マイホーム・パパの脳髄シロップ漬け(5)
口の中に広がった鉄の味。
それは血の味ではありませんでした。
僕が強く押し当てすぎていた、スマートフォンのアルミボディの味。
瞬き。パチリ。世界が反転。
ドロドロに溶けたアパートの一室も、琥珀色の祝祭も、僕のシロップに溺れて泣くミミも、一瞬にして霧散したのです。
公衆トイレの裏手の、薄汚れたコンクリート壁。
僕はまだ、公園にいました。
時間は一分も経過していませんでした。
僕の脳内では数時間の濃密な凌辱劇が上演されていましたが、現実世界では、ミミが僕の返答を待って沈黙している、たった数秒の間でしかなかったのです。
「……あの、もしもし? 聞こえてる?」
電話の向こうから、ミミの声がします。
怯えた声ではなく。洗脳された声でもない。
未来への希望と、少しの不安を抱いた、生身の人間の声。
ああ。
僕は彼女を壊せなかった。
彼女の部屋に侵入することも、白いワンピースを汚すことも、店長の存在を抹消することも、僕には何一つできなかった。僕はただ、公衆トイレの裏でスマホを握りしめ、脳汁を垂れ流して勃起していただけの、哀れな中年男だ。
叫び出したい衝動が喉元までせり上がります。
『ふざけるな! お前は僕のモノだ! 行くな!』
しかし、僕の口から出た言葉は、まるで自動音声ガイダンスのように冷静で、無機質なものでした。
「……ああ、聞こえているよ。驚いて、言葉が出なかっただけだ」
仮面。
僕の皮膚に癒着したその仮面は、中身がどれだけドロドロに腐敗していようと、完璧な微笑みの形を保っています。
「そうか。告白されたんだね。店長さんに」
「う、うん……」
「素晴らしいことじゃないか。君が努力して、前を向いた結果だ。僕も鼻が高いよ」
嘘だ。死ぬほど嘘だ。
言葉の一つ一つが、カミソリとなって僕自身の舌を切り裂きます。
「ほ、本当? 怒ってない?」
「怒るわけがないだろう。僕は君の保護者みたいなものだからね。君が幸せになることが、僕の一番の望みなんだ」
ミミが安堵の息を漏らすのが聞こえました。その吐息すらも、僕の鼓膜を焼くのです。
「よかった……! ありがとう。あなたにそう言ってもらえて、やっと決心がついたよ。私、店長さんと向き合ってみる」
「ああ、それがいい」
「でもね、これからも相談に乗ってくれる? 恋人じゃなくても、あなたは私の恩人だし……友達として、繋がっていたいなって」
友達。
トモダチ。
醜悪な響きだ。
飼い主に対して、ペットが「これからは対等なルームメイトでいようね」と言い放つのと同じだ。僕の所有欲を、僕の性欲を、僕の全存在を、「友達」という無味乾燥なカテゴリに押し込める気か!
僕の視界が歪んでいきます。
トイレの壁のシミが、ミミの嘲笑に見える。脳内のシロップが、涙となって溢れ出しそうです。でも、僕は笑います。声だけで笑います。
「もちろんだとも。いつでも連絡しておいで」
「ありがとう! じゃあ、またね!」
プツッ。ツーツーツー。
僕はスマホを顔の前から離し、画面を見つめました。
『通話終了』の文字。
その背後にある、ミミのアイコン。黒い背景に、白い猫のイラスト。
指が動いた。
思考するよりも早く、僕の防衛本能が指先を操作した。
LINEの設定画面。『ブロック』。タップ。確認画面。『このユーザーをブロックしますか?』『はい』。X。ミミのアカウントを表示。『ブロック』。タップ。着信拒否設定。電話帳からの削除。
タッ、タッ、タッ。
リズミカルな電子音が、処刑の銃声のように響きます。
デジタル・ギロチンだ。
僕は彼女を殺しました。
僕の世界から、ミミという存在を完全に抹消しました。
友達? 冗談じゃない。
僕が食べられない料理なんて、皿ごとゴミ箱に捨てるまで。
僕を崇拝し、僕に依存し、僕に身体を開かない女に、1バイトのデータ容量すら割く価値はないのです。
これは決して逃避ではありません。これは処分です。壊れて修理不可能になった玩具を、焼却炉に放り込むだけの事務作業なのです。
すべてを消し終えた時、スマホの画面は真っ暗になりました。
そこに映っている自分の顔。なんて、ひどい顔でしょう。
目は血走り、口元は歪み、脂汗でテカテカと光っています。
紳士? 救世主? 神?
