた。
国境へ向かう荷車は横転し、積み荷だった麦袋は切り裂かれ、泥の中に散らばっている。
関所の見張り台からは、黒煙が空へ昇っていた。
「……あ、あの狂女め……っ! 自分の商会も無傷では済まないはずだぞ!」
クラインは爪を噛み、ギリッと歯を鳴らした。
リールは折れない。
ならば、今すぐあの『結合法』の知識を少年から引き出し、自分たちで街と道を直し、領主たちに提示して怒りを鎮めるしかない。
「おい! あのガキを連れてこい! もう待てん!」
* * *
夕闇の荒野。
アピウス、エレナ、そして顔に傷のある傭兵の三人は、無言で泥の道を歩き続けていた。
「……急ぐぞ」
アピウスの声は低く、ひび割れていた。
腰に吊るした剣が、歩くたびに重く太腿を叩く。
助けに行く。
だが、助け出した後、湊にこの世界の惨状をどう説明すればいいのか。
誰も口には出さないが、三人の心には鉛のような絶望が重くのしかかっていた。
* * *
「おい、立て! クライン様が直々にお呼びだ!」
牢の扉が乱暴に開かれ、湊は二人の男に両腕を掴み上げられた。
「や、やめろ……っ! 窯は、明日には……!」
「黙れ!」
地下の広場に引きずり出された湊の前に、目を血走らせたクラインが立っていた。
彼の足元には、湊が作らされていた未完成の『窯』がある。
「もう猶予はない。明日? ふざけるな。今すぐ、あの灰色の泥の作り方を吐け」
クラインが剣を抜き、湊の首筋に冷たい刃を押し当てた。
ヒヤリとした感触。刃が皮膚に食い込み、一筋の血が首を伝う。
「ひっ……!」
「言わなければ、まずこの指から切り落とす。次だ。お前はただのガキだ、拷問に耐えられるわけがない」
クラインの目は本気だった。
彼はもう、領主たちの圧力で完全に追い詰められている。
(……殺される)
湊の思考が真っ白に染まる。
視線の先。未完成の窯の周囲には、ごまかしのために撒き散らした『小麦粉』と『炭の粉』が、薄く積もっている。
そして、クラインのすぐ後ろには、見張りが壁に掲げている松明の炎が揺れていた。
(嫌だ)
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
(でも……でも、死にたくない……!)
自分が人を殺すかもしれない恐怖。
巻き込まれて自分が死ぬかもしれない恐怖。
だが、刃を突きつけられた本能が、湊の理性を完全に吹き飛ばした。
「……わ、わかりました……言います……!」
湊はガタガタと震えながら、未完成の窯の方へと一歩這いずった。
そして、顔を泥と涙でぐしゃぐしゃにしながら、クラインを見上げる。
本当に爆発するかなんて、分からない。
ただ、もうこれしかなかった。
「粉……粉が、必要なんです……。あそこにある白い袋を……全部、窯の中に……!」




