第55話 その消失、理を捨てる天秤につき
カァン、と響くはずだった杭を打つ音が、鈍い衝突音と怒号にかき消された。
アルヴェアルから東へ伸びる新道の最前線。
突如として周囲の荒野から立ち上ったのは、視界を完全に奪う魔法の煙幕だった。
「敵襲だ! 湊様を護れ!」
傭兵たちの叫びが響くが、黒装束の集団は、逃げ惑う労働者にも、迎撃する傭兵にも目もくれなかった。
ただ一人、測量計を握る少年へ一直線に駆ける。
「……っ、やめろ!」
湊の短い悲鳴が上がり、鈍い打撃音が響く。
煙幕。
一撃離脱。
そして、湊以外には見向きもしない手際。
素人ではない。
* * *
「……そう。湊が攫われたのね」
アルヴェアルの執務室。
報告に駆け込んだ傭兵の言葉を聞き終えても、リールは微動だにしなかった。
机の上には、つい昨日手に入れたばかりの、東部領主マティアスからの『統治委任の盟約書』が広げられている。
「申し訳ありません! 奴ら、殺し合いには一切付き合わず、ただ湊様だけを……! アピウス殿がすぐに追撃の部隊を編成しておりますが――」
「待ちなさい」
リールの低く、しかし絶対的な冷たさを孕んだ声が執務室を支配した。
彼女はゆっくりと立ち上がると、窓から見えるアルヴェアルの街並みと、そこから東へ伸びる馬車の列を見下ろした。
「……頭では、理解しているわ」
誰に向けるでもない、静かな独白だった。
「誘拐犯の目的は、湊の『知識』の独占。ならば彼らは、知識を吐き出させるまで湊を殺しはしない。……商人としての正解は、冷静に犯人を特定し、隠密に奪還部隊を送ること。そして何より、東部への物流を維持し、せっかく手に入れたマティアスの領地を安定させること」
リールは、自らが構築した完璧なシステムの価値を誰よりも理解している。
ここで商会がパニックを起こせば、築き上げた『信用』に傷がつく。
配給を止めれば、契約は破綻する。
「……ええ、わかっているわ。ここで理を捨てれば、私は商人として三流。ただの愚か者よ」
彼女はそう言い捨てると、机の上に広げられていた『統治委任の盟約書』を――この世界で最も価値のある契約書を、無造作に暖炉の火へと投げ入れた。
「リ、リール様!?」
燃え上がる羊皮紙を見つめながら、リールはひどく納得したように、そして艶やかに微笑んだ。
「でも、感情がそれを許さないの。……湊がどこかの冷たい床で怯えているかもしれないのに、私が温かい紅茶を飲んで、平然と利益の計算をする? 」
リールは小さく笑った。
「湊がどこかで怯えているのに?」
ぱちり、と羊皮紙が燃える。
「そんな世界、止まってしまえばいいわ」
商人としての絶対の正解を理解した上で、彼女は自らの『執着』を優先した。
世界を支配する道理すら、湊の安全という天秤の反対側に乗せれば、ただのガラクタに過ぎなかったのだ。
リールは振り返り、震える傭兵に向けて冷徹な命令を下した。
「東部へ向かうすべての馬車を止めなさい。白米も、毛布も、水一滴すら持ち出しを禁じるわ」
「なっ……! リール様、それでは昨日傘下に入ったばかりの領民たちが飢えます! 暴動が起きますぞ!」
「起こさせなさい。そして、東部のすべての領主、すべての国にこう通達しなさい」
リールの瞳に、初めて明確な『狂気』が宿った。
『三日。……三日以内に湊を返しなさい。無傷で。必ず。できなければ……東部から先に、何も届かなくなるわ』と。
* * *
その日の午後。
アルヴェアルから街道へ向けて出発しようとしていた何百台もの巨大な荷馬車が、一斉に手綱を引かれた。
車輪が止まる。
それは、ただの馬車が止まった音ではなかった。
リール商会という巨大な心臓が、世界へ向けて血(物資)を送り出すのを意図的に止めた、心肺停止の音だった。
「……おい、なんで馬車が出ねえんだ! この札を見ろ、今日の飯はどうなる!」
「商会は俺たちを見捨てる気か!」
配給が止まった関所で、飢えた民衆の怒号が上がり始める。
たった一人の女商人の感情によって、完璧だったはずのシステムが自壊を始める。
だがそれは皮肉にも、彼らがどれほどの『毒』を世界に回していたかを、最も残酷な形で証明する地獄の始まりでもあった。
55話、お読みいただきありがとうございます。
冷徹で完璧な女商人が、ただ一人の少年のために、自ら築き上げた世界規模のシステムをぶん投げる回でした。
「頭では自分が愚かだと理解しているのに、感情がそれを許さない」
リールのこの人間臭い狂気こそが、彼女の最大の魅力であり、同時に世界にとっては最悪の災厄となります。
次回、物流が止まった本拠地・アルヴェアルではどうなっていくのか。お楽しみください。