違います。
そこにいたのは、欲求不満で飢えた、ただの、色欲の塊でした。
僕はよろめきながら、トイレの裏から出ました。
公園の光景が目に飛び込んできます。
眩しい。
世界は相変わらず、暴力的に輝いていました。
だが、さっきまでの「白」ではありません。
僕の網膜には、さきほどの妄想の残滓が焼き付いて離れないのです。
芝生は毒々しい蛍光グリーンに脈打ち、空はドス黒い紫色に渦巻いていて。
家族連れたちの笑い声が、不協和音のノイズとなって脳髄をかき回されて。
世界中が、僕を置いてけぼりにして、勝手に幸せになろうとしているのです。
ベンチの方へ歩きます。妻のヨウコと、娘のマナミが待っているのが見えました。
二人の姿が、蜃気楼のように揺らいでいます。ヨウコの顔が、のっぺらぼうに見えます。マナミが積み上げた砂山が、巨大な蟻塚に見えます。
「パパ、おかえりー!」
僕は彼女を抱き上げました。
重い。
以前よりも、ずしりと重く感じます。これは愛の重さでしょうか? それとも、一生背負っていかなければならない「義務」の重さなのでしょうか?
「トラブル、解決したの?」
ヨウコが心配そうに尋ねてきます。
彼女の白い肌。清潔な服。
かつては安らぎだったその「白」が、今はただの空虚なキャンバスにしか見えません。僕はこの白の中で、一生、自分を偽って生きていくのです。
「ああ、解決したよ」
僕は答えます。喉にベトベトしたものが絡まって、うまく言葉になりません。
「ただの……システムのエラーだった。不要なデータを削除して、再起動したから、もう大丈夫だ」
「そう、よかった。顔色が悪いわよ? お昼、何かスタミナのつくものでも食べに行きましょうか」
スタミナ。食欲。性欲。僕の中にある巨大な穴。
ミミという埋め草を失った今、その穴はヒューヒューと風を鳴らして飢えています。
足りない。何もかもが足りない。
妻との穏やかなセックスじゃ埋まらない。娘の成長じゃ埋まらない。
もっとドロドロした、汚くて、甘くて、脳が溶けるようなシロップが必要です。
僕はマナミを下ろし、妻の手を取りました。
その手は温かく、しかし、僕の心の凍てつきを溶かすには至りませんでした。
ふと、公園の入り口を見ます。
女子高生の集団が歩いています。若い母親がベビーカーを押しています。ベンチでOLがスマホを見ています。
僕の視線が、無意識に彼女たちをスキャンします。
『あの子は心に闇がありそうだ』『あの子は寂しそうだ』『あの子なら、僕の新しい玩具になれるかもしれない』
ゾッとしました。そして同時に、股間の奥が熱くなるのを感じました。
懲りていない。
僕は何も学んでいない。
対象が消えただけで、僕という「色欲」のシステムは稼働し続けているのです。
次は誰だ? 誰を拾って、誰を洗って、誰を僕色に染めてやろうか?
視界の端で、紫色の空から、黒い雨が降り始めました。
これはきっと、僕にしか見えない雨。シロップのように甘く、タールのように粘り着く、欲望の雨。
「行こ、パパ」
マナミが微笑みます。僕はその笑顔に、完璧な仮面で応えます。
「ああ、行こう。お腹が空いたね」
僕は歩き出します。
歪んだ極彩色の世界へ。
終わりのない、飢餓地獄へ。
僕の脳髄はもう、永遠にシロップ漬けなのだから。
(色欲の章・完)




