ぱぱ、まま、せかいのぜんぶ、ごちそうさま!(1)
新宿の夜は、ひっくり返した宝石箱みたいだ。
ビルから零れる光はダイヤモンドの粒で、信号機の赤はルビー、タクシーのランプは流れるトパーズ。世界はこんなにキラキラしているのに、どうして美羽の中身だけ、こんなにスカスカなんだろう。
美羽、1X歳。
ガラス細工みたいに透明で、中身が空っぽの風船。
あーあ、お腹が空いたなあ。
お腹の真ん中じゃなくて、もっと奥、心臓の裏側あたりにある魂のポケットみたいなところが、スースーして寒いよ。
愛が足りない。圧倒的にカロリー不足。
愛っていうのはね、ハート型のフワフワした記号じゃなくて、もっと質量のある、熱くてトロトロした光のスープみたいなものなの。それを美羽の血管に直接チューブで繋いで、ドクドク流し込んでくれないと、美羽はしぼんで、パチンって消えて、夜の闇に溶けちゃう。だから入れて。埋めて。誰かの時間を、感情を、命の輝きを、美羽の中にぎゅうぎゅうに詰め込んで。
「こんばんは。ねえ、君、こんなところで何してるの? 終電逃しちゃった?」
あ、見つけてくれた。
公園のベンチで膝を抱えて、迷子の子猫みたいに震えていたら、スーツを着た男の人が声をかけてくれた。ちょっとお酒の匂い。でも、悪い人じゃなさそう。だって、おでこが街灯を反射してテラテラ光ってる。体温が高そう。
あのあたたかさに触れたら、美羽の寒いの、治るかなあ?
「美羽ね、おうちに帰りたくないの。パパもママもいなくて、世界中でひとりぼっちなの」
美羽は瞳をうるうるさせて、精一杯のSOSを送る。
嘘じゃないよ。美羽はいつだってひとりぼっちだもん。誰も美羽の穴を埋めてくれないんだもん。
男の人が、ゴクリと唾を飲み込んだ。その目が、熱っぽく美羽を見てる。
わあ、嬉しい! 美羽のこと、見てくれてる。必要としてくれてる。
この人なら、美羽に愛をくれるかな?
「それは大変だ。じゃあ、お兄さんが温かい場所へ連れて行ってあげようか。寂しくないようにしてあげる」
「ほんとぉ? 一緒にいてくれる? やったあ! 美羽、お兄さんだぁいすき! ずっと離さないでね!」
美羽は嬉しくて、バネ仕掛けみたいに飛びついて、男の人の腕にギュッと絡みつく。
体温。三十六度五分の、生きた暖炉。
その温もりが、美羽の皮膚を通して血管に侵入し、冷え切った血をポコポコと沸騰させる。
ああ、気持ちいい。生き返る。この温かいのを、全部美羽にちょうだいね。
いただきまーす。
ホテルのベッドの上は、二人だけの宇宙ステーション。
シャワーを浴びて、美羽たちは絡み合う。
お兄さんが覆いかぶさってくる。その重みは、美羽がこの世界に存在していいんだっていう、アンカーの重みだ。
「あー、かわいい……美羽ちゃんは、肌が吸い付くようだね」
「ねえ、好き? 美羽のこと好き? 世界で一番、お星さまよりも好き?」
体がつながる瞬間、ピリピリとした電流が走る。男の人の瞳孔が開いて、理性が弾け飛んで、美羽という存在に溺れていく瞬間。その脳みそから分泌されるキラキラした光の味。
ちゅー、ちゅー、ごくん。
美羽は背中に爪を立てる。離れないように。どこにも行かないように。
「すきっ! 大好きっ! ねえねえねえ結婚しようよぉ! ずっと一緒にいよう! 美羽、お兄さんのためなら死ねるよ! 心臓あげようか? ねえ、美羽の中身全部あげるから、お兄さんのも全部ちょうだいよぉ!」
脳みそがとろとろにとろける。ドーパミンとセロトニンが、頭の中で大洪水を起こして、思考回路がショートして火花を散らす。世界がピンク色に発光して、天井が抜けて、満天の星空が降ってくる。美羽たちは今、とろとろに溶けた光になって、一つの器の中で混ざり合っているんだ。
穴が埋まっていく。
真空だった魂の空洞に、熱いスープが満たされていく。
ああ、幸せ。幸せだよぉ。
美羽は今、愛されている。世界の中心にいる。ぱくぱく、もぐもぐ、ごっくん。光が喉を通っていく。
──カチリ。
ライターの音が、魔法を解く合図だった。
事後。男の人がベッドの端でタバコをふかしながら、スマホを見た瞬間、美羽の世界から急速に色が剥がれ落ちた。ピンク色の宇宙は一瞬で崩れ去り、そこはただの、煤けたコンクリートの四角い箱になった。
あれ?
