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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
色欲の章
3/41

マイホーム・パパの脳髄シロップ漬け(2)

 コール音は一回。

 まるで受話器の前で正座して待っていたかのように、彼女はすぐに出ました。

「……もしもし」

 ミミの声でした。

 いつもなら、湿気を帯びた、縋るような声色です。あるいは、深夜の過呼吸のような切迫した響き。

 しかし、鼓膜を震わせたその声は、妙に澄んでいました。緊張を含んではいますが、背筋を伸ばして喋っているような、芯のある声。

 違和感。僕の知っている「壊れた玩具」の音ではありません。

「どうしたんだ、ミミ。休日はダメだって言っただろ。何かあったのか?」

 僕は公衆トイレのタイル壁を見つめながら、声を低くして言いました。

 威厳ある保護者として、まずはルール違反を咎めなければなりません。

「ごめんなさい。でも、どうしても聞いてほしくて」

「なんだ? 金か? また店で失敗したのか?」

「ううん、違うの」

 彼女は少し沈黙し、電話の向こうで大きく息を吸い込みました。

 その吸気音が、僕の首筋を冷やりと撫でた気がしました。

「あのね、私……告白されたの」


 ……は?


 一瞬、脳の言語処理中枢がフリーズしました。

 コクハク?

 誰に? 警察に?

 いや、文脈が違います。その声のトーンは、もっと甘ったるく、そして残酷な響きを帯びていました。

「バイト先の、店長さんに。『好きです、付き合ってください』って言われたの」

 店長。

 ああ、以前彼女が話していた、あの冴えない中年男のことでしょうか。人の良さそうな、少し腹の出た、どこにでもいる「モブキャラ」。

 僕は鼻で笑いそうになりました。身の程知らずにも程がある。

 僕が手塩にかけて磨き上げ、高級なホテルで愛し、魂をケアしてきたミミに、あんな路傍の石ころが釣り合うわけがない。

「そうか。で、断ったんだろ? 迷惑な話だな。バイトがしづらくなるなら、辞めればいい。生活費くらい僕が出すから」

 僕は吐き捨てるように言いました。

 当然の帰結です。彼女は僕の所有物であり、店長の告白など、ショーケースの中の宝石にハエが止まったようなものですから。

 しかし。

 ミミの返答は、僕の想定していた脚本を、ビリビリに破り捨てるものでした。

「……ううん。保留にしてもらったの」

「は?」

「だって、店長さん、すごく優しいの。私の過去の話も、リストカットの痕も、全部受け止めるって言ってくれて。『君が前を向けるまで、ずっと待ってる』って」

 カチリ。

 脳内で、何かのスイッチが入る音がしました。

 優しい? 受け止める?

 待て待て待て。

 それは僕の役目だ。僕の専売特許だ。

 僕が二年かけて、泥だらけの彼女を洗い、傷を舐め、生きる意味を与えてきたんじゃないか。

 なんでポッと出の店長ごときが、僕と同じ顔をして、僕の作り上げた作品に触れようとしているんだ?

「ミミ、騙されるなよ。そういう男は体目当てに決まってる」

「でも……」

 ミミの声が震えました。しかし、それは恐怖ではなく、決意の震えでした。

「でも、あなたは付き合ってくれないじゃない。私、何度もお願いしたよね? ちゃんとした恋人になりたいって。でも、あなたはいつも『仕事が』って誤魔化すだけ。……私、わかってるの。あなたが優しいのは、きっとボランティアみたいなものだって」

 ドキリとしました。いや違うよミミ。ボランティアではない。もっと崇高な管理だ。

「私、もう辛いことばかり考えるのは嫌なの。あなたに救ってもらった命だから、大切にしたいの。日の当たる場所で、普通に恋をして、普通にデートして、普通に幸せになりたいの」

 彼女の言葉は、純粋でした。あまりにも真っ直ぐで、前向きで、光に満ちていました。

 僕が教えた通りです。「自分を大切にしなさい」「前を向きなさい」。

 僕の教育は完璧でした。完璧すぎて──彼女は今、あろうことか僕という「足場」を蹴って、自力で空へ飛び立とうとしています。

「だから相談したかったの。私、店長さんと向き合ってみようかなって。あなたのことは大好きだし、恩人だけど……このままじゃ、私は一生『可哀想な子』のままだから」


 プツン。

 脳内で、何かが焼き切れました。

 理性のヒューズか。または、仮面を固定していたゴム紐か。


 向き合う? 一生可哀想な子のまま? ふざけるな。誰のおかげで、そんな殊勝な口が利けるようになったと思ってるんだ。お前は僕のモノだ。僕が拾ったんだ。僕が直した玩具だ。それを、「リサイクル済み」のシールを勝手に貼って、他の男の棚に並ぼうとするなんて。これは万引きだ。窃盗だ。著作権侵害だ!


