第19話 その進献、隷属の序曲につき
ヴァレー領の境界にそびえ立つ巨大な石造りの門。
そこを守る門番たちは、見たこともない「鉄の輪」を履いた馬車の、静かで力強い走りに目を丸くしていた。
「な、なんだ!?」
「こんにちはー、アラインカプス領からきました。商人のリールです」
馬車から降り立ったリールの、聖母のような微笑みに、門番は一瞬で毒気を抜かれた。
「リール? ……あのリール商会の!?」
「ご存知ですの? うれしいわ」
「あぁ、噂は聞いている。なんでもとてつもなく旨いが、高くて中々買えない肉と、その肉のスープがあるって冒険者たちが言っててな。一度食べてみたかったんだ」
「そうなの? うれしいわ。今日はそのスープがここでも食べられるようにって持ってきたの」
「なに!? それは本当か!? ……だが、荷物はどこに……その小さな箱だけか?」
「お湯はあるかしら? よかったら、今ここで飲んでみます?」
「い、いいのか!? 湯ならあるから少し待ってくれ!」
* * *
数分後。
湊から受け取った「黒い固形物」を木椀に入れ、リールは手際よく白湯を注いだ。
「こうやってお湯を入れて……はい、飲んでみてください」
「う、うまい!! なんだこれは……! これがここでも飲めるようになるのか!?」
「ええ。その商談に来たの」
「ま、待ってろ! 案内する! ……おい、少しの間ここを頼む!」
興奮した門番が先導して走り出した。
リールは馬車に乗り込み、湊の隣に座った。
(……第二段階、完了)
「湊、これから先面白いものが見られるわよ」
「面白いもの?」
「ええ。」
(これで、もう昔の不便さには戻れないわ)
* * *
城の謁見の間。
ヴァレー領主、バルカス子爵は、持参した「スープの素」を一つ手に取り、信じられないといった様子で眺めていた。
「……これが、あの噂のスープか」
バルカス子爵は黒い塊を指で摘み、目を細めた。
「兵士一人分の食事を、この大きさで運べるというのか……?」
彼の視線が、地図の並ぶ机へ落ちる。
「……行軍の荷が軽くなるな」
「左様にございます。これは我が領地からの真心。兵たちの疲れを癒やし、常に温かな食事を届けるための魔法の石……とお考えください」
バルカスはスープの有用性に興奮していたが、ふと窓の外に見える馬車の車輪に目を留めた。
「それよりもリール商会長。あの馬車の車輪についている、黒光りする金属は何だ? 我が領の石畳を削るほどの硬度、あれで剣を作れば……!」
「ああ、バルカス様……。お目が高い。あれは私共が偶然発見した『鉄』という石なのですが……。実は、あれは非常に気難しい素材なのです」
「何だと?」
「ご覧の通り、車輪を覆うような単純な形にするのが精一杯でして。武器のような、薄く、鋭く、かつ折れないものに加工する方法は、未だに我々の知恵では解明できていないのです。……本当に、お恥ずかしい限りで」
リールは困ったように眉を下げ、静かに視線を落とした。
だが、隣に座る湊の視線は、リールの「困った表情」に釘付けになっていた。
「ですから、まずはこのスープを広め、兵站を盤石にすることから始められてはいかがでしょうか? 武器の研究が進みましたら、真っ先にバルカス様へご相談に上がりますわ」
「……そうか。技術が追いつかぬのは仕方あるまい。だが、このスープだけでも価値は計り知れん。……良かろう、契約だ」
温かな食事は兵を疲弊させず、軽くなった荷馬車は行軍を早める。
バルカス子爵は、すでに次の補給計画を頭の中で組み始めていた。
* * *
城を出たところで、湊は我慢できずにリールに声をかけた。
「リールさん、帰る前にすこしだけヴァレーの街を見てみたいのです!」
「ヴァレーの街? 魔法学校以外たいしたものないわよ」
広場の奥に、石造りの塔がそびえていた。窓から魔法の光が漏れ出している。
「魔法学校!? 最高じゃないですか!」
「魔法学校が最高ねえ……。神様の気まぐれで与えられた力を、自分の才能だと勘違いしている人が多くて、あまり好きじゃないのよね。見てくるならさっさと行きなさい」
リールの冷淡な言葉に首を傾げつつも、湊は活気ある街路へと駆け出した。
* * *
路地の奥から、白い光が漏れていた。
覗き込むと、少女が壁に向かって右手をかざしていた。
石壁に、焦げた跡が幾つも刻まれている。
「あっ、ごめんなさい、うるさかった?」
振り返ると、そこには豪奢な刺繍の入ったローブを纏った、同年代の少女が立っていた。
「えっ、あ、アラインカプス領からきました」
「アラインカプス領!?あの、魔法を使わずに作ってるって石鹸、本当にあるの?」
「うん、俺が作ってるんだ」
「えっ!?あなたが!?あの……今度、そっちに遊びに行ってもいいかな?」
「えっ?いいけど」
「ほんと!?私、エレナって言うの!よろしくね」
「俺は湊。いつでも遊びに来てよ」
エレナは少し黙った。
「……魔法がなくても、誰かの役に立てるものって……作れるんだね」
エレナは少し間を置いた後、また笑った。
「……うん。行く」
石畳の向こうに消えていく背中。
右手だけ、まだ少し震えていた。
* * *
馬車に戻ると、リールが扇子で顔を隠しながら、湊をじっと見つめていた。
「面白いものは見られたかしら?」
「はい!……なんだか、これからもっと楽しくなりそうです」
湊の答えを聞き、リールは静かに微笑んだ。
「そう。……帰りましょうか、アラインカプスへ」
鉄の輪が石畳を鳴らし、馬車は夕暮れの街道を走り去っていく。
ヴァレー領には、湯気の立つスープと、新しい物流だけが残されていた。




