第50話「その対話、かつての勇者との境界につき」
夜の帳が下りたアルヴェアルの外縁。
完成したばかりの「新道」が、月明かりを反射して不気味なほど白く、真っ直ぐに森の深淵へと突き刺さっていた。
周囲の木々は不揃いに枝を伸ばし、泥濘は湿った闇を吸い込んでいるが、湊が作った灰色の道だけが、神が定規で引いたかのような無機質な清潔さを保っている。
湊は一人、まだ冷え切った路面の上にしゃがみ込んでいた。
昼間の熱気はとうに消え、指先から伝わるのは、石よりも硬く、逃れられない物理法則のように固まったモルタルの感触だ。
「……まだ、寝ないのか。子どもが夜更かしをすると、背が伸びんぞ」
背後から、低く、岩を砕くような声が響いた。
振り返ると、そこにはアピウスがいた。
かつて聖剣を手に世界を救ったという伝説の勇者は、今は酒瓶の代わりに、使い古された「シャベル」を手にしている。
彼は湊の隣に腰を下ろすと、布を取り出し、丁寧にその鉄の刃を磨き始めた。
シュッ、シュッ、という規則的な音が、夜の静寂を刻んでいく。
「アピウスさん……。あっちの村の灯火、昨日より少なくなっている気がします」
湊が指差した先。
新道から外れた暗闇の奥に、かつての宿場町だった村がある。
数日前までは、夜になれば旅人の篝火や宿屋の明かりが点々と見えていたはずだった。
だが今、そこにあるのは、死を待つ病人の吐息のような、数えるほどしかない弱々しい光だけだ。
「誰も、あっちを通らなくなった。……僕たちが道を作ったせいで」
湊は自分の小さな手を見つめた。
泥と木の脂で汚れ、ひび割れた子どもの手。
この手が木札を削り、この手が灰色の泥を流し込んだ。
助けたい、腹一杯食べさせたい、安全な場所を作りたい。
その純粋なはずの願いが、物理的な「直線」となって、何百年も続いてきた人々の営みを断ち切っている。
「……湊。私はかつて、剣を振るうことだけが救済だと信じていた」
アピウスは手を止めず、銀色に光るシャベルの刃を見つめたまま語り始めた。
「魔王を倒し、強大な魔物を斬り伏せれば、世界は光に満たされる。歌劇の中ではそう語られるな。だが、現実の戦場は違った。私が魔物を一体斬っている間にも、背後の村では飢えと病で、これくらいの、お前と同じくらいの子どもたちが、音もなく死んでいった」
アピウスの手が止まった。
その手は、かつて数多の命を救ったはずの手だ。
だが、今は岩を砕き、木を引き抜き、泥にまみれている。勇者の節くれ立った指先は、戦場ではなく「労働」によって黒ずんでいた。
「私の剣は、目の前の敵を殺すことはできたが、腹を空かせた者を満たすことはできなかった。……だが、お前の作ったこの灰色の川はどうだ。馬車は三日の距離を半日で駆け抜け、安全な街には毎日、山のような食料が届く。……私の剣が一生かかっても救えなかった数の命を、お前はこの数週間で救ってみせた」
「……でも、それは『選ばれた人』だけです」
湊の声が、夜風に震えた。
「札を持っている人、道を通れる人、アルヴェアルに住める人。……僕が道を作れば作るほど、そこから漏れる人が増えていく。僕のせいで、あの村のおじいさんは家を捨てて、ここへ来るしかなくなった。……僕のやっていることは、救済なんかじゃない。無理やり、世界を僕の都合で書き換えているだけだ」
アピウスはゆっくりと顔を上げ、湊を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、慈愛も、憐れみもなかった。
ただ、同じ地獄を潜り抜けてきた戦士だけが持つ、過酷な「敬意」があった。
「救うということは、救わないものを殺すと決めることだ。……湊、それは剣も道も変わらん」
「え……?」
「かつての私は、敵を斬ることで、その先にいる誰かの平和を選び取った。……そしてお前は、この『道』を引くことで、救済を選び、過去を切り捨てた。……手段が剣か道かというだけで、やっていることは同じだ。誰かを救うために、誰かの犠牲を当然として受け入れている」
アピウスは再び、シャベルの刃を磨き始めた。
「……私の剣が奪ったのは、魔物の命だけだった。だが、お前の『道』は、人々のこれまでの生き方そのものを根こそぎ奪い、塗りつぶしていく。……湊、お前は私よりも、ずっと残酷で、ずっと正しい『救世主』だよ」
残酷な救世主。
その言葉が、湊の心に、固まったばかりのモルタルのような冷たさで染み込んでいった。
「昔は、村が道を待っていた。今は、人が道に合わせて生き方を変えている。……自覚しろ。お前が杭を一本打つたびに、どこかの誰かの明日が、音もなく消えているのだと」
アピウスは立ち上がり、シャベルを肩に担いだ。
「怖ければ、止まればいい。……だが、お前が止まれば、今この瞬間、木札を握りしめて『明日』を信じている子どもたちは、全員死ぬぞ。……それが、お前の選んだ『管理』という名の責任だ」
アピウスは一度も振り返らず、夜のアルヴェアルへと戻っていった。
残されたのは、月光に照らされた白い直線と、その上にぽつんと座り込む一人の子どもだけだ。
湊は、自分の足元の路面を強く叩いた。
手応えはない。ただ、圧倒的な「硬さ」があるだけだ。
一度敷かれた道は、もう泥には戻らない。
一度配られた木札は、もうただの薪には戻らない。
遠くで、夜鳥の鳴き声が聞こえた。
それは、新道の明かりに追われた鳥たちの、居場所を失った悲鳴のように聞こえた。
湊は震える手で、ポケットの中にある「刻印済みの木札」を握りしめた。
その縁は、いつの間にか、指を切りそうなほど鋭く、重くなっていた。




