第2話 その熱狂、渇望につき
「……嘘だろ。これがこの街一番の宿なのか?」
アラインカプスの宿屋の一室で、湊は絶句していた。
案内された部屋は薄暗く、壁際には埃が積もっている。寝台も硬い。
だが何より耐えられなかったのは、自分の身体から漂う臭いだった。
逃走劇で浴びた汗。泥。血。獣臭。
全部が混ざり合い、鼻を突く。
「ナノ、風呂はどこだ? 湯船に浸かりたいんだけど」
向かいで干し肉を齧っていたナノが眉をひそめた。
「フロ? ……ああ、身体を清める儀式のことか。そんなもの、大きな神殿か貴族の館にしかないぞ。ほら、これで拭け」
差し出されたのは、冷めた水の入った桶と、使い古されたボロ布だった。
「いや、無理!」
湊は思わず立ち上がった。
「汚れを拭くだけじゃ脂が落ちないんだよ! せめて湯を沸かして浴びるくらいできないのか?」
「何を言っている。薪も水も貴重なんだぞ」
ナノは呆れたように肩を竦める。
「……嫌なら雨でも降るのを待つんだな」
この世界の当たり前を突きつけられ、湊はベッドの端へ崩れ落ちた。
(終わった……。風呂もない世界とか、正気で生きられない……)
「……なあナノ。火と土を扱える場所を教えてくれ」
「何をする気だ?」
「風呂を作る」
ナノが真顔で固まった。
「……は?」
「この臭いのまま寝ろってのか!? 無理だ! せめて湯だけでも浴びたいんだよ!」
数秒の沈黙。
やがてナノは深く溜息を吐いた。
「……ついてこい。偏屈だが、腕のいい知り合いがいる」
* * *
街の端にある煤けた工房へ、ナノは湊を連れてきた。
「おい、オルメイ! いるか!」
怒鳴ると、奥から横幅の異様に広いドワーフが姿を現した。
「なんだ、ナノか。また剣でも折ったのか?」
「今日は連れを紹介しに来た。……湊、こいつはオルメイ。火の扱いにうるさいドワーフだ」
「初めまして、湊です。……一つ、試してみてほしいことがあるんですが」
湊は地面に枝で図を描き始めた。
厚みのある焼き固めたブロック。
熱を閉じ込める炉。
その上に据え付ける巨大な鍋。
オルメイは腕を組み、しばらく図面を睨んでいた。
「……なるほどな。鍋を乗せても崩れねえ土台が欲しいのか」
「はい。熱にも強くしたいんです」
「面白え」
オルメイはニヤリと笑った。
「やってやろうじゃねえか」
そして窯を指差す。
「焼き上がるまで時間がかかる。適当に時間を潰してきな」
「湊、少し『解体屋』へ付き合え。今日狩ったワイルドボアを解体してもらう」
* * *
たどり着いたのは、血と獣臭が混ざる騒がしい一角だった。
「おい、カルスさんはいるか!」
ナノが声を張ると、奥から大きなナイフを持った男が出てくる。
「おお、ナノか。また大物を仕留めたな」
「ああ。……それとカルスさん、こいつは湊だ。わけあって私が面倒を見ている」
「初めまして、汐見湊です」
「湊、か。俺はカルス。こっちで仕分けをしてるのが娘のイベリーだ」
紹介された先を見て、湊は思わず目を瞬かせた。
無骨な解体場には不釣り合いなほど、その少女は可憐だった。
紫色の長い髪。
白い肌。
伏せられた長い睫毛。
だが、肉を捌く手つきだけは迷いなく正確だ。
「……あ、どうも。イベリーです」
イベリーは少し人見知りなのか、小さく会釈した。
その手元には、廃棄予定らしい真っ白な脂身が山積みになっている。
(……待てよ)
湊の視線が止まる。
猪の脂。
木灰。
アルカリ。
(石鹸……!)
「なぁナノ。その脂身、少し分けてほしい」
「脂身? そんなもん食えたもんじゃないぞ」
「欲しけりゃ持っていきな」
カルスが笑う。
「……おっと、そうだイベリー。オルメイさんへの使いを頼もうと思ってたんだ。お前、湊さんたちと一緒に行ってくれ」
「えっ……。はい」
イベリーは小さく頷いた。
こうして湊たちは、バケツ一杯の脂身と共に工房へ戻ることになった。
* * *
数時間後。
工房の隅では、湊が鍋をかき混ぜていた。
ボアの脂。
木灰から抽出した灰汁。
それらを火にかけ、ゆっくり煮込んでいく。
「何を作ってるんですか……?」
イベリーが不思議そうに覗き込む。
「汚れを落とす道具、かな」
その時だった。
窯から、真っ赤に焼けた試作レンガが取り出される。
「……信じられねえ。本当に焼けやがった」
オルメイが感嘆の声を漏らした。
だが次の瞬間、彼は眉をしかめる。
「だが湊。この重い塊……どう固定するんだ?」
「え?」
「積み上げても重みで崩れる。漆喰じゃ耐えられねえ」
湊は言葉を詰まらせた。
(ダメだ……! 肝心な作り方が思い出せない!)
「……鉄鍋を据えれば完璧だと思ったんだけどな」
「テツ?」
オルメイが首を傾げる。
「新しい青銅の混ぜ方か?」
「あはは……まあ、接着方法は後で考えるよ」
誤魔化すように、湊は鍋の中身を木皿へ移した。
白っぽいクリーム状の塊。
「でも、こっちは成功したかもしれない」
「なんだそりゃ?」
「試してみて」
半信半疑のまま、ナノが返り血の付いた手へ塗り込む。
次の瞬間。
「……ん?」
脂まみれだった液体が、水の中で真っ白な泡へ変わった。
「なっ!? なんだこの泡は!」
雪のような白。
ふわふわと広がる未知の感触。
ナノが慌てて水で流す。
すると。
返り血も臭いも、完全に消えていた。
「……落ちてる」
ナノが呆然と呟く。
「脂の臭いもない。ベタつきもない……」
オルメイも目を見開いた。
「魔法なしでここまで汚れが落ちるだと……?」
その横で。
イベリーだけが、食い入るように石鹸を見つめていた。
家では捨てられていた脂身。
それが今、雪のように美しい泡へ変わっている。
「……綺麗」
彼女は思わずそう呟いていた。
湊は苦笑する。
「あはは。俺の故郷じゃ常識なんだけどな」
風呂を作るには金がいる。
炉も鍋も建材も必要だ。
だが今、自分の手の中に
この世界の誰も知らない『清潔』がある。
(……これなら)
湊は白い泡を見つめながら、小さく笑った。
(これなら、風呂を作る金が稼げる)




