マイホーム・パパの脳髄シロップ漬け(2)
コール音は一回。
まるで受話器の前で正座して待っていたかのように、彼女はすぐに出ました。
「……もしもし」
ミミの声でした。
いつもなら、湿気を帯びた、縋るような声色です。あるいは、深夜の過呼吸のような切迫した響き。
しかし、鼓膜を震わせたその声は、妙に澄んでいました。緊張を含んではいますが、背筋を伸ばして喋っているような、芯のある声。
違和感。僕の知っている「壊れた玩具」の音ではありません。
「どうしたんだ、ミミ。休日はダメだって言っただろ。何かあったのか?」
僕は公衆トイレのタイル壁を見つめながら、声を低くして言いました。
威厳ある保護者として、まずはルール違反を咎めなければなりません。
「ごめんなさい。でも、どうしても聞いてほしくて」
「なんだ? 金か? また店で失敗したのか?」
「ううん、違うの」
彼女は少し沈黙し、電話の向こうで大きく息を吸い込みました。
その吸気音が、僕の首筋を冷やりと撫でた気がしました。
「あのね、私……告白されたの」
……は?
一瞬、脳の言語処理中枢がフリーズしました。
コクハク?
誰に? 警察に?
いや、文脈が違います。その声のトーンは、もっと甘ったるく、そして残酷な響きを帯びていました。
「バイト先の、店長さんに。『好きです、付き合ってください』って言われたの」
店長。
ああ、以前彼女が話していた、あの冴えない中年男のことでしょうか。人の良さそうな、少し腹の出た、どこにでもいる「モブキャラ」。
僕は鼻で笑いそうになりました。身の程知らずにも程がある。
僕が手塩にかけて磨き上げ、高級なホテルで愛し、魂をケアしてきたミミに、あんな路傍の石ころが釣り合うわけがない。
「そうか。で、断ったんだろ? 迷惑な話だな。バイトがしづらくなるなら、辞めればいい。生活費くらい僕が出すから」
僕は吐き捨てるように言いました。
当然の帰結です。彼女は僕の所有物であり、店長の告白など、ショーケースの中の宝石にハエが止まったようなものですから。
しかし。
ミミの返答は、僕の想定していた脚本を、ビリビリに破り捨てるものでした。
「……ううん。保留にしてもらったの」
「は?」
「だって、店長さん、すごく優しいの。私の過去の話も、リストカットの痕も、全部受け止めるって言ってくれて。『君が前を向けるまで、ずっと待ってる』って」
カチリ。
脳内で、何かのスイッチが入る音がしました。
優しい? 受け止める?
待て待て待て。
それは僕の役目だ。僕の専売特許だ。
僕が二年かけて、泥だらけの彼女を洗い、傷を舐め、生きる意味を与えてきたんじゃないか。
なんでポッと出の店長ごときが、僕と同じ顔をして、僕の作り上げた作品に触れようとしているんだ?
「ミミ、騙されるなよ。そういう男は体目当てに決まってる」
「でも……」
ミミの声が震えました。しかし、それは恐怖ではなく、決意の震えでした。
「でも、あなたは付き合ってくれないじゃない。私、何度もお願いしたよね? ちゃんとした恋人になりたいって。でも、あなたはいつも『仕事が』って誤魔化すだけ。……私、わかってるの。あなたが優しいのは、きっとボランティアみたいなものだって」
ドキリとしました。いや違うよミミ。ボランティアではない。もっと崇高な管理だ。
「私、もう辛いことばかり考えるのは嫌なの。あなたに救ってもらった命だから、大切にしたいの。日の当たる場所で、普通に恋をして、普通にデートして、普通に幸せになりたいの」
彼女の言葉は、純粋でした。あまりにも真っ直ぐで、前向きで、光に満ちていました。
僕が教えた通りです。「自分を大切にしなさい」「前を向きなさい」。
僕の教育は完璧でした。完璧すぎて──彼女は今、あろうことか僕という「足場」を蹴って、自力で空へ飛び立とうとしています。
「だから相談したかったの。私、店長さんと向き合ってみようかなって。あなたのことは大好きだし、恩人だけど……このままじゃ、私は一生『可哀想な子』のままだから」
プツン。
脳内で、何かが焼き切れました。
理性のヒューズか。または、仮面を固定していたゴム紐か。
向き合う? 一生可哀想な子のまま? ふざけるな。誰のおかげで、そんな殊勝な口が利けるようになったと思ってるんだ。お前は僕のモノだ。僕が拾ったんだ。僕が直した玩具だ。それを、「リサイクル済み」のシールを勝手に貼って、他の男の棚に並ぼうとするなんて。これは万引きだ。窃盗だ。著作権侵害だ!
ドロリ。
耳の奥で、何かが溶け出す音がしました。
シロップです。
甘くて、粘り気のある、脳髄のシロップが、頭蓋骨の隙間から漏れ出し始めました。
視界が明滅します。目の前の公衆トイレの白い壁が、脈打ち始めました。壁のシミが、人の顔に見えます。
あれは、ミミを抱いたことのある、過去の男たちの顔です。
薄ら笑いを浮かべた、無数の男たち。
へえ、いい女になったじゃん。俺たちが汚した穴を、あんたが綺麗にしてくれたんだろ。サンキュー、掃除屋さん。
幻聴が聞こえます。下品な笑い声が、脳内で反響します。
違う。
僕は掃除屋じゃない。所有者だ。店長? 優しい? 笑わせるな。そいつも結局、僕が綺麗にしたミミの体を使いたいだけだ。お前の中に、僕が注ぎ込んだ大量の「愛」が詰まっているとも知らないで。お前の細胞の一つ一つに、僕のDNAが刻印されているとも知らないで。
視界の色調が狂い始めました。
公園の木々の緑が、毒々しい蛍光グリーンに変色し、溶け落ちていきます。
青空が、ドス黒い紫色に染まっていきます。
雲が、砂糖を焦がしたように黒く変色し、ボタボタと地面に落ちてきます。
世界が溶ける。
僕の理性と一緒に、この完璧な日曜日の風景が、ドロドロのシロップ漬けになっていく。
「……ミミ」
僕は声を絞り出しました。
自分でも驚くほど、低く、冷たく、軋んだ声でした。
「会って話そう。今すぐ」
「え? でも、今日は……」
「いいから会うんだ。大事な話がある。君の未来に関わる話だ」
「……わかった。部屋で待ってる」
通話を切りました。
スマホを握りしめる手が、白くなるほど力を込めていました。画面にヒビが入ったかもしれません。どうでもいい。僕の心には、もっと大きな亀裂が入ってしまったのだから。
トイレの裏から出ると、そこは異界でした。
芝生は腐った抹茶のような色をしており、遊具の鉄棒は飴細工のようにぐにゃりと曲がって見えました。
ベンチに座る妻のヨウコ。彼女だけが、奇妙なほど白く、平面的に見えました。まるで書き割りの背景です。
砂場で遊ぶマナミ。彼女が積み上げた砂の山が、巨大な糞便の山に見えました。
僕の手についた泥。
汚い。汚らわしい。早く洗わなきゃ。いや、何を洗う? 手か? それとも、ミミの心をか?
僕は家族の元へ歩み寄りました。一歩踏み出すたびに、足元の地面がヌチャ、ヌチャ、と音を立てます。
アスファルトが溶けているのでしょうか。いや、僕の脳が溶けて、世界を浸食しているのです。
「パパ! お電話おわった?」
マナミが泥だらけの手で駆け寄ってきます。
その顔が、一瞬、ミミの泣き顔とダブりました。
『パパみたい』ミミの言葉がリフレインします。パパ。そう、僕はパパだ。マナミのパパであり、ミミのパパだ。
パパが作ったものを、誰にも奪わせてなるものか。
「ごめん、ヨウコ」
僕は妻に向かって、能面のような笑顔を貼り付けました。
頬の筋肉がピクピクと痙攣しているのがわかります。
「会社で深刻なトラブルがあった。システムのエラーだ。今すぐ行かないと、データが全部飛んでしまうかもしれない」
嘘ではありません。
「えっ、そんなに大変なの? 日曜日なのに……」
ヨウコが心配そうに眉を下げました。
その顔が、白黒映画のように色褪せて見えます。どうでもいい。この白い世界は、今はどうでもいい。僕には、処理しなければならない案件があるんだ。
「本当にごめん。なるべく早く戻るから」
僕はマナミの頭を撫でました。柔らかい髪の感触。でも、僕の指先は震えていました。
この手で、ミミをどうしてやろうか。
抱きしめる? 説得する?
それとも──壊す?
壊してしまえば、もう誰にも奪われないのではないか?
いけない。脳内シロップの糖度が高すぎます。思考が甘美な狂気へとショートカットしようとしています。
僕は背を向けました。
家族の視線を背中に感じながら、僕は公園の出口へと早足で向かいます。
世界は極彩色に歪んでいます。通行人の顔が溶け、信号機の色が混ざり合い、街路樹が触手のように蠢いています。
僕は走りました。
タクシーを止め、行き先を告げます。
ミミのアパートへ。僕の別荘へ。僕の処置室へ。
待っていろ、ミミ。
お前の勘違いを正してやる。
お前はシンデレラじゃない。
お前は、僕の脳髄シロップに漬け込まれた、哀れで可愛い標本なんだよ。




