第47話 その施し、善意の暴走につき
「はい、熱いので気をつけてくださいね。少しずつ、ゆっくり食べてください」
拠点の片隅に急造された配給所。
湊は湯気の立ち上る大鍋の前で、一人ひとりに木皿を差し出していた。
柵の向こう側の凄惨な光景。
それを見過ごすことができず、湊はリールに「廃棄予定の端材の有効活用」を提案し、自ら泥にまみれて無料の炊き出しを始めたのだ。
最初は、理想に近い光景だった。
「ありがとうございます」
スープを啜り涙を流して笑う子供。
その笑顔に、湊は自分の正しさを確信し、わずかながらに胸をなで下ろしていた。
だが、その平穏は三日と持たなかった。
「……湊。もうやめた方がいい。これ以上は、手に負えなくなる」
護衛依頼され隣に立つナノが、低く、警告するような声を出す。
柵の向こう側から押し寄せる難民の数は、湊の想像を絶する速度で膨れ上がっていた。
「あそこに行けばタダで飯が食える」という噂は、飢えた人々にとって、どんな道理よりも早く、深く浸透したのだ。
その弊害は、瞬く間に拠点の『道理』を破壊し始めた。
「湊様! お願いです、炊き出しを中止してください!」
列の脇から飛び出してきたのは、拠点の外で屋台を引いていた行商の老人だった。
「どうしたんですか? あなたもスープを……」
「これじゃ商売あがったりだ! あんたがタダで配るせいで、俺の安物の中身のない煮物が、一皿も売れなくなった! 仕入れた野菜が腐っちまう……家族が飢え死にするんだよ!」
「そんな……俺は助けたくて……」
絶句する湊を置き去りにするように、配給の列から怒号が響いた。
「俺の方が先だ!」
「そのガキはさっきも食っただろうが!」
もはやそれは、秩序ある列ではなかった。
「出し惜しみしてんじゃねえ! 奥にある肉を全部出せよ!」
一人の男が柵を乗り越え、湊の胸ぐらへと掴みかかろうとした。
湊が身をすくませた瞬間、ナノが閃光のように動いた。
彼女の拳が男の顎を叩き割り、泥の中に沈める。
周囲の暴徒たちが一瞬怯むが、空腹に理性を焼かれた群衆は、獣のような唸り声を上げて湊へと殺到しようとした。
ナノは湊の前に立ち塞がると、短剣を抜き放ち、地面に一線を引いた。
「やめろ。湊の優しさをドブに捨てる気か」
凍りつくような声だった。
ナノの視線は、暴れる群衆を数えるように左右へ動いた。
「お前ら、湊の名前も知らないだろ。湊に名前を名乗った奴も、一人だっていない。……ただの『スープが出る道具』だと思ってる名無しの塊が、湊に触れるな!」
その言葉が、湊の脳裏に鋭く突き刺さった。
――名無しの塊。
目の前にいるのは、個人ではない。
自分が誰であるかさえ証明しようとしない、匿名という名の底なしの食欲。
誰も名乗らない
。
けれど全員が、「自分が先だ」とだけ叫んでいた。
「……ナノ、もういいです。火を止めてください」
「湊……?」
「全員は救えません。……だから、『誰を救うか』を俺が決めなきゃいけないんです」
湊は、足元に転がっていた薪の端材を拾い上げた。
ナノの言った「名無し」という言葉の裏返し。
それは、個人の特定。管理。そして、非情な選別。
「……今この場にいて、名前と出身を言える人だけに、この木に俺の『刻印』を入れて渡します。明日からは、その札を持っている人にしかスープは出しません」
それは、救済の証ではなかった。
木札を持たない者を、正当に見捨てるという「管理社会」の誕生だった。
* * *
数時間後
暴動が鎮まったテラスで、湊は泥に汚れた自分の手を見つめていた。
「……一度『無料』を始めると、人はそれ無しでは生きられなくなるのよ。湊」
背後から、リールの扇子を叩く冷ややかな音が聞こえた。
「これを止めたら暴動が起きます。食料が尽きても、もう配給は止められません。……どうすれば良かったんですか、リールさん」
「止めるなら、最初から救わないことよ。……それが出来ないから、あなたは危険なのだけれど」
リールは湊の隣に並び、暗闇の奥に群がる「札を貰えなかった影」を見下ろした。
「よくみておきなさい、私たちは何かの犠牲の上で生きているの。あなたも『支配者』として自覚していきなさい」
湊は答えなかった。
足元から立ち上る温かいスープの匂いが、今の湊にはどうしても、「こちら側」の人間だけを選別する残酷な香りに思えた。
「同じように助けるには……同じように扱うしかないんだ」
湊の呟きは、夜風に消えた。
子供たちは、首から下げた木札を握ったまま眠っていた。




