第37話 その安全、検印の抜け道につき
深夜。
オルメイの工房では、湊が一点を見つめ、ペンを走らせ続けていた。
作業台の上には、街中の冷却コアに刻み込んだ『安全基準』の原盤が置かれている。
「……湊、もういいだろ。街の中継器は全部、俺とエレナで冷やして回った。一度、全員寝ようぜ」
煤で顔を汚したガトが、痛々しそうに湊の肩を叩く。
だが、湊はその手を振り払うことすらできぬほど、術式の海に沈んでいた。
「……いや。リールさんの鼻柱を叩き折るまで、俺の夜は明けない。……リールさんは、あの『検印』をただの品質保証だと思っている。でも、設計した俺からすれば、あれは中継器から個別の端末を制御するための『抜け道』なんだ」
湊は、現代のソフトウェアアップデートの概念を、異世界の魔導術式に無理やり当てはめようとしていた。
「……いくよ。今から、ルールを『上書き』する」
湊が練り上げた執念の魔力が原盤に染み込み、魔力の通り道を通じて街中へ広がっていく。
それは一軒一軒のテントに「節度」という呪いを強制する、気の遠くなるような作業だった。
* * *
翌朝。
難民街を包み込んだのは、かつてない怒号と困惑だった。
「おい、全然冷えねえぞ! リール商会、詐欺じゃねえか!」
「最初は涼しいんだが、すぐに風が弱くなる! 使い放題って言っただろ、金返せ、嘘つき女!」
リール商会の出張所には、怒り狂った数百人の群衆が押し寄せていた。
昨日まで「聖母」と崇められていたリールは、今や「詐欺師」として吊るし上げられようとしていた。
バァン!! と工房の扉が激しく蹴り開けられる。
「どういうことかしら、湊ォ!!」
優雅な扇子は見る影もなく、リールが吠えた。その肩は怒りと焦燥で震えている。
「私の製品が本来の力を出せていないわ。あなたが魔力を絞っているのでしょう? 契約違反よ、卑怯な真似はやめて今すぐ元に戻しなさい!」
だが、湊は椅子に深く腰掛けたまま、徹夜明けの血走った瞳でリールを射抜いた。
その唇の端には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「リールさん、契約書を読み直してください。俺は『安全に魔力を供給する』と約束した。そして、その安全を定義するのは管理側である俺たちの独占権だ。二十四時間フル稼働なんて、道具にとっても街にとっても『異常事態』ですよ。異常な負荷を検知したから、自動で『安全な強さ』まで出力を落とした……ただそれだけの話です」
「……っ! 屁理屈を! 出力を落とせば冷えないわ。冷えなければ、客は私を嘘つきだと罵る! 今この瞬間も、返金を求める暴徒が私の店を囲んでいるのよ!」
「それは、無責任な広告で『使い放題』なんて謳った、商売人であるあんたの自業自得だ」
湊は冷めきった窓の外を指差した。
「いいですか、リールさん。元に戻せば、中継器が火を噴いて難民街は火の海になります。さあ、選んでください。返金騒動で商会の信用を失うか、街を焼き尽くして賠償金で商会を潰すか……どっちがいいですか?」
「…………ッ!!」
その時、工房の外から、怒鳴り声が飛び込んできた。
「ふざけんな! 使い放題って言ったのはそっちだろ!」
「そうだ! 冷えないなら金返せ!」
「ギルドがわざと絞ってるんじゃねえのか!?」
リール商会に詰め寄っていた難民たちの一部が、今度は工房へ押しかけようとしていた。
だが、その時だった。
「――やめろ!!」
怒号を裂くような声が響いた。
振り返った群衆の先には、汗だくのガトがいた。
肩には焼け焦げた中継器を担ぎ、腕には火傷の跡がいくつも走っている。
「お前らが寝てる間、俺たちはずっと街中を走り回ってたんだぞ……!」
その後ろでは、エレナがふらつきながら予備回路を抱えていた。
青白い顔。
魔力切れ寸前なのは誰の目にも明らかだった。
「……このまま無茶な使い方を続けたら、本当に線が焼き切れるの。そしたら冷えないどころか、火事になるんだよ……!」
ざわついていた群衆が、少しずつ静まり返っていく。
やがて、一人の老人が気まずそうに帽子を握り締めた。
「……俺たち、涼しいのが当たり前だと思ってた」
誰かが、そっと冷却コアのスイッチを切る。
カチリ。
その小さな音は、不思議なほど大きく響いた。
「……悪かった、マスター」
それをきっかけに、周囲でも次々とスイッチが落とされていく。
窓の外には、昨夜までスイッチを入れっぱなしにしていた住民たちが、バツが悪そうに立っていた。
「ガトさんやエレナさんが、一晩中走り回ってるのを見た。……俺たち、感謝もせずに無駄遣いしてた」
「……ごめんね、マスター」
住民たちが自発的に冷却器のスイッチを切っていく。
その小さな音が、リールの敗北を決定づけた。
「……ガト、エレナ。術式が届かなかった残り一割、手作業での調整を頼む。……救いたいのはリールさんじゃなく、そこにいる住民たちなんだ」
「おう、任せろ! 仕上げは職人の泥臭い仕事ってのが、結局一番しっくりくるぜ!」
工具袋を担いで元気に駆け出していく仲間たち。
湊は、完敗を認めて震えるリールを横目に、ようやく深く、椅子に背を預けた。
* * *
リールは、一度も振り返ることなく工房を後にした。
広場に出ると、眩しい朝日が彼女の冷徹な横顔を照らす。
そこには先ほどまでの激昂は微塵もなく、ただ冷ややかな「計算」だけが瞳の奥で明滅していた。
(……道が狭いのなら、道を通らなければいいのよ……)
リールは魔石を握りしめ、静かに微笑んだ。
* * *
湊は、重い瞼を閉じた。




