【第0話】 その絶望、冷徹なる箱庭の幕開けにつき
【※注意】
このエピソードは、第2章までの構想を練る中で、最初期に完成していた物語です。
ですが、本編開始前に公開すると、「この世界」と「ある人物」の見え方が大きく変わってしまうため、第2章完結後まであえて封印していました。
本編の重大なネタバレはありません。
ただし、ここから読み始めた場合と、第2章読了後に読んだ場合とでは、同じ台詞でもまったく違う意味に見えるかもしれません。
* * *
数ある作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございます。
今回は、本編第4話で主人公・湊と出会う以前――
『エピソード0』
リール・リヴォルトの前日譚をお届けします。
「弱小商人」に過ぎなかった少女が、魔法という理不尽が支配する世界で、いかにして成り上がったのか。
これは、後に「資本主義の魔王」と呼ばれる女の、冷徹で歪んだ『救済』の始まりの物語です。
アラインカプスの裏路地は、いつもジメジメしていて、カビ臭い空気がよどんでいる。
「……ですから。この表の通りに荷を分ければ、馬を潰さずに明後日には届けられるのです。道理は通っているはずですわ」
リール・リヴォルトは、商家の勝手口で必死に食い下がっていた。
安物の生地を染めただけの濃紺の商人装束。
一糸の乱れもシワもなく、彼女の細身の身体に馴染んでいる。
短く切りそろえられた金色のくせ毛の下、氷のように冷たい水色の瞳が、使用人を見据えていた。
「おいおい。小娘が、ウチの旦那に指図する気か?」
リールが何日も徹夜して書き上げ差し出した羊皮紙を使用人は鼻で笑い指先で弾いた。
「荷車の重心? 馬の歩幅? バカバカしい。そんなものを気にするのは、魔法の光に触れることもできない『持たざる者』の無駄な足掻きよ……ほら、あの「お方」を拝め」
使用人が顎で示した先。
商家の奥にある質素な木製の椅子に、一人の男がふんぞり返っていた。
男が指をパチンと鳴らすと、庭の池の水が龍の形を成して空へ舞い上がる。
「……ッ」
リールは、その光景を冷徹に見つめていた。
「おお……!」
「さすが魔法使い様だ!」
周囲が感嘆の声を上げる中、彼女の脳内にあるのは、その「奇跡」を維持するために消費されている魔力回復薬のコストと、非効率な示威行為への嫌悪だけだった。
(魔法なんて不安定な個人の力に頼るから、物流が滞るのよ。あんな気まぐれな輝きに、一国の経済を預けるなんて正気じゃないわ)
リールの目には、その男は「制御不能なくせに燃料だけを食い潰す炉」にしか見えなかった。
「金貨百枚だ。今の『魔法』で道は開けた。明日には荷は着くぞ」
男が傲慢に言い放つ。
それは、リールが提示した費用の数十倍という法外な金額だった。
しかし使用人は、恭しく頭を下げる。
「ご苦労だったな。小娘、その『ゴミ』は持ち帰れ。」
(……あんな何の計算も努力もなく、神様の気まぐれで与えられた力で悦に浸っている連中なんて、大嫌いだわ……)
リールは心の中で、吐き捨てるように呟いた。
* * *
屋敷を追い出されたリールの足元で、泥水が跳ねる。
魔法の恩恵を待つだけの停滞した世界。
「……うぅ……あつ、い……」
ふと、路地裏の隅で、泥水にまみれてうなされている子供の姿が目に留まった。
その隣では、痩せこけた青年が通行人に必死に声をかけている。
「水、水はいりませんか……! 飲み水を出せます、どうかパンの耳を……っ」
青年が虚空に手をかざすと、指先からチョロチョロと、シャワー程度の勢いの水がこぼれ落ちた。
リールは歩みを止め、路地裏にうずくまる彼らを見つめた。
魔力を持って生まれてくるのはおおよそ三割の人間。
路地裏には、魔力を持ちながらも使い道を与えられなかった者たちが、腐った木箱のように積み重なっていた。
力が弱すぎる者。
