第2話 その熱狂、渇望につき
「……嘘だろ。これがこの街一番の宿なのか?」
アラインカプスの宿屋の一室で、俺は絶句していた。
案内された部屋は薄暗くて埃っぽい。何より耐えられなかったのは、自分の体から漂う、逃走劇でかいた汗と泥の混じった不快な臭いだった。
「ナノ、風呂はどこだ? 湯船に浸かりたいんだけど」
「フロ? ……ああ、身体を清める儀式のことか。そんなもの、大きな神殿か貴族の館にしかないぞ。ほら、これで拭け」
差し出されたのはボロ布と冷めた水の桶。この世界の住人は、表面の汚れを拭うだけで済ませているらしい。
「いや、無理! 汚れを拭くだけじゃ脂が落ちないんだ。……なあナノ、せめてお湯を沸かして、大きな桶に入って浴びるくらいはできないのか?」
「何を言っている。薪も水も貴重なんだぞ。汚れを拭く以上の水を使えるのは、大きな神殿か貴族の館くらいだ。……嫌なら、雨でも降るのを待つんだな」
この世界の「当たり前」を突きつけられ、俺はベッドの端に座り込んだ。現代の快適さを知っている俺には、この不潔さは死ぬより辛い。このまま、一生ベタベタした体のまま過ごすのか? そんなのは御免だ。
「……ナノ。火と土を扱える場所を教えてくれ。俺、このままじゃ正気でいられない」
「……ついてこい。偏屈だが、腕のいい知り合いがいる」
街の端にある煤けた工房
「おい、オルメイ! いるか?」
ナノが声をかけると、奥から横幅が異様に広い、頑固そうなドワーフが顔を出した。
「なんだ、ナノか。また剣でも折ったのか?」
「今日は連れを紹介しに来たんだ。……湊、こいつはオルメイ。火の扱いにうるさいドワーフだ」
俺は一歩前に出て、オルメイさんに厚みのあるレンガの試作を頼み込んだ。ドワーフのプライドを刺激された彼は、「やってやろうじゃねえか」と不敵に笑い、粘土を捏ね始めた。
「よし、焼き上がるまで時間がかかる。適当に時間を潰してきな」
オルメイさんの言葉に、ナノが俺を促した。
「湊、少し『解体屋』へ付き合え。今日狩ったワイルドボアを解体してもらうんだ。」
たどり着いたのは、血と獣の匂いが漂う活気ある一角だった。
「おい、カルスさんはいるか!」
ナノが声をかけると、奥から大きなナイフを持った大男が出てきた。
「おお、ナノか。また大物を仕留めたな」
「ああ。……それとカルスさん、こいつは湊だ。わけあって私が面倒を見ている」
「初めまして、汐見湊です。しばらくこの街でお世話になります」
「湊、か。丁寧な挨拶だな。俺はカルス。こっちで仕分けをしてるのが娘のイベリーだ」
紹介された先を見て、俺は思わず目を瞬かせた。
無骨な解体場には不釣り合いなほど、その少女は可憐だった。
背中まで届く艶やかな紫の長髪を後ろで緩く束ね、白い肌には少しばかり返り血が飛んでいる。俺と同じか、少し下くらいの年齢だろうか。
伏せられた睫毛が長く、おとなしそうな印象だが、肉を捌く手つきは迷いなく正確だった。
「……あ、どうも。イベリーです」
彼女は少し人見知りなのか、手を休めずに小さく会釈した。その手元には、廃棄される予定の真っ白な脂身が山積みになっている。
(真っ白な脂……待てよ。ワイルドボア……猪……あの脂身!)
俺の頭の中で、バラバラだった知識が一つに繋がった。
「なぁナノ、そのボアの脂身、少し分けてほしいんだが」
「脂身? そんなもの、ギトギトして食えたもんじゃないぞ」
「そうだよ。欲しけりゃ持っていきな。……おっとそうだ、イベリー。お前、ちょうどいいところへ」
カルスさんが、仕分けをしていた娘を呼び止めた。
「ちょうどオルメイさんのところに、研ぎ直してもらった包丁の代金を届けなきゃいけなかったんだ。湊さんたちについて行って、渡してきてくれ」
「えっ……。はい、わかりました。……あの、湊さん。よろしくお願いします」
人見知りのイベリーが、小さな声で頭を下げる。こうして、バケツ一杯の脂身とイベリーを連れて、俺たちは再び工房へと戻った。
数時間後。工房の隅で、俺はイベリーが「何に使うんですか?」と不思議そうに見守る中、ボアの脂と木灰を鍋で煮詰めていた。ちょうどその時、窯から石のように重厚な「分厚い試作レンガ」が取り出された。
「……信じられん。本当に焼けやがった。だが湊、この重い塊……どうやって固定するんだ? 積み上げたら、重みですぐに崩れちまうぞ」
オルメイさんは困惑していた。厚いレンガを自立させる積み方も、強固な接着方法も、この世界にはまだ存在しないのだ。
「え? 適当に糊みたいなやつで……。」
「バカ言え! お前の作ったこの『厚い塊』は重すぎるんだ。漆喰が固まる前に次のを乗せたら、重みで全部はみ出しちまう。……いつも通りのやり方じゃ、こんなもんで建物なんて作れねえよ」
俺は言葉を詰まらせた。
(……待てよ。動画で見たことあるぞ。砂と水、それに『グレーの粉』を混ぜて、ガチガチに固めていたやつ……)
だが、そのグレーの粉が何なのか、どう作るのか、俺には思い出せなかった。
「……鉄の鍋を据えれば最高だと思ったんだけど、前途多難だな」
「テツ? なんだそれは。新しい青銅の混ぜ方か? ……湊、お前は面白いが夢見すぎだぜ」
「あはは、……接着方法については、ちょっと考えさせてよ。でも、今日はお風呂はお預けだ」
俺は誤魔化すように、完成したばかりのクリーム状の液体を木皿に取った。
「ま、フロは無理でも、こいつの効果だけは試してくれ!」
半信半疑のまま、ナノがボアの返り血で汚れた手を桶の水に浸し、それを塗り込む。
「……ん? なんだこれ。脂なのに、白くなった?」
冷たい水の中で、茶色かった獣脂が、見たこともない「真っ白な泡」へと姿を変えた。
「なっ……!? なんだこの泡は! 雪のように白いぞ!?」
ナノの驚愕の声に、横で見ていたイベリーが息を呑む。
水で手を流すと、頑固な汚れも臭いも完全に消え去り、驚くほど清潔になったナノの手が現れた。
「……落ちている。脂の臭いも、ベタつきも一つもない。魔法も使わずにこれほど落ちるなんて……」
ナノとオルメイが呆然とする中、俺はそっとイベリーを見た。
彼女は、自分の家で捨てられていた脂身が、これほど美しく、価値のあるものに変わった瞬間を、食い入るように見つめていた。
「あはは、俺の故郷じゃ常識だよ。」
風呂はまだ先だけど、俺の「ありふれた知識」がこの世界を驚かせた。
(俺が、この世界の歴史を進めてやるんだ)
俺の心は、得体の知れない全能感に満ち溢れていた。
読んでいただきありがとうございます。




