第3話 その壁、明日を阻むにつき
湊が作った白い泡を前に、オルメイは自分の節くれ立った手を何度も裏返していた。
青銅を扱った後に残る独特の金属臭も、煤けた汚れも、綺麗さっぱり消えている。
「……信じられねえ。本当に、あのボアの脂なのか?」
「ええ。脂と木灰を混ぜて熱しただけですよ。汚れを包み込んで落としてるんです」
「だけって……お前な」
オルメイは呆れたように鼻を鳴らした。
「これが広まってみろ。街中の職人が、道具を洗うためだけにでも拝みに来るぞ」
その横で、ずっと泡を見つめていたイベリーが、おずおずと口を開く。
「……湊さん。それ、私にも少し触らせてもらえませんか?」
「もちろん。もともとイベリーさんの家でもらった脂ですし」
イベリーは恐る恐る指先を泡へ沈めた。
「……ふわふわ……」
彼女は目を丸くする。
「温かくて、雪みたい……」
白く細い指の上で、泡が柔らかく弾ける。
「捨てられるはずの脂が、こんな綺麗なものになるなんて……」
その声には、純粋な感動が滲んでいた。
「家では、父がいつも脂と血でベタベタになって帰ってくるんです。母も私も、布で拭いて……でも臭いが全然落ちなくて」
イベリーは泡を見つめたまま、小さく笑った。
「これがあったら、みんな助かります」
だが、腕を組んでいたナノが、ふと思い出したように口を開いた。
「……それで湊。この『泡』は凄いが、お前が言っていた『フロ』とやらはどうなったんだ?」
「ああ、説明してなかったね」
湊は近くの木箱へ腰を下ろした。
「フロっていうのは、大きな箱にたっぷりお湯を溜めて、その中に首まで浸かるんだ」
沈黙。
工房の空気が止まった。
「……は?」
ナノが真顔になる。
オルメイは数秒固まった後、豪快に吹き出した。
「馬鹿言え! どれだけ水と薪を使う気だ!」
「だからレンガで作るんですよ」
湊は先ほど焼き上がった試作レンガを指差した。
「石で作った大きな箱を、火で直接温めるんです。熱を逃がさない炉があれば――」
「無理だな」
オルメイは即答した。
「今この街にある漆喰じゃ、そんなデカい箱は作れねえ。レンガを積んでも、湯の重みで継ぎ目から漏れる。熱で割れる。下手すりゃ崩れる」
職人の目だった。
夢物語を現実の材料へ落とし込んだ時、何が足りないかを正確に見抜いている。
「……この世界の『土』は、そこまで強くねえんだよ」
突きつけられた現実に、湊は肩を落とした。
厚いレンガは作れた。
だが、それを繋ぐものがない。
それでは、ただ重い石の塊でしかない。
「……そっか。やっぱり、無理なのかな……」
湊はぼんやりと足元を見た。
そこには、さっきまでボアの脂が入っていた獣皮袋が転がっている。
脂は石鹸になった。
捨てられるはずだったものが、価値へ変わった。
(あのアイドルの無人島番組、ちゃんと見ててよかった…確か、石灰石を粘土と一緒に焼いてたような……)
「オルメイさん。この近くに、白っぽい石ってありますか? 焼くとポロポロ崩れるようなやつ」
「石灰石のことか?」
「それだ!」
「あるにはあるが……漆喰の材料だぞ」
オルメイは眉をひそめる。
「だが、あれを粘土と一緒に焼くなんて聞いたことねえ」
「お願いです。試させてください」
湊は身を乗り出した。
「カスになってもいい。一回だけ、一番熱い窯で焼いてみたいんです」
「……また妙なこと言い出しやがったな」
オルメイは頭を掻いた。
だが、その目には職人特有の好奇心が宿っている。
「失敗しても文句言うなよ」
* * *
数時間後。
窯から取り出された石は、黒ずみ、ひび割れ、不格好な塊になっていた。
「ほら見ろ。カスになったじゃねえか」
「……いや、違う」
湊はその塊を砕いた。
ボロボロと灰色の粉が崩れ落ちる。
(これだ……!)
だが、まだうまくいかない。
水を入れすぎれば泥になる。
砂が少なければひび割れる。
粘土が多ければ固まらない。
何度も配合を変え、ようやく辿り着いた。
見覚えのある灰色の泥。
湊は即席で作った青銅のコテを使い、レンガへ塗りつけた。
そして、慎重に積み上げる。
「……おい」
オルメイが目を見開いた。
「滑らねえ」
レンガが、吸い付くように止まっている。
「……くっついてやがる」
ナノも黙って壁を見上げていた。
石と石の隙間を埋めた灰色の泥が、まるで一つの塊のように固定している。
だが、オルメイはすぐに現実へ戻った。
「……だが湊。これ以上試すには薪も粘土も足りねえ。俺の本業を止めるわけにもいかん」
その時だった。
「だったら――」
イベリーが、小さく手を挙げた。
三人が彼女を見る。
「この『石鹸』を売りませんか?」
「売る?」
「はい。私の家なら脂はたくさん出ます。商館へ持ち込めば、お金になるはずです」
湊はハッとした。
「……オルメイさん!」
湊は勢いよく振り返った。
「薪が足りないなら、窯の形を変えましょう!」
「はあ?」
「天井を丸くするんです」
オルメイが目を細める。
「……続けろ」
「その代わり、夜だけ窯を貸してください! 俺とイベリーさんで石鹸を量産します!」
工房の中に沈黙が落ちた。
やがて。
「……ふん」
オルメイは鼻を鳴らした。
「薪代が浮くなら悪くねえ。夜だけだぞ」
「ありがとうございます!」
「ただし、窯を壊したらタダじゃ済まねえからな」
湊は勢いよく頭を下げた。
転移してから、まだ一日も経っていない。
なのに、風呂から始まった話は、
石鹸になり、
建材になり、
商売になろうとしている。
夜の帳が下りた街を歩きながら、湊はふらつく頭を押さえた。
その隣で、ナノがふと思い出したように口を開く。
「……ところで湊」
「ん?」
「今夜は私の顔で宿を取ってある。だが、明日からはどうするつもりだ?」
湊は足を止めた。
「……あ」
「私は明日から任務へ戻る。ずっとお前の面倒を見られるわけじゃない」
ナノの言葉が、冷水のように現実を叩きつける。
石鹸はまだ売れていない。
金もない。
家もない。
つまり――
「……俺、無一文か」
風呂のことばかり考えていた。
だが、自分は今、この世界に何一つ持たず放り出された異邦人なのだ。
明日からどこで眠るのか。
どう生きるのか。
湊は、夜の冷たい風の中で立ち尽くすしかなかった。
本作をお読みいただきありがとうございます。
実は2章を書き進める中で、もっと読みやすくできないかと考え、流れを変えず少しテンポ感を見直して改稿を行いました。
連載を追いかけてくださっている皆様、ありがとうございます。
捨てられるはずだったボアの脂が「石鹸」という価値に変わり、土くれが「セメント」に変わる。
湊の現代知識による異世界改革が、ここから本格的にスタートします!
しかし、技術があっても資金ゼロ、拠点ゼロの無一文。
この絶望的な状況から、湊はどうやって成り上がっていくのでしょうか。




