第53話 その境界、不可逆な進化の里程標につき
「……特使殿。兵たちの足取りが、随分と重いようだな」
「無理もありません、将軍。……彼らの視線の先を」
馬車の窓から外を覗き込んだガルム将軍は、忌々しげに舌打ちをした。
朝の配給所。
かつて難民と呼ばれていた者たちが、真新しい作業着を着て、首から下げた『木札』を揺らしながら、湯気を立てる肉入りのパンを受け取っている。
一方、帰還の途につく王国の精鋭兵たちは、手元の冷たく硬い干し肉と、労働者たちの熱い食事を交互に見比べ、絶望的な顔で立ち尽くしていた。
「ええい、早く乗れ! 出発だ!」
将軍の怒声に弾かれるように、兵士たちが慌てて整列する。
逃げるように走り出した馬車の扉を、将軍は乱暴に閉めた。
「……信じられん。たった数週間で、泥の野営地が石の城に変わるとは」
滑るように進む馬車の中で、ヴァルン特使が手元のグラスに赤ワインを注いだ。揺れ一つない液面が、彼らの敗北を静かに映し出している。
「将軍。我々は、とんでもない怪物を野に放ってしまったのでは……」
「……言うな。今はただ、王都へ戻って――」
ガァァンッ!!
「ぐあっ!?」
突如、馬車が激しく跳ね上がり、特使の手から宙を舞ったグラスが、将軍の軍服を赤く染め上げた。
「何をしている!」
将軍が窓枠を掴み、怒鳴りつける。
「ち、違います! 御者! 貴様、どこを走っている!」
「も、申し訳ございません! ですがここは、アラインカプス領の正街道でして……!」
窓の外から響く御者の悲鳴に、車内の二人は凍りついた。
外には、泥と石くれにまみれ、無数の轍が抉れた『いつもの道』が続いている。アルヴェアルの境界を越え、王国の管轄に入ったのだ。
ほんの数日前まで、この道こそが彼らの知る最も整備された『正街道』だった。
だが、一度あの滑らかな灰色の道を味わった今、この泥道の揺れは、内臓を直接殴られるような苦痛にしか感じられない。
「……道が、悪いだけです……」
青ざめた顔で座席にしがみつく特使。
将軍は濡れたズボンを握りしめ、自分たちがもう、あの『商会の道』なしでは生きられない身体になっていることを悟った。
*
「……無様に跳ねているわね。王国の馬車が」
フェリアの最も高い屋上。
吹き抜ける風の中で、リールは遠ざかっていく砂埃を見下ろして笑った。
「これで、第一段階は終わりよ」
彼女は日傘を閉じ、手元の地図を広げる。
「リールさん。次は、どうするんですか?」
隣に立つ湊の問いに、リールは地図の一点を扇子で叩いた。
「これまでは『器』を作ってきたわ。ここに来れば安全で、豊かになれると見せつけるためのね。……でも、ここから先は違う」
扇子の先が、アルヴェアルから伸びる街道沿いの、小さな地方都市のいくつかをなぞっていく。
「次は、私たちから彼らを飲み込みに行くわ。この『道』と『木札』の利権を使って、街道沿いの領主たちを一人ずつ商会の歯車に変えていくのよ。……毒を、国の末端の血管にまで流し込むわ」
湊は、眼下に広がるアルヴェアルの街並みを見下ろした。
朝の光の中、木札を下げた労働者たちが、新しい石材を運び出している。
『お前が杭を打つたびに、どこかの誰かの明日が、音もなく消えているのだと』
アピウスの声が蘇る。
自分が道を伸ばせば、古い村が死ぬ。
それでも、ここで止まれば、あの木札を握りしめて「今日のスープ」を待っている子どもたちは、再び泥の中に投げ出されて死ぬ。
「……同じように扱うしかないんだ」
湊は、誰に聞こえるでもなく呟いた。
「なあに、湊?」
「……次は何処に、杭を打てばいいですか」
自ら測量計を構え、真っ直ぐにリールを見つめる一人の子ども。
その瞳に、リールは最高の賛辞を送るように、満面の笑みで少年の肩を抱き寄せた。
第53話お読みいただきありがとうございます。
将軍たちが思い知らされたのは、剣や魔法による敗北ではなく、「一度知ってしまった便利さからは、もう逃げられない」という物理的な敗北でした。
ガタンと馬車が揺れた瞬間、彼らの守ってきた古い世界は、過去の遺物になってしまったのです。
ここまでが「器」を作る段階。
そして次回から、いよいよリールの言う「毒」が、街道沿いの領主たちを飲み込んでいく第2フェーズが始まります。
湊が次に杭を打つ場所はどこなのか、引き続きお付き合いいただければ幸いです!