 ドロリ。

 耳の奥で、何かが溶け出す音がしました。

 シロップです。

 甘くて、粘り気のある、脳髄のシロップが、頭蓋骨の隙間から漏れ出し始めました。


 視界が明滅します。目の前の公衆トイレの白い壁が、脈打ち始めました。壁のシミが、人の顔に見えます。

 あれは、ミミを抱いたことのある、過去の男たちの顔です。

 薄ら笑いを浮かべた、無数の男たち。

 へえ、いい女になったじゃん。俺たちが汚した穴を、あんたが綺麗にしてくれたんだろ。サンキュー、掃除屋さん。

 幻聴が聞こえます。下品な笑い声が、脳内で反響します。

 違う。

 僕は掃除屋じゃない。所有者だ。店長? 優しい? 笑わせるな。そいつも結局、僕が綺麗にしたミミの体を使いたいだけだ。お前の中に、僕が注ぎ込んだ大量の「愛」が詰まっているとも知らないで。お前の細胞の一つ一つに、僕のDNAが刻印されているとも知らないで。


 視界の色調が狂い始めました。

 公園の木々の緑が、毒々しい蛍光グリーンに変色し、溶け落ちていきます。

 青空が、ドス黒い紫色に染まっていきます。

 雲が、砂糖を焦がしたように黒く変色し、ボタボタと地面に落ちてきます。

 世界が溶ける。

 僕の理性と一緒に、この完璧な日曜日の風景が、ドロドロのシロップ漬けになっていく。


「……ミミ」

 僕は声を絞り出しました。

 自分でも驚くほど、低く、冷たく、軋んだ声でした。

「会って話そう。今すぐ」

「え? でも、今日は……」

「いいから会うんだ。大事な話がある。君の未来に関わる話だ」

「……わかった。部屋で待ってる」

 通話を切りました。

 スマホを握りしめる手が、白くなるほど力を込めていました。画面にヒビが入ったかもしれません。どうでもいい。僕の心には、もっと大きな亀裂が入ってしまったのだから。

 トイレの裏から出ると、そこは異界でした。

 芝生は腐った抹茶のような色をしており、遊具の鉄棒は飴細工のようにぐにゃりと曲がって見えました。

 ベンチに座る妻のヨウコ。彼女だけが、奇妙なほど白く、平面的に見えました。まるで書き割りの背景です。

 砂場で遊ぶマナミ。彼女が積み上げた砂の山が、巨大な糞便の山に見えました。

 僕の手についた泥。

 汚い。汚らわしい。早く洗わなきゃ。いや、何を洗う? 手か? それとも、ミミの心をか?

 僕は家族の元へ歩み寄りました。一歩踏み出すたびに、足元の地面がヌチャ、ヌチャ、と音を立てます。

 アスファルトが溶けているのでしょうか。いや、僕の脳が溶けて、世界を浸食しているのです。

「パパ! お電話おわった?」

 マナミが泥だらけの手で駆け寄ってきます。

 その顔が、一瞬、ミミの泣き顔とダブりました。

『パパみたい』ミミの言葉がリフレインします。パパ。そう、僕はパパだ。マナミのパパであり、ミミのパパだ。

 パパが作ったものを、誰にも奪わせてなるものか。

「ごめん、ヨウコ」

 僕は妻に向かって、能面のような笑顔を貼り付けました。

 頬の筋肉がピクピクと痙攣しているのがわかります。

「会社で深刻なトラブルがあった。システムのエラーだ。今すぐ行かないと、データが全部飛んでしまうかもしれない」

 嘘ではありません。

「えっ、そんなに大変なの? 日曜日なのに……」

 ヨウコが心配そうに眉を下げました。

 その顔が、白黒映画のように色褪せて見えます。どうでもいい。この白い世界は、今はどうでもいい。僕には、処理しなければならない案件があるんだ。

「本当にごめん。なるべく早く戻るから」

 僕はマナミの頭を撫でました。柔らかい髪の感触。でも、僕の指先は震えていました。

 この手で、ミミをどうしてやろうか。

 抱きしめる? 説得する?

 それとも──壊す?

 壊してしまえば、もう誰にも奪われないのではないか?

 いけない。脳内シロップの糖度が高すぎます。思考が甘美な狂気へとショートカットしようとしています。

 僕は背を向けました。

 家族の視線を背中に感じながら、僕は公園の出口へと早足で向かいます。


 世界は極彩色に歪んでいます。通行人の顔が溶け、信号機の色が混ざり合い、街路樹が触手のように蠢いています。

 僕は走りました。

 タクシーを止め、行き先を告げます。

 ミミのアパートへ。僕の別荘へ。僕の処置室へ。

 待っていろ、ミミ。

 お前の勘違いを正してやる。

 お前はシンデレラじゃない。

 お前は、僕の脳髄シロップに漬け込まれた、哀れで可愛い標本なんだよ。


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