マイホーム・パパの脳髄シロップ漬け(4)
世界が溶けていきます。
ドロリ、ドロリと。
天井の蛍光灯は熱を帯びた飴細工みたいに垂れ下がってるし、床に広がった紅茶のシミは意思を持つアメーバみたいに畳の目を侵食しています。
その中心で、僕は彼女に覆い被さります。
彼女の白いワンピースは、もう白くない。紅茶の茶色と、床の埃と、そして僕という「影」が繊維の奥まで染み込んで、惨めなドブネズミみたいな色になっている。これこそ、世界のあるべき姿。
「いや……離して……お願い……」
ミミが首を振ります。その抵抗は弱々しい。捕虫網の中の蛾が、鱗粉を撒き散らして暴れているだけです。
彼女の目から溢れる涙が、極彩色のビーズとなってコロコロと床に転がっていきました。赤、青、黄色。綺麗な涙。
でも、その涙は不純なんだよ。
僕以外の男──あの「店長」とかいう凡庸な善人──を想って流す涙なんて、僕の聖域には必要ないゴミなんだから。
「暴れないでよ、ミミ。今、大事な話をしてるんだから」
僕は彼女の耳元に唇を寄せます。
そこは聴覚の入り口じゃない。精神への直接的なLANポート。僕は言葉という名のウイルスを、彼女の鼓膜の奥へ、ドボドボと流し込んでいきます。
「ねえ、ミミ。現実的に考えようよ。論理的にさ。君はその店長とやらと付き合って、うまくいくと思ってるの? 最初はいいよ。君は白い服を着て、猫を被って、普通の女の子のコスプレをしてりゃいい。でもね、人間は演技し続けられないんだよ。ある雨の夜、君の発作が起きる。絶対に起きる。トラウマが喉元に爪を立てて、君は泣き叫んで、手首を切ろうとして、ゲロみたいに汚い言葉を吐き散らす。その時、彼はどうすると思う?」
彼女の肩がビクリと跳ねた。
想像したんだ。自分の醜態を。
「彼は引くよ。ドン引きだ。綺麗なカフェの店員だと思ってたら、中身が腐った生ゴミだったって気づくんだ。『こんなはずじゃなかった』『重い』『怖い』『理解できない』。彼の愛なんて、君の表面張力の上にしか成立しないんだよ。君が溢れ出した瞬間、彼は君を床に捨てる。……また捨てられるんだよ、ミミ。路地裏に逆戻りだ」
「ちがう……あの人は、そんな人じゃ……」
その否定には力がこもっていません。彼女自身が一番よく知っているから。自分が「普通の愛」に耐えられるような設計になっていない欠陥品だってことを。
「違う? なぜ言い切れる? 試したの? 君の内臓を全部ぶちまけて、その悪臭の中で深呼吸できるか、彼を試したの? ……できないでしょ? 怖くてできないよね? 君は賢い子だ。自分の醜さを知っているからこそ、必死に隠して詐欺を働こうとしてるんだ。愛という名の粉飾決算だよ、それは」
視界が明滅します。チカチカ、チカチカ。
部屋の壁が、脈打つ肉壁へと変わっていく。さながらここは、巨大な食虫植物の胃袋の中だ。僕たちはここで、ゆっくりと消化され、甘い蜜になる運命なんだ。
「僕だけだよ、ミミ。君の腐敗臭を、極上の香水だと感じるのは世界で僕だけだ。君の傷口を、美しい装飾だと愛でるのは、この宇宙で僕しかいない。僕たちは共犯者なんだよ。泥の中でしか呼吸できない、エラ呼吸の深海魚なんだ。なのに、どうして陸に上がろうとする?肺が乾いて干物になるだけだって、わかってるくせに」
「いやぁぁぁ!! 聞きたくない!!」
ミミが耳を塞いで絶叫しました。彼女の防衛本能が、僕の論理を拒絶しようとしてエラーを吐いているのです。
もう、遅いよ。ウイルスはもう脳のひだまでインストール完了してる。彼女の思考回路は、僕の色でハッキングされてるんだ。
僕は彼女の手首を掴み、優しく、しかし絶対的な力で引き剥がしました。彼女の肌は熱く、汗で滑ります。その汗すらも、シロップのように甘く感じるのです。
