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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
色欲の章
6/41

マイホーム・パパの脳髄シロップ漬け(5)

 口の中に広がった鉄の味。

 それは血の味ではありませんでした。

 僕が強く押し当てすぎていた、スマートフォンのアルミボディの味。


 瞬き。パチリ。世界が反転。


 ドロドロに溶けたアパートの一室も、琥珀色の祝祭も、僕のシロップに溺れて泣くミミも、一瞬にして霧散したのです。

 公衆トイレの裏手の、薄汚れたコンクリート壁。

 僕はまだ、公園にいました。

 時間は一分も経過していませんでした。

 僕の脳内では数時間の濃密な凌辱劇が上演されていましたが、現実世界では、ミミが僕の返答を待って沈黙している、たった数秒の間でしかなかったのです。


「……あの、もしもし? 聞こえてる?」


 電話の向こうから、ミミの声がします。

 怯えた声ではなく。洗脳された声でもない。

 未来への希望と、少しの不安を抱いた、生身の人間の声。


 ああ。

 僕は彼女を壊せなかった。

 彼女の部屋に侵入することも、白いワンピースを汚すことも、店長の存在を抹消することも、僕には何一つできなかった。僕はただ、公衆トイレの裏でスマホを握りしめ、脳汁を垂れ流して勃起していただけの、哀れな中年男だ。


 叫び出したい衝動が喉元までせり上がります。

『ふざけるな! お前は僕のモノだ! 行くな!』

 しかし、僕の口から出た言葉は、まるで自動音声ガイダンスのように冷静で、無機質なものでした。

「……ああ、聞こえているよ。驚いて、言葉が出なかっただけだ」

 仮面。

 僕の皮膚に癒着したその仮面は、中身がどれだけドロドロに腐敗していようと、完璧な微笑みの形を保っています。

「そうか。告白されたんだね。店長さんに」

「う、うん……」

「素晴らしいことじゃないか。君が努力して、前を向いた結果だ。僕も鼻が高いよ」

 嘘だ。死ぬほど嘘だ。

 言葉の一つ一つが、カミソリとなって僕自身の舌を切り裂きます。

「ほ、本当? 怒ってない?」

「怒るわけがないだろう。僕は君の保護者みたいなものだからね。君が幸せになることが、僕の一番の望みなんだ」

 ミミが安堵の息を漏らすのが聞こえました。その吐息すらも、僕の鼓膜を焼くのです。

「よかった……! ありがとう。あなたにそう言ってもらえて、やっと決心がついたよ。私、店長さんと向き合ってみる」

「ああ、それがいい」

「でもね、これからも相談に乗ってくれる? 恋人じゃなくても、あなたは私の恩人だし……友達として、繋がっていたいなって」


 友達。

 トモダチ。


 醜悪な響きだ。

 飼い主に対して、ペットが「これからは対等なルームメイトでいようね」と言い放つのと同じだ。僕の所有欲を、僕の性欲を、僕の全存在を、「友達」という無味乾燥なカテゴリに押し込める気か!

 僕の視界が歪んでいきます。

 トイレの壁のシミが、ミミの嘲笑に見える。脳内のシロップが、涙となって溢れ出しそうです。でも、僕は笑います。声だけで笑います。

「もちろんだとも。いつでも連絡しておいで」

「ありがとう! じゃあ、またね!」

 プツッ。ツーツーツー。

 僕はスマホを顔の前から離し、画面を見つめました。

『通話終了』の文字。

 その背後にある、ミミのアイコン。黒い背景に、白い猫のイラスト。

 指が動いた。

 思考するよりも早く、僕の防衛本能が指先を操作した。


 LINEの設定画面。『ブロック』。タップ。確認画面。『このユーザーをブロックしますか?』『はい』。X。ミミのアカウントを表示。『ブロック』。タップ。着信拒否設定。電話帳からの削除。


 タッ、タッ、タッ。

 リズミカルな電子音が、処刑の銃声のように響きます。

 デジタル・ギロチンだ。

 僕は彼女を殺しました。

 僕の世界から、ミミという存在を完全に抹消しました。

 友達? 冗談じゃない。

 僕が食べられない料理なんて、皿ごとゴミ箱に捨てるまで。

 僕を崇拝し、僕に依存し、僕に身体を開かない女に、1バイトのデータ容量すら割く価値はないのです。

 これは決して逃避ではありません。これは処分です。壊れて修理不可能になった玩具を、焼却炉に放り込むだけの事務作業なのです。


 すべてを消し終えた時、スマホの画面は真っ暗になりました。

 そこに映っている自分の顔。なんて、ひどい顔でしょう。

 目は血走り、口元は歪み、脂汗でテカテカと光っています。

 紳士? 救世主? 神?

