第3話 その壁、明日を阻むにつき
「……信じられねえ。これ、本当にあのボアの脂なのか?」
オルメイさんは、自分の節くれだった手を何度も眺めていた。青銅の道具を扱った後に残る独特の金属臭も、工房の煤の汚れも、俺が作った「泡の塊」ですっかり洗い流されている。
「ええ、脂と木灰を混ぜて熱しただけですよ。汚れを包み込んで落とすんです」
「だけ、って……お前な、これが広まってみろ。街中の職人が、青銅の錆びを落とすためだけにでも拝みに来るぞ」
隣でずっと黙っていたイベリーが、おずおずと口を開いた。
「……湊さん。それ、私にも少し触らせてもらえませんか?」
「もちろん。イベリーさんの家で貰った材料だしね」
彼女の白く細い指先が、おずおずと泡に触れる。
「……ふわふわ……。温かくて、雪みたいです。捨てられるはずの脂が、こんなに綺麗なものになるなんて……」
彼女の瞳に純粋な感動が浮かぶ。
「家では、いつも父がベタベタの手で帰ってきて……母も私も、それを拭うのが大変だったんです。これがあれば、みんな……」
ただ自分が清潔になりたかっただけなのに、この世界の誰かを救えるかもしれない。だが、腰に剣を帯びたナノが、首を傾げながら口を挟んだ。
「……それで湊。この『泡』は凄いが、お前が言っていた『フロ』とやらはどうなったんだ?」
「ああ、説明してなかったね。フロ……つまり、大きな箱の中にたっぷりのお湯を溜めて、そこに首まで浸かるんだ。そうすれば、体の芯まで温まって、全身の汚れを洗い流せる」
俺の説明を聞いた瞬間、その場の三人がフリーズした。
「首まで……お湯に浸かるだと? 馬鹿言え! そんなデカい桶を作ってみろ、どれだけの金がかかると思ってやがる」
「だからレンガで作るんですよ、オルメイさん。石で作った大きな箱を、火で直接温めるんだ」
職人のオルメイさんは鼻で笑った。
「無理だな。今この街にある漆喰じゃ、そんなデカい箱は作れねえ。レンガを積んでも、湯の重みと熱ですぐに継ぎ目から漏れるか、重さで崩れちまう。……湊、夢を見るのは勝手だが、この世界の『土』はそこまで強くねえんだよ」
突きつけられた現実。俺はがっくりと肩を落とした。
「……そっか。やっぱり、無理なのかな……」
厚いレンガはできた。でも、それを繋ぐものがなければ、ただの石の山だ。俺は諦め半分に、足元に転がっていた「獣皮の袋」を眺めていた。ついさっき、イベリーさんの家(解体屋)から持ってきた、ギトギトした脂身が入っていた袋だ。
(……脂は石鹸になった。なら、この砂と水も何かに……。待てよ? 砂、水。あと、何だったっけな。あの中で混ぜてた『グレーの粉』)
不意に、記憶の蓋が開いた。日曜の夜、親父と一緒に見ていたあの番組。
確か、石灰石を焼いて、粘土と混ぜて……「これで石みたいに固まるんだ!」って大騒ぎしていたシーンがあったはずだ。
「オルメイさん。この近くに、白っぽい石が取れる場所はない? 焼くとポロポロ崩れるようなやつ」
「石灰石のことか? それなら漆喰の材料だ。だが、あれを粘土と一緒に焼くなんて聞いたことがねえぞ」
「そこをなんとか! カスになってもいいから、一番熱い窯で試させてよ。俺の故郷の有名な開拓者がやってたんだ」
俺の必死の食い下がりに、オルメイさんは悪態をつきながらも火力を上げた。やがて、窯から取り出されたのは、不気味に黒ずんだ「岩のカス」の塊だった。
俺はその塊を砕いて粉にし、砂と水を混ぜて練り上げた。見覚えのある「グレーの泥」が完成する。
肌を荒らさないよう、即席で作った青銅の「コテ」で泥を塗り、レンガを積んでいく。「シャリ、シャリ」という音が響き、レンガが吸い付くように安定した。
「……おい、止まってるぞ。滑らねえ。吸い付いてやがる」
オルメイさんが絶句する。だが、彼はすぐに火を落とした。
「……だが湊。これ以上焼くには、薪も粘土も足りねえ。俺の本業を止めるわけにもいかねえんだ」
そこに、イベリーが助け舟を出した。
「湊さん。……この『石鹸』、商人に売ってみませんか? 私の家の脂身でたくさん作って、商館に持ち込めば、お風呂の材料代になるはずです!」
俺は彼女の提案に乗り、オルメイさんに交渉した。
「オルメイさん! 薪が足りないなら、窯の形を少しだけいじらせてください」
俺の脳裏には、あのアイドルたちがレンガを積み上げていた映像が鮮明に残っていた。
(……確かあの人たちは、熱を逃がさないために天井を丸く作ってたんだ。そうすれば火が上を這って、熱がドーム状に跳ね返って一点に集まる……)
「天井を丸くして、熱を下に跳ね返す構造にするんです。それから空気の入り口を絞って火力を一点に集中させる。これなら、今の少ない薪でも十分に高温が出せるはずです。……その代わり、明日からの営業時間が終わった後の夜の間だけ、窯を貸してください! 私とイベリーさんで石鹸を量産します」
「……ふん。薪代が浮くってんなら、夜の間だけ貸してやる。だが失敗して窯を壊したらタダじゃおかねえぞ」
「はい!よろしくお願いします!」
転移してから、まだ一日の出来事だ。
あまりに濃密な時間にフラフラになりながら、俺とナノはオルメイさんの工房を後にした。
夜の帳が下りた街を歩きながら、隣で歩調を合わせていたナノが、ふと思いついたように俺を見た。
「……ところで湊。今夜は私の顔で宿を一部屋取ってあるが、明日はどうするつもりだ?」
「え? ……あ」
「私もずっとお前の面倒を見られるわけじゃない。石鹸が売れるまでは、お前は一銭も持たない無一文なんだぞ。私は、明日からは自分の任務に戻らなければならないしな」
……そうだ。風呂のことばかり考えていたが、俺はこの世界に身一つで放り出されたんだ。
明日からどうやって生きていくのか。どこで眠るのか。
俺は凍りついたまま、夜の暗がりに立ち尽くすしかなかった。
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