マイホーム・パパの脳髄シロップ漬け(3)
タクシーの後部座席は、羊水で満たされた培養ポッドのようでした。
僕はその中で溺れないように、ネクタイを指一本分だけ緩めます。
あつい。脳みそが熱い。
頭蓋骨の中で、嫉妬と独占欲という名の二種類の劇薬が混合され、化学反応を起こして沸騰しています。ボコボコと気泡が弾ける音が聞こえる。
窓の外では、東京の風景が溶け出しています。
ビル群は巨大なソフトクリーム。アスファルトは黒いキャラメルソース。行き交う車のライトは、噛み砕かれる前のゼリービーンズ。
世界が糖化している。大気中の糖分濃度が致死量を超えている。
息を吸うたびに、肺胞がベトベトのシロップでコーティングされていくのがわかります。
苦しい。でも、甘い。
この甘さは僕の愛だ。僕の愛が世界を汚染しているんだ。
タクシーが停車しました。
運転手が振り返りもせずにドアを開けます。彼には顔がありません。ただの自動ドアの付属品です。
僕は千円札を数枚、紙くずのように放り投げました。
地面に降り立つと、そこはスポンジケーキのように柔らかく沈み込みました。
見上げれば、その建物は腐った巨木のうろのように、湿った口を開けて僕を待っていました。壁のシミが、僕を嗤う無数の唇に見えます。『所有権の失効』『部外者』『エラー』
幻聴? いいえ、建物のキシミ音です。
僕は階段を上ります。カン、カン、カン。鉄骨の響きが、僕の鼓動とシンクロして加速します。
203号室。僕はドアノブに手をかけました。
生温かい。まるで誰かの手首を握っているような感触。
鍵は開いていました。
彼女は待っていたのです。僕という劇薬が注入されるのを。
ガチャリ。
扉を開けた瞬間、僕は思わず目を覆いました。
──白。
暴力的なまでの、白。
視界がホワイトアウトします。
そこは僕の知る安息の洞窟ではありませんでした。漂白剤のプール。あるいは、初期化されたハードディスクの中身。散乱していた衣服も、薄汚れた雑誌も、湿気を吸った万年床も、すべて消滅しています。
生活がない。恥がない。歴史がない。
あるのは、のっぺらぼうな清潔さだけ。
そして、その白い空間の中央に、彼女が立っていました。
「……来てくれたんだ」
ミミです。
でも、それは僕の愛した壊れた玩具ではありません。
白いワンピース。綺麗に整えられた髪。薄く施された化粧。
彼女は微笑んでいました。
その笑顔は、どこかの自己啓発セミナーか、新興宗教のパンフレットで見たような、プラスチック製の幸福の形をしていました。
部屋の隅には、黄色いヒマワリが生けられています。その花弁の一枚一枚が、監視カメラのレンズのように僕を睨みつけています。
あれは「店長」の目だ。あいつが遠隔操作で、この部屋を監視しているんだ。
吐き気がしました。胃の底から、どす黒いコールタールがせり上がってくる感覚。
これは掃除じゃない。これは隠蔽だ。僕が二年かけて刻み込んだ愛の痕跡を、漂白剤で無理やり洗い落とした、歴史修正主義的テロリズムだ。
「上がって。お茶入れるね」
彼女がキッチンへ向かおうと背を向けます。その背中に、値札が見えました。
『再生品』『リサイクル済み』『店長専用』。
馬鹿な。僕が修理したのに。僕が磨いたのに。
出荷直前に、誰かが横からラベルを貼り替えたのです。
僕は靴を脱ぎました。
一歩、部屋に踏み込みます。
足の裏が焼けつくような感覚。この白い床は、体内に侵入した細菌を殺そうとする抗体でできているようです。拒絶反応。アナフィラキシーショック。
結構。ならば、最強のウイルスとして振る舞うまでです。
「はい、どうぞ」
ミミがマグカップを差し出しました。湯気が立っています。
僕はそれを受け取らず、ポケットに手を突っ込んだまま、彼女の目を覗き込みました。
顕微鏡でバクテリアを観察するように。冷徹に。論理的に。
「……ミミ。君は今、とても危険な状態にあるって、気づいているかい?」
僕は静かに、諭すように言いました。
主治医が、末期の患者に病名を告知するトーンで。
「え……? 危ないって、なにが?」