どうして?
どうして、あの光る板を見るの?
どうして、美羽を見ないの?
さっきまで「一つになろう」って言ったのに。もう美羽のこと、見えなくなっちゃったの?
寂しい。痛い。寒い。世界が急に、氷河期になっちゃったみたい。猛烈な不安と、吐き気を催すほどの自己否定感が、黒い津波となって押し寄せてくる。
美羽はゴミなの? 使い捨てのカイロなの? 冷たくなったら捨てるの? そう思ってるんでしょ? ねえ、その背中がそう言ってる!
「……ねえ」
美羽の声は、迷子になった子供みたいに震えていた。
男の人がギョッとして振り向く。
「誰とラインしてるの? 彼女? 奥さん? それとも他の女の子?」
「え? いや、仕事の連絡で……」
「嘘つき!」
美羽は絶叫して、男の手からスマホを叩き落とした。液晶画面がクモの巣みたいにひび割れる。だって、その板が悪いんだよ。美羽とあなたの邪魔をするから。
美羽は自分の髪を掻きむしり、過呼吸気味に泣きじゃくる。
「ひどいよ! 好きって言ったじゃん! 結婚しようって言ったじゃん! 全部嘘だったの!? 信じてたのに! 美羽のこと騙したの!? 死んでやる! 今ここで舌を噛み切って死んで、お兄さんのこと一生恨んでやるからなぁ!!」
涙がポロポロこぼれる。嘘泣きなんかじゃないよ、本気の絶望だよ。世界中から見放されたような、宇宙空間に放り出されたような孤独。
男の人が狼狽している。「おい、落ち着けよ」「そんなつもりじゃ」とかなんとか、壊れたラジオみたいに言っている。
その困ったような顔を見た瞬間。
スッ、と。
美羽の中で、何かが冷めた。
ああ、なんだ。
この人、もう光ってないや。
さっきまではキラキラした宝石に見えていたのに、今はただの、道端に落ちてる石ころにしか見えない。
光ってない。温かくない。
美羽を満たしてくれる愛は、もう一滴も残っていない。男の人の困惑した顔、怯えた目。それは美羽を包んでくれる毛布じゃなくて、チクチクする棘だ。そんなの、欲しくない。いらない。
美羽はピタリと泣き止んだ。
涙を手の甲で拭い、鼻をすする。
「……あーあ。つまんない」
美羽はベッドから降りて、散らばった服を拾う。
男の人が、狐につままれたような顔でポカンとしている。どうしたのかな? 電池切れちゃったのかな? まあいいや、壊れたおもちゃには興味ないもん。
美羽は男の人が脱ぎ捨てたズボンのポケットを探る。お財布。中身を確認。三枚。
いただくね。だって、美羽すごく傷ついたし。これくらい貰わないと、美羽の心がかわいそうだもん。ついでに、サイドテーブルに置いてあった腕時計もポケットに入れる。キラキラしてて綺麗。これを持ってれば、少しは寂しくなくなるかも。
「ちょ、君、何して……」
「ごちそうさまでしたぁ!」
美羽は振り返り、満面の笑みを浮かべた。
さっきのヒステリーが嘘のような、最高にキュートで、穢れを知らない天使の微笑み。悪気なんてひとつもない。だって、もうおしまいだから。
「お兄さん、もう光ってないよ。バイバァイ」
美羽は男の人の静止を振り切って、重いドアを開けた。
廊下に出ると、冷房の風が汗ばんだ肌に心地よい。エレベーターホールに向かってスキップしながら、美羽は首をかしげる。
お腹すいたなあ。魂のポケットが、空っぽでスースーする。三万円と時計じゃ、この穴は埋まらない。もっとキラキラしたもの。もっとずっと消えない光。
美羽の人生ごと照らしてくれて、絶対に美羽から目を逸らさない「一番星」みたいな人じゃないと。
夜明け前の新宿は、まだ眠らない。
さあ、次はどこに行こうかな? 世界は広くて、まだまだキラキラしたものがいっぱい落ちてるはずだよ。
美羽の宝探しは、まだ始まったばかりだ。




