第59話 その出立、英雄の死と泥の誓いにつき
防壁へ向かうアルヴェアルの街路は、ひどく静かだった。
いや、人がいないわけではない。ただ、活気が完全に死に絶えていたのだ。
昨日まで絶え間なく響いていた、杭を打つ音も、荷車が土を引く音もない。
道端には、練りかけで固まってしまった灰色の泥と、持ち主の消えたシャベルが無造作に転がっている。
『……聞いたか? 王国軍が国境を塞いだらしいぞ』
『湊様は、もう殺されてるって噂だ……。だからリール様は狂っちまったんだ……』
建物の影から、飢えと不安で干からびたような労働者たちの囁きが漏れ聞こえる。
配給所から食い物が消え、昨日まで肩を組んで笑い合っていた傭兵同士が、誰かが落とした一枚の銅貨を巡って血まみれの殴り合いをしている。
エレナが防壁へ向かう途中。
東へ逃げようとして失敗した商人の荷車。
馬は喉を切られて死んでる。
御者も死んでる。
荷は奪われてる。
そして。
その横で、まだ幼い子供が、死んだ父親の服を引っ張ってる。
エレナは思わず足を止めた。
だが、何もできなかった。
エレナは震える両腕を抱きしめ、視線を落としたまま防壁へと急いだ。
* * *
東の防壁の最前線。
積みかけの石積みの前で、アピウスはただ一人、木箱に腰を下ろしていた。
周囲の傭兵たちは誰も立ち上がらない。
ある者は力なく座り込み、ある者は苛立たしげに空の鞘を叩いている。
東へ行けば飢えと野盗が待っており、ここに残ってもいずれ暴動か他国の軍隊に呑まれる。
誰もが、死を待つだけの檻の中にいた。
「……アピウスさん」
エレナが声をかけると、アピウスはゆっくりと顔を上げた。
その両目は血走り、頬はこけ、ひどく疲労していた。
数日間、一睡もしていないのだと一目でわかる。
「……助けに、行かないんですか」
エレナの震える声が、重い空気の中に落ちた。
周囲の傭兵たちが、ピクリと肩を揺らす。
だが、誰も顔を上げない。
アピウスはすぐには答えなかった。
ただ、傍らに突き立てられたままの、泥まみれのシャベルを見つめていた。
「……ここを空ければ、明日には暴徒が雪崩れ込む」
ひび割れた、乾いた声だった。
「湊が、お前たちに泥水をすすらせないために、夜も寝ないで吐きそうになりながら作った街だ。私がここを捨てて兵を動かせば……あの馬鹿は、間違いなく私を殴るだろうよ。『なんで俺なんかより街を守らなかったんだ』ってな」
正しい選択など、とうの昔に消え失せていた。
防壁を捨てれば街が死ぬ。東へ出れば全滅する。
「……っ、でも!」
エレナは涙で視界を歪ませながら、アピウスの前に進み出た。
「……嫌です……そんなの……湊がいないのに……!」
それは、理屈も何もない、ただの子供のわがままだった。
だが、その言葉を聞いたアピウスの口から、ふっと、自嘲するような短い息が漏れた。
「……ああ。そうだな。まったく、その通りだ」
アピウスはゆっくりと立ち上がった。
そして、足元のシャベル……ではなく、木箱の裏に隠してあった、ボロボロの布に包まれた『細長い荷物』を手に取った。
剣を見た瞬間、アピウスの手が止まる。
「もう二度と持たないって決めたんだがな」
布が解け、鈍い光を放つ長剣が現れる。
かつて魔王から世界を救い、そして彼自身が捨てたはずの「人を斬るための剣」だった。
「……あいつにだけは、ダサい真似できないからな」
アピウスは長剣を腰に吊った。
誰も号令などかけない。
演説もない。ただ、一人の泥にまみれた大人が、個人的な恩義と意地のためだけに死地へ赴くという、ひどく静かな決断だった。
「行くぞ。足手まといになるなら置いていく」
「……はいっ」
エレナが涙を拭い、アピウスの背中を追う。
「……あー、クソッ」
ふと、二人の背後で、乱暴に頭を掻きむしる音がした。
見れば、顔に傷のある柄の悪い傭兵が、忌々しそうに立ち上がり、槍を肩に担いでいた。
「うちのガキがよ、あの白い泡(石鹸)のおかげで熱が下がったんだわ。……一飯の恩ってやつだ。どうせここで飢え死にするなら、あの坊主に借りを返して死ぬ」
立ち上がったのは、彼一人だけだった。
他の傭兵たちは下を向き、目を逸らしている。
誰も彼らを責められない。
これが現実だ。
たったの三人。
世界を敵に回した商会の長が狂気を撒き散らす裏で、救出隊と呼ぶにはあまりにも惨めで、ちっぽけな編成。
成功の保証など、万に一つもない。
それでも。
「……死ぬなよ、湊。今行く」
夕闇が迫る荒野へ向けて。
壊れかけた人間たちは、ただ一人の少年のためだけに、絶望の中へと足を踏み入れた。




