第58話 その狂乱、天秤を壊す愛執につき
アルヴェアルの一角にあるオルメイの工房。
「……おいエレナ、魔力が乱れてるぞ」
「あ、ごめん……。なんだか、外が……」
エレナは手元の魔力抽出器からそっと手を離した。
普段なら、新道を作るための馬車や活気ある声で溢れているはずの街が、異常に騒がしい。
バンッ、と工房の扉が乱暴に開き、オルメイが血相を変えて駆け込んできた。
「親方! どうしたんだよ」
「ガト、エレナ! 外が……街が狂っちまってる! リールの嬢ちゃんが東への荷車を全部止めちまったんだ!」
エレナは胸騒ぎを覚え、工房を飛び出した。
そして、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
昨日まで笑い声が響いていた新道。だが今は、空になった巨大な荷馬車が道端に横転している。
閉ざされた配給所の前では、木札を握りしめた男たちが血走った目で殴り合い、地面に落ちた黒パンの欠片を奪い合っていた。
路地裏で泣き叫ぶ子供。遠くの関所の方角からは、焼き討ちの黒い煙すら上がっている。
(……嘘でしょ)
湊が攫われてから、まだ半日。
たった一人の『少年』が欠けただけで、世界はこうも簡単に腐り落ちていくのか。
エレナは恐怖で足がすくみそうになるのを必死に堪え、リールの執務室へと走り出した。
* * *
分厚い扉の前に立つと、足がガタガタと震えた。
逃げ出したい。
圧倒的な支配者の気配が扉越しにも伝わってくる。
それでも。
エレナは強く目を瞑り、扉を開けた。
執務室の中は、異様なほど静まり返っていた。
暖炉の中では、何かの契約書が黒い灰となってくすぶっている。
リールは窓際に立ち、ただじっと東の空(湊が攫われた方向)を見つめていた。
「……あら、エレナ」
振り返ったリールの声は、ひどく平坦だった。
その瞳には、外の惨状など一切映っていない。
「り、リールさん……」
声が震える。喉がカラカラに乾いて、言葉がうまく出ない。
「お、お願いです……荷車を、動かして……。みんな、殴り合ってて……」
「奇妙なことを言うのね」
リールは冷たく言い放った。
「私は『三日以内に彼を無傷で返せ』と通達しただけよ。飢えるのが嫌なら、早く泥棒どもから彼を取り返せばいいだけのこと」
「そ、そんなの……無茶苦茶です……っ」
大人の、それも底知れない権力者の威圧感に圧し潰されそうになる。
涙が滲みそうになるのを、エレナは爪を手のひらに食い込ませて必死に堪えた。
「湊は……誰も苦しまないようにって……夜も寝ないで、道を作ってたのに……!」
ピタリ、と。リールの動きが止まった。
ゆっくりとエレナを見下ろす瞳の奥に、暗く、泥のように重い感情が渦巻いた。
「勘違いしないでちょうだい、エレナ。私が愛や情で動く三流商人に見えるかしら?」
「え……」
「あの子がいなければ、全部無価値なのよ」
リールの声が、執務室の温度を急激に下げていく。
「それを盗んだ泥棒どもが許せない。彼がいなければ、結局全部元に戻る。……なら、一度止めるしかないでしょう?」
息を呑むような狂気だった。
エレナは今、自分がこの街で最も恐ろしい女を怒らせたのだと理解した。
怖い。
殺されるかもしれない。
それでも、エレナは震える足で一歩だけ前に出た。
「ちがっ……凑は、道具じゃない……!」
「……」
「そんなことしたら……湊、悲しみます……っ! リールさんのこと、怖がって……もう、笑ってくれなくなります……!」
それは、震え声で絞り出した、小さな少女のただの感情論だった。
だが、執務室に重く冷たい沈黙が落ちる。
「…………下がりなさい」
しばらくの沈黙の後、リールは再び窓の外へと顔を背け、冷たく告げた。
「物流は戻さない。私の決定は絶対よ」
背を向けたままの拒絶。だが、次の言葉は、どこか微かに強張っていた。
「……好きになさい」
「え……」
「勝手に行けばいいわ。ただし、商会の人員は一人も使わせない」
エレナはハッとして、リールの背中を見つめた。
(……分からない。でも、あの人も苦しんでる)
「……はいっ!」
エレナは深く一礼し、暖炉に灰が残る執務室を飛び出した。
涙を拭い、かつての勇者が待つ防壁へと走り出す。
世界は崩壊の縁に立たされている。猶予は、あと二日。