 違います。

 そこにいたのは、欲求不満で飢えた、ただの、色欲の塊でした。


 僕はよろめきながら、トイレの裏から出ました。

 公園の光景が目に飛び込んできます。

 眩しい。

 世界は相変わらず、暴力的に輝いていました。

 だが、さっきまでの「白」ではありません。

 僕の網膜には、さきほどの妄想の残滓が焼き付いて離れないのです。

 芝生は毒々しい蛍光グリーンに脈打ち、空はドス黒い紫色に渦巻いていて。

 家族連れたちの笑い声が、不協和音のノイズとなって脳髄をかき回されて。

 世界中が、僕を置いてけぼりにして、勝手に幸せになろうとしているのです。


 ベンチの方へ歩きます。妻のヨウコと、娘のマナミが待っているのが見えました。

 二人の姿が、蜃気楼のように揺らいでいます。ヨウコの顔が、のっぺらぼうに見えます。マナミが積み上げた砂山が、巨大な蟻塚に見えます。

「パパ、おかえりー!」

 僕は彼女を抱き上げました。

 重い。

 以前よりも、ずしりと重く感じます。これは愛の重さでしょうか? それとも、一生背負っていかなければならない「義務」の重さなのでしょうか?

「トラブル、解決したの?」

 ヨウコが心配そうに尋ねてきます。

 彼女の白い肌。清潔な服。

 かつては安らぎだったその「白」が、今はただの空虚なキャンバスにしか見えません。僕はこの白の中で、一生、自分を偽って生きていくのです。

「ああ、解決したよ」

 僕は答えます。喉にベトベトしたものが絡まって、うまく言葉になりません。

「ただの……システムのエラーだった。不要なデータを削除して、再起動したから、もう大丈夫だ」

「そう、よかった。顔色が悪いわよ? お昼、何かスタミナのつくものでも食べに行きましょうか」

 スタミナ。食欲。性欲。僕の中にある巨大な穴。

 ミミという埋め草を失った今、その穴はヒューヒューと風を鳴らして飢えています。

 足りない。何もかもが足りない。

 妻との穏やかなセックスじゃ埋まらない。娘の成長じゃ埋まらない。

 もっとドロドロした、汚くて、甘くて、脳が溶けるようなシロップが必要です。

 僕はマナミを下ろし、妻の手を取りました。

 その手は温かく、しかし、僕の心の凍てつきを溶かすには至りませんでした。


 ふと、公園の入り口を見ます。

 女子高生の集団が歩いています。若い母親がベビーカーを押しています。ベンチでOLがスマホを見ています。

 僕の視線が、無意識に彼女たちをスキャンします。

『あの子は心に闇がありそうだ』『あの子は寂しそうだ』『あの子なら、僕の新しい玩具になれるかもしれない』

 ゾッとしました。そして同時に、股間の奥が熱くなるのを感じました。

 懲りていない。

 僕は何も学んでいない。

 対象が消えただけで、僕という「色欲」のシステムは稼働し続けているのです。

 次は誰だ? 誰を拾って、誰を洗って、誰を僕色に染めてやろうか?


 視界の端で、紫色の空から、黒い雨が降り始めました。

 これはきっと、僕にしか見えない雨。シロップのように甘く、タールのように粘り着く、欲望の雨。

「行こ、パパ」

 マナミが微笑みます。僕はその笑顔に、完璧な仮面で応えます。

「ああ、行こう。お腹が空いたね」

 僕は歩き出します。

 歪んだ極彩色の世界へ。

 終わりのない、飢餓地獄へ。


 僕の脳髄はもう、永遠にシロップ漬けなのだから。


(色欲の章・完)

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