「この部屋だよ。そして、その服だ」
僕は部屋を見渡しました。
視界の端で、白い壁が呼吸をしています。ヒュー、ヒューと、苦しそうに。
「白すぎるんだよ。不自然だ。君は自分を『真っ白なキャンバス』に戻せるとでも思っているのかい? 過去の男たちに刻まれた無数の傷跡を、僕がどれだけの時間をかけて、僕の色で塗り潰して保護してあげたか、忘れたのかい?」
ミミの手が震えました。
マグカップの中の紅茶が、小さな波紋を広げます。
「な、なに言ってるの……? 私、ただ部屋を片付けただけで……前に進みたくて……」
「前に進む? それは前じゃないよ、ミミ。それは無責任な忘却だ」
僕は一歩、近づきました。
僕の身体から滲み出る黒い影が、白い床を侵食していきます。タールのような粘り気を帯びた影。それがミミの足元へ伸びていき、彼女の真っ白なワンピースの裾を捕らえようと蠢きます。
「君は自分の本質から目を逸らしているだけだ。汚れている自分。傷ついている自分。誰かに依存しなければ呼吸もできない弱い自分。それを『なかったこと』にして、白い服を着て、ヒマワリなんて飾って、善人のフリをしている。それは嘘だ。自分自身への裏切りだ。君の魂が泣いているのが聞こえないのかい? 苦しい、こんな綺麗な服は似合わないよ、って」
「ち、違う! 私は変わりたいの! 店長さんは、そんな私を待ってくれるって……」
「待つ? ハッ、笑わせるね」
僕は鼻で笑いました。
脳内のシロップが沸騰し、蒸気となって口から漏れ出します。
「その店長とやらは、君の『白さ』しか見ていない。君が無理をして取り繕った、薄っぺらいメッキの輝きに騙されているだけだ。でも、メッキはいずれ剥がれる。君がふとした瞬間に見せる闇や傷に気づいた時、彼はどうすると思う? 幻滅するさ。『騙された』って思うさ。そして君を捨てる。……また、あのゴミ捨て場に戻りたいのかい?」
「やめて……そんなこと言わないで……」
彼女が後ずさりしました。
その拍子に、震える手からマグカップが滑り落ちました。
ガシャン! 陶器の砕ける音。バシャッ。茶色い紅茶が、清潔な畳の上に飛び散りました。
白い空間に刻まれた、醜く、しかし鮮烈な汚点。
僕はそれを見て、恍惚としました。
ああ、美しい。この汚れこそが、真実だ。
「ご覧。これが君の正体だ」
僕は床のシミを指差しました。
僕の指先から、黒いレーザーが出て、そのシミを焼き付けます。
「どんなに白く取り繕っても、一瞬でこうやって汚れてしまう。君には『白』を維持する免疫がないんだ。君の魂は、汚れを引き寄せる磁石なんだよ。だから、君には僕が必要なんだ。汚れが目立たない『黒』で、君を包み込んであげられるのは僕だけなんだ」
視界が歪みます。
部屋の壁が、ドロドロと溶け始めました。
天井から、黒い雨が降ってきます。
それは僕の優しさであり、支配であり、呪いです。
「いやぁぁ……!」
ミミが悲鳴を上げ、その場にしゃがみ込みました。
砕けたカップの破片を避けようとして、彼女の白いワンピースが床の紅茶のシミを吸い込みます。
じわり。
純白の布地が、茶色く汚れていく。
ああ、なんて救いのある光景だろう。
彼女が「あるべき姿」に戻っていく。
僕は動きません。手も出しません。
ただ、圧倒的な質量を持つ「影」として、彼女を見下ろします。
仮面?
そんなものはもう必要ありません。
僕は今、創造主として、出来損ないの被造物に最後の審判を下しているのですから。
「可哀想なミミ。でも、僕がいる。その真っ白な嘘を、黒で塗り潰してあげなきゃいけない。君が二度と、身の程知らずな夢を見ないように。君の脳みそのシワの奥まで、甘いシロップ漬けにしなくちゃいけない」
部屋中の空気が重くなり、呼吸ができなくなります。
そこはもうアパートの一室ではありません。
僕のどす黒い胃袋の中です。消化されるのを待つだけの、哀れで可愛い、白い小動物。
僕はゆっくりと、ネクタイを外しました。治療の時間ではありません。これから行われるのは、魂の漂白に対する、汚染の儀式なのです。