力に身体が耐えられない者。
この世界では、そういう人間を誰も拾わない。
リールの目には、うずくまる青年が「使い潰されるだけの資源」にしか見えていなかった。
リールの脳内で、冷徹な算盤が弾けるような音がした。
「……あなた。その魔力、私に売りなさい」
「え……?」
リールは青年の汚れきった手を、迷いなく握りしめた。
その指先は、哀れみで震えることもなく、ただ掘り出し物の原石を鑑定する商人のように硬く、そして確実だった。
「私が『保護』してあげる。精神が焼き切れる一歩手前で交代させるわ。溢れて毒になっている魔力を抜き取りながら、私の商会で働きなさい。……代わりに、毎日温かいパンと安全な寝床を保証してあげるわ」
「……パン……本当に、もらえるんですか?」
「ええ……冷徹な悪魔にでも救われたと思って、契約を結ぶ気はあるかしら?」
青年は、絞り出すような声で「お願いします」と泣いた。
リールは、路地裏にうずくまる魔力持ちたちへ視線を向けた。
使い道もなく、ただ壊れていくばかりの力。
その光景を見た瞬間、彼女の中で何かが噛み合った。
(これよ。才能という名の呪いに縛られたこの子たちを『管理』すれば、私の商会はどんな魔法使いの気まぐれも超える絶対的な力を手にする……)
* * *
数年後。
リールは「見捨てられた者」の魔力を安価に束ね、独自の物流網を築くことで、ついに「商会長」の肩書きを手に入れていた。
商会長室の窓からアラインカプスの街を見下ろすリールの瞳は、相変わらず冷え切っていた。
(……限界ね。どれほど管理を徹底しても、『魔力の使用』による疲労だけは回復薬では癒せない。魔法という非効率な『ルール』に縛られている限り、私はあいつらを永遠に追い越せないわ)
そんな時だった。
情報屋が、戸を叩く音も荒く飛び込んできたのは。
「リールさん! 貧民街に妙な噂が流れています! 魔法を使っていないのに、信じられないような効率で『不可能を可能にしている少年』がいると……!」
リールの手が、ピタリと止まった。
「……魔法を使っていない? そんなことがあり得るかしら……」
「はい! 詳しいことは分かりませんが、あいつのやり方は聞いたことないですよ! 魔法なんて使わねえのに、こびりついた汚れを根こそぎ剥ぎ取っちまう。まるで、世界の汚れを『定義し直してる』みたいだって評判です!」
手に持っていた羽ペンが、机の上に転がった。
ゆっくりと、己の手で口元を覆う。
「……すぐに行くわよ。馬車を用意しなさい」
「会長? 商談の約束の時間が……」
「そんなもの、後回しよ。わからないの?」
リールの氷のような水色の瞳に、おぞましいほどの独占欲が宿る。
「あれは、この腐った世界のルールをぶっ壊すための……最高の『エサ』になるかもしれないわ」
リールは、まだ見ぬ少年の姿を思い浮かべ、ゾクゾクするような高揚感に震えた。
(……待ってなさい、私の救世主。あなたを誰にも渡さない。その『手段』も、心も、ぜんぶ私が飼い慣らしてあげる……)
雨上がりの裏路地で、リールは、後に世界を変えることになる少年のもとへ向かっていた。
番外編『第0話』をお読みいただき、ありがとうございます。
本作のヒロインである、リール・リヴォルト。
彼女がまだ「何者でもなかった」頃の、小さな始まりのエピソードです。
この世界において、魔法は絶対的な奇跡です。
ですが、その奇跡には常に「精神の摩耗」という残酷な対価がつきまといます。
どれほど計算し、どれほど努力しても、最後は魔法という理不尽に跪かなければならない停滞した世界。
そんな中でリールが耳にした、「魔法を使わずに不可能を可能にする少年」の噂。
リールが求めたのは、単なる利益か、それとも――
魔法という絶対の秩序に風穴を開ける、新しい「支配」だったのか。
現代知識という異物が、この世界をどう変えていくのか。
引き続き見届けていただければ幸いです。




