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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
色欲の章
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マイホーム・パパの脳髄シロップ漬け(1)

 日曜日の朝というのは、どうしてこうも暴力的に「白」なのでしょうか。

 カーテンの隙間から差し込む光は、まるで強力な漂白剤のように部屋の隅々の影を消し去り、空気中を舞う埃さえも天使の金粉のように輝かせています。

 キッチンからは、焦がしバターとメイプルシロップ、そして深煎りのコーヒーのアロマ。

 これぞ幸福の匂いです。世界が平和で、僕の年収が安定していて、僕の家庭が円満であることの、嗅覚的な証明書です。

「パパ、おはよー!」

 リビングのドアを開けると、三歳になる娘のマナミが、弾丸のような勢いで僕の足に抱きついてきました。柔らかい髪。ミルクの匂い。圧倒的な陽のエネルギー。

 僕は彼女を抱き上げ、たかい、たかいをします。キャハハ、という鈴を転がすような笑い声が、高い天井に反響します。

 愛しい。

 あまりにも愛しい、僕の遺伝子の結晶。

 キッチンでは、妻のヨウコがフライパンを返しながら振り返ります。化粧っ気のない素顔ですが、肌は艶やかで、清潔感に溢れています。彼女は完璧な妻であり、完璧な母親です。

「おはよう、あなた。パンケーキ焼けたわよ」

「ありがとう。最高の朝だね」

 僕は娘をハイチェアに座らせ、妻の頬に軽くキスをします。

 ダイニングテーブルには、色鮮やかなサラダ、スクランブルエッグ、そして黄金色のシロップがたっぷりかかったパンケーキ。僕は席に着き、ナイフとフォークを手に取ります。

 ああ、美しい。

 僕は思います。この白い聖域を守るためなら、僕はなんだってできる、と。毎日満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、身を粉にして働くことも苦ではありません。

 しかし同時に、僕は知的な大人として理解しています。この完璧な「白」を維持するためには、どうしても「黒い排泄口」が必要なのだということを。


 人間はバランスでできています。

 高潔な精神を維持するためには、定期的に汚濁に触れ、自らの内なる獣性を処理しなければなりません。

 そうしないと、人は壊れてしまう。

 だから僕には、もう一つの顔があります。

 それは浮気とか、不倫とか、そんな俗な言葉で片付けられるものではありません。もっと崇高で、精神医療に近い活動。あえて名付けるなら、魂の保護活動です。


 シロップに浸ったパンケーキを口に運びながら、僕はスマホの画面をタップし、裏アカウントへログインします。

 そこにいるのは、ミミ。

 出会いは二年前、エックスの深夜のタイムラインでした。

『死にたい』『寂しい』『誰か助けて』。

 そんなハッシュタグの海を漂っていた彼女のアカウントは、まるで傷ついた野良猫のようでした。アイコンは真っ黒。プロフィール欄には呪詛のような言葉が並んでいる。

 普通の人間なら、気味悪がってブロックするでしょう。でも、僕は違います。

 僕は紳士的にリプライを送りました。ただ、大人の余裕として、話を聞いてあげたかったのです。

 DMでのやり取りは、まるでカウンセリングでした。

 親からのネグレクト。学校でのいじめ。リストカットの画像。彼女は世界の不幸を煮詰めたような少女でした。僕は根気強く、彼女の歪んだ認知を正し、肯定し続けました。

 初めて直接顔を合わせたのは、新宿の外れにある喫茶店でした。コーヒーとケーキの良い香りに包まれた、ミニチュアハウスのような小さな喫茶店です。

 彼女は怯えていました。黒い服を着て、俯いて、小刻みに震えていました。僕は優しく微笑み、ケーキをご馳走し、ただひたすら彼女の話を聞きました。

 君は悪くない。君は生きているだけで価値がある。

 僕が投げかける言葉の一つ一つが、乾いたスポンジのように彼女に吸収されていくのがわかりました。

 その夜、彼女は泣きながら僕にすがってきました。

 帰らないで。ミミを独りにしないで。

 僕は困ったふりをして、でも拒絶はせず、ホテルへと導きました。それはセックスというよりは、医療行為でした。彼女の空っぽの器に、僕という存在を充填する作業。彼女は僕に抱かれながら、「パパみたい」と呟きました。


 それから、僕たちの奇妙な関係が始まりました。

 僕は自分の家庭のことは一切話していません。「仕事が忙しい独り身の経営者」と話してあります。

 彼女は僕に依存しました。

 深夜に「死にたい」とヒステリックに電話をかけてきたかと思えば、僕が駆けつけると子猫のように甘えてくる。彼女は僕の前でだけ心を開きます。僕が与える言葉、僕が与える快楽だけが、彼女を安定させる鎮静剤なのです。

 最近のミミは、見違えるように回復してきました。

 リストカットの傷は癒え、バイトを始め、服装も明るくなりました。

「あなたのおかげで、私、変われたの」

 彼女はそう言って、僕を崇拝の眼差しで見つめます。

 悪い気はしません。僕は神様になった気分でした。壊れた玩具を修理して、新品同様に再生させた職人の喜び。これこそがこの慈善活動の醍醐味です。

 ただ、少し困ったこともあります。彼女が回復するにつれ、欲が出てきたのです。

「付き合ってほしい」「結婚してほしい」と、何度も迫ってくるようになりました。そのたびに僕は、「今は仕事が大事な時期だから」「君の自立を見守りたいから」と、もっともらしい理由で煙に巻いてきました。

 当然です。僕にはヨウコとマナミがいる。

 ミミはあくまで別荘であり、本宅にはなり得ないのですから。


 それに──僕には、どうしても許せないことが一つだけあります。

 それは、彼女の過去です。

 事後のピロートークで、彼女は懺悔のように語るのです。「私、汚れてるから」と。

 寂しさを埋めるために、何人もの男に体を許してきた過去。

 ──名前も知らない男。乱暴な男。金だけ置いていく男。

 彼女は泣きながら言います。ただ抱きしめてほしかっただけなの、と。

 その過去を聞くたびに、僕の脳内ではどす黒い炎が燃え上がります。

 想像してしまうのです。僕の知らない、顔のない男たちが、薄汚い手でミミを触り、卑猥な言葉を吐きかけ、彼女の中を蹂躙する光景を。

 その時、僕の視界は明滅します。ホテルの清潔な白いシーツが、無数のゴキブリで埋め尽くされるような幻覚。吐き気がします。

 同時に、猛烈な嫉妬と、サディスティックな興奮が湧き上がります。


 許せない。誰だ? その男は誰だ? 殺してやりたい。その汚いモノを切り落としてやりたい。ミミは僕のモノだ。僕だけの玩具だ。他の誰かが触れた痕跡など、細胞の一つたりとも残しておきたくない。

 

 でも、僕は紳士です。

 そのドロドロとした感情を「慈愛」の仮面の下に押し隠し、彼女の頭を撫でて言うのです。

「可哀想に。辛かったね。でも、もう大丈夫。僕が全部忘れさせてあげるから」

 そう言って、僕は彼女を抱きます。

 過去の男たちの痕跡を、僕のDNAで上書き保存するように。執拗に、深く、何度も。

 白く濁った液体で、彼女の中を塗り潰していく作業。それは浄化の儀式なのです。


「パパ、おやまつくろ!