第43話 その安寧、最強を穿つ毒につき
いよいよ新章、第3章「二人の魔王編」のスタートです
第2章の最後で、「魔王」として歩む覚悟を決めた湊。
そんな彼とリールの前に現れたのはある男でした。
二人の魔王が、今後どう動いていくのかどう塗り替えていくのか。
それでは、新しい時代の産声をお楽しみください。
かつて、世界を破滅から救った一人の男がいた。
勇者アピウス。
彼は民を愛し、世界を守るため、ただその一振りの剣に命を懸けて戦い抜いた。
魔物が跋扈し、絶望が蔓延した旧時代。
人々が泥水を啜り、神に祈るしかなかった暗黒の数十年を、彼はその身を盾として支え続けたのだ。
彼が魔王を退けるたび、民は涙を流して彼を拝み、その背中に「救世」の夢を見た。
その男は今、復興の煙が上がるアラインカプスの門の前で、かつてない困惑に立ち尽くしていた。
「……石鹸? 温水だと……? 何を言っているのだ、貴様らは」
勇者の声は、低く、しかし困惑に震えている。
目の前に広がるのは、魔王の呪いによる死体安置所ではない。
瓦礫を片付け、互いに「汚れ」を落とし、かつて神に祈っていた時間を「掃除」と「労働」に充てる、活力ある民衆の姿だった。
「勇者様、ようこそ。……平和な世界では、その剣は少しばかり『騒がしい』ですね」
民が声をかけると、アピウスは抜く寸前の聖剣の柄に手をかけた。
アピウスの覇気が、広場の空気をピリつかせる。
「……魔王に唆されたか。リール・リヴォルト! 出てこい! 領民に何を植え付けた!この異様な空気、そして……神の権威を貶める不遜な『泡』。これは精神を蝕む呪いに他ならない!」
アピウスは確信していた。
民が神を忘れ、これほどまでに活気に溢れているのは、魔王の強烈な精神支配があるからだ、と。
彼は救世主として、その「支配の核」を壊さなければならない。
彼の正義は、そう命じていた。
「呪いなんて、人聞きの悪い。……勇者様。それは、ただの『安息』を提供しているだけよ」
リールが扇子で口元を隠し、冷徹な瞳で勇者を見据えた。
「今の民には、貴方の振るう武勇なんて、腹の足しにもならないのよ。……さあ、イベリー。この『旧時代の遺物』に、現実を教えてあげなさい」
イベリーが無言で前に出る。
かつては勇者の影に怯えていたはずの少女は、今や「生活」を守る者の鋭い眼光を、かつての英雄に突きつけていた。
「勇者様。そこにある『火焚き場』を壊すのはやめてください。私たちが、やっと手に入れたお湯なんです」
「……どけ、娘! 貴様は操られているのだ! この湯に浸かれば、人は戦う意志を奪われ、魔王に魂を売り渡すことになる!」
アピウスは聖剣を抜き放った。
その閃光が、瓦礫から組み上げられた粗末な、しかし人々にとって宝物である給湯設備を切り裂こうとした――その時。
「……何してんだ、お前っ!!」
叫んだのは、湊でもリールでもなかった。
工房で煤まみれになって働いていた、かつての「弱き民」の一人だった。
「それを壊したら、明日からの飯はどうなるんだ! 子供たちの体を洗うお湯はどうするんだよ!」
「落ち着け、民よ! 私はあなたたちを救いに……」
「救う!? お前なんかいなくても、俺たちは今、幸せなんだよ! お前が魔物と戦ってる間、俺たちは泥水を啜って、子供が死ぬのをただ見てるしかなかったんだぞ!」
(……クッ!いや、まだ操られているんだ! 苦し紛れに石を投げているだけなんだ!)
一人の罵倒が、連鎖を引き起こした。
「剣しか持たないあんたなんて、今のここにはいらないわ!」
「平和な世界で何の役にも立たない欠陥品め! 帰れよ!」
「特別な力を持ってただけの凡人野郎が、俺たちの邪魔をするな!」
投げられたのは、魔石でも魔法でもない。
道端に転がっていた、ただの石。
そして、最も鋭い言葉の刃だった。
「……っ……なぜだ。なぜ、あなたたちを守るために戦ってきた私を拒む……」
アピウスの聖剣が、震える。
彼は魔物を斬ることはできた。
だが、「自分が救おうとした民」に石を投げられ、全存在を否定されることへの防御術式など、神殿の誰も教えてくれなかった。
「……アピウス様。これが、あなたが命をかけて守りたかった『平和な暮らし』の姿ですよ」
湊の声は、どこまでも冷酷だった。
自分が信じてきた「正義」という自己イメージが、目の前の民衆の「敵意」という現実に衝突し、修復不可能なほどに粉砕されていく。
「……あ、ああ……」
聖剣が、石畳に落ちて高い音を立てた。
最強の男の膝が、崩れる。
彼は悟ってしまった。
自分が戦い続けた数十年の価値が、この街の「銀貨一枚の安息」に負けたことを。
アピウスはもはや、聖剣を握る気力すら持たない。
彼を支配しているのは、どれだけ正義を尽くしても報われないという「学習性無力感」。
そして、自分が最も愛した民から「不要」と断じられた絶望。
「勇者様。……いいえ、アピウスさん」
リールが、蹲る男の前に立ち、終わりのない負債を記した羊皮紙を広げた。
「貴方はもう、特別な存在じゃないわ。……ただの、力自慢の凡人。……ねえ、これからの人生、その余った腕っぷしで私たちの下水を掘って、これまでの『救世の費用』を返していかない?」
アピウスは、もはや反論する力もなかった。
『勇者としての死。』
彼は、民衆の罵声を逃れるように、リールが差し出した「凡人としての労働」という名の、惨めな救いへと手を伸ばした。
旧時代の魔王に勝ち、新時代の魔王に負けた男は、泥にまみれ力仕事でその日を生きるのだった。