「聞きなさい。これが正解だ。漂白なんて不可能なんだよ。君という存在は、過去の男たちの精液と、暴力と、絶望で煮込まれたシチューなんだから。だから、上から黒く塗るしかない。僕という絶対的な黒色で塗り潰して、傷を見えなくするしかないんだよ」
僕は彼女のワンピースのボタンに手をかけた。白い布が、僕の指に触れた瞬間、ジュッという音を立てて焦げていきます。
露わになる肌。
そこには、僕にしか見えない所有の焼印が無数に浮かび上がっていました。
「……うう、あぁ……」
ミミの瞳から、理性の光が消えていく。店長という希望の灯火が、僕の吐き出す二酸化炭素によって窒息し、プツンと消灯したようです。やがて、彼女の焦点が合わなくなっていきます。退行現象。彼女は今、自立しようとした大人の女性から、無力で、従順で、惨めな「捨て猫」へと還っていったのです。
「いい子だ。やっと理解できたみたいだね」
僕は彼女を抱きしめた。
強く。肋骨と肋骨が噛み合うほど強く。
僕の身体が液体になって、彼女の毛穴から侵入していく感覚。
融合だ。僕たちは一つの巨大な、醜くも美しい琥珀の中に閉じ込められるんだ。
その時。
部屋の中に、ファンファーレが鳴り響きました。パパラパーン! サーカスみたいな、狂った音程のファンファーレ。天井から、黒い紙吹雪が舞い降りてくる。床のシミが盛り上がり、歪んだ祭壇の形を成す。ヒマワリの花が首を垂れ、一瞬で枯れて黒い粉になった。『汚れた魂に安らぎあれ』『所有権の永続をここに宣言する』!
「愛しているよ、ミミ。誰よりも深く、誰よりも粘着質に。君を砂糖漬けにして、永遠に保存してあげる」
僕は彼女の唇を塞ぎます。
物理的な接触と、精神的な侵略が同時に完遂されたのです。
彼女はもう抵抗することはありません。
ただ、壊れた人形のように、虚空を見つめて涙を流しています。
その瞳の奥で、小さな「自我」が、バチッと音を立ててショートします。
ああ、快感だ。
脳髄シロップが全身を駆け巡ります。
僕の孤独が、僕の不安が、僕のどす黒い嫉妬が、彼女という器に注ぎ込まれて満たされていきます。
彼女が汚れれば汚れるほど、僕は安心するのです。
僕は正常。僕は紳士。僕は神。
だって、こんなに汚れた彼女を、僕だけが愛してあげているのだから。
部屋全体がぐるぐると回転し始めました。遠心分離機の中のよう。白と黒と茶色が混ざり合い、混沌とした灰色の渦を描きます。
僕たちはその中心で、永遠に沈んでいくのです。
ふと、視界の隅で、床に落ちたスマホが明滅しました。
着信。画面に表示された文字。
『ヨウコ』
妻の名前。無機質な呼び出し信号。
だが、その文字は歪んでいます。
まるで、異国の言語のように意味を成さないノイズ。遠い。あまりにも遠い。僕は今、深海一万メートルの、ヘドロの底にある楽園にいるのです。ここの水圧は心地いい。光なんて届かない。倫理も届かない。
あるのは、ただ、甘い腐敗臭だけ。
「……ねえ」
事後の余韻の中で、ミミが掠れた声で呟いた。
彼女の声は、もう以前の甘えるような声ではありません。
壊れたレコードみたいな、空虚な響き。
「私、やっぱり汚いね」
彼女は自分の腕を見つめていた。そこには何もついていないのに、まるで不治の病に侵された皮膚を見るような目つきで。
処置完了。初期化成功。
よかった。彼女は戻ってきた。僕の瓶の中へ。
「ああ、汚いよ。最高に汚くて、美しい」
僕は慈愛に満ちた声で答え、彼女の汗ばんだ額に口づけを落としました。
口の中に、鉄の味が広がった。
それは血の味か、それとも僕の魂が錆びついた味か。
どちらでもいい。
今はただ、このドロドロの愛に溺れていたいのです。




