第16話 その凝縮、山を越える牙につき
赤茶色の煉瓦が並び、通りに「ファーガスの揚げ串と濃厚スープ」の香ばしい匂いが漂い始めると、新商業区の熱狂はもはや制御不能なレベルに達していた。
アラインカプス領内だけでなく、険しい山を越えた隣領「ヴァレー領」から、数日かけてやってくる者まで現れ始めていたのだ。
だが、その絶頂の裏側で、湊は頭を抱えていた。
「……どう計算しても、数字が合わない。これ、完全にパンクしてるな」
「湊さん、もう限界です……!今日も開店一時間で骨も端材もなくなっちゃいました。ヴァレー領から来たっていうお客さんが『せっかく山を越えてきたのに一口も飲めないなんて!』って泣き出しちゃって……」
イベリーが差し出した手鍋の中には、水分が完全に飛び、真っ黒でドロドロとした「何か」がこびり付いていた。
「お客さんの対応で手が離せなくて……気づいた時にはもう」
「二人とも、どうしたの?」
そこへ、扇子を揺らしながらリールが優雅に姿を現した。
「リールさん。イベリーがスープを煮詰めすぎちゃったんです。」
「あら、本当。……ヴァレー領から来たお客様が、一口も飲めずに帰られたんですって。あんな遠くから来てくださったのに、本当に胸が痛むわ……」
リールは慈愛に満ちた表情で鍋を覗き込む。
「すぐに洗ってきます!お湯を持ってきて!」
イベリーは慌てて熱々に沸いたお湯を、その「黒い塊」がこびり付いた鍋に注ぎ込んだ。
すると、ジュウッという音と共に、鍋の中にあった黒い塊が溶け出し――
一瞬にして、見慣れた「白濁したスープ」へと姿を変えた。
「……あ」
立ち上る香りは、紛れもなく屋台で出しているあのスープのものだった。
それを見たリールが、静かに呟く。
「……不思議ね。あんなに無残に固まっていたゴミのような塊が、お湯を注いだだけで『元の姿』に戻るなんて。これなら、腐る心配も重い樽を運ぶ苦労もなくて済みそうかしら。……たとえば……あの高い山を越えたヴァレー領にまで、この味を届けることも」
「……お湯を注ぐだけで、元通り……。ヴァレー領……?」
「リールさん、これ大発見ですよ!徹底的に煮詰めれば、スープをこの『塊』にできるんだ。これなら、ヴァレー領の人たちにも届けられます!」
無邪気に笑う湊の隣で、リールは黒い塊を静かに見つめていた。
「素敵ね。そんなことができたら、きっと向こうの人も喜ぶわ」
* * *
数日後、湊の手には、黒く輝く小さな樹脂のような塊が握られていた。
「これを運んで、あっちでお湯に溶かせば、この屋台と同じ味が再現できます!これならリールさんの言う通り、どこへだって運べますよ!」
「素晴らしいわ、湊。これなら荷馬車一台で、数万杯分の『真心』を運べるわね」
リールは黒い塊を指先で転がした。
拍子抜けするほど軽かった。
それなのに、山の向こう側の食卓まで変えられる。
湊は、黒い塊を両手で包んだ。
だがリールは、それとは別の価値を見ていた。
(……第二段階。意外と早く済みそうね)
商会の荷馬車は今日も山道を越え、小さな黒い塊をヴァレー領へ運び始めていた。
リールは遠ざかる荷車を眺めながら、静かに目を細める。
(人は、お腹を満たしてくれる相手を嫌いにはなれないものね)




