第54話 その侵食、飢えた土塊の反逆につき
カァン、カァン、と。
乾いた杭を打つ音が、何もない荒野に響き渡る。
アルヴェアルから東へ伸びる街道の最前線。湊は測量計を覗き込み、次なる「新道」の基準点となる杭を、冷たい土へと打ち込んでいた。
その後方では、アピウス率いる開拓団が、新たな「結合法」を用いて調合された灰色の泥を流し込み、猛烈な速度で灰色の道を前へ前へと押し進めている。
「……そこまでだ! 貴様ら、マティアス様の許可なく何をしている!」
突如、土煙を上げて駆け込んできたのは、十数騎の武装した騎士たちだった。
胸に刻まれているのは、政治的空白となったアラインカプスに隣接するこの地を治める地方領主、マティアス・エルツの紋章。
彼らを率いる騎士隊長フェルディ・クライブは馬をいななかせ、抜き身の剣を日に煌めかせて工事の先頭に立ち塞がった。
「直ちに作業を止めよ! さもなくば反逆とみなし、斬り捨てるぞ!」
フェルディが怒声を張り上げる。
かつてであれば、その一喝だけで農民たちは震え上がり、泥に這いつくばって命乞いをしただろう。領主の剣とは、この土地における絶対の『法』なのだから。
しかし――。
「……退けよ、騎士様」
くぐもった声と共に前に出たのは、アピウスでもなければ、護衛の傭兵でもなかった。
手垢にまみれたシャベルを握りしめ、騎士たちの前に立ちはだかったのは、紛れもないこの領地の農民たちだった。
「なんだと……? 貴様ら、自分が誰に口を利いているか分かっているのか!」
フェルディが馬上で剣を振り上げる。
だが、農民たちは一歩も引かない。
それどころか、背後で作業をしていた者たちまでもが次々と前に歩み出て、騎士たちを半包囲するように立ちはだかった。
「分かってるさ。あんたたちはマティアス様の兵隊だ。……でもな、領主様は俺たちに、今日も明日も『粥』をくれねえだろうが」
先頭に立った初老の農民が、首から下げた『木札』を握りしめ、騎士の鼻先に突きつけた。
「この札があれば、俺たちは毎日、温かい飯が食える。……領主様の剣で俺たちを斬るってんなら、勝手にしろ。だが、この『道』の邪魔をする奴は、俺たちの命を奪う敵だ!」
「なっ……!」
フェルディは絶句した。
彼が見下ろしているのは、つい数日前まで、重い税に喘ぎ、泥をすすって生きていたはずの自分たちの領民だ。
それが今、得体の知れない木の札を握りしめ、血走った目で正規の騎士団に殺意を向けている。
「反逆だぞ……! 貴様ら、領主様を捨てるというのか!」
「領主様が、先に俺たちを捨てたんだよ!」
農民の怒号が響く。
一触即発の空気の中、アピウスがゆっくりと歩み出て、フェルディの馬の前に立った。
「……フェルディ隊長。剣を引け。お前たち十数人で、この数百の『飢えた獣』を斬り伏せられるとでも?」
アピウスの静かな覇気に当てられ、フェルディの顔から血の気が引く。
彼らは悟ったのだ。
自分たちの振りかざした『権威』という名の剣が、商会がもたらした『今日の飯』の前に、いとも容易くへし折られたことを。
「……く、退け! マティアス様に報告だ!」
フェルディが馬首を返し、騎士たちは逃げるように土煙の彼方へと去っていった。
* * *
「マティアス様! 一大事でございます!」
フェルディが息を切らして領主の館の広間へ駆け込んだ。
だが、悲鳴のような彼の報告は、広間に漂う異様な甘い香りによって遮られた。
「……あら、フェルディ様。お帰りなさいませ」
マティアスが座るべき上座のソファ。
そこで優雅に湯気を立てる紅茶を傾けていたのは、リールだった。
隣には、青ざめた顔で力なく項垂れる領主、マティアスの姿がある。
「な、お前はリール商会の……! マティアス様、これは一体!」
フェルディが剣の柄に手をかける。だが、マティアスは弱々しく首を横に振った。
「よせ、フェルディ……。もう、終わったのだ……」
リールは扇子で口元を隠し、テーブルの上に置かれた一枚の豪奢な羊皮紙を指し示した。
そこには、この領地の行政権と徴税権を一時的に商会へ委ねるという『統治委任の盟約書』に、マティアスのサインと血判がくっきりと記されていた。
「どういうことですか、マティアス様! 奴らは我が領地を勝手に荒らし、農民たちを唆して……!」
「荒らす? 人聞きが悪いですわね」
リールが冷ややかに微笑む。
「私はただ、薪も満足に買えないこの館に、温かい『食事』と『毛布』をお持ちしただけですわ。……そしてマティアス様は、明日から領民全員が温かい粥を食べられる『正しい道理』を選ばれた。それだけのことです」
フェルディは愕然と主君を見た。
マティアスの膝には、見たこともないほど豪奢で暖かな毛布が掛けられている。
彼は商会が突きつけた『便利さ』と『圧倒的な富』の前に、戦う前から屈服していたのだ。
「……私の領民たちに、もう手出しは無用ですわよ? 騎士様」
リールの声が、死刑宣告のように広間に響いた。
末端の農民たちは胃袋を掴まれ、頂点の領主は生活の質で買い叩かれる。
上下から挟み撃ちにされたこの小さな領地は、たった一日のうちに、一切の血を流すことなくリール商会の『歯車』へと組み込まれた。
広間の窓から、遠く荒野を見下ろす。
カァン、カァン、と。
湊が打つ杭の音が、微かに風に乗って聞こえてくる。
それは、古い国家の血管に毒が回り始めた、残酷で規則正しい秒読みの音だった。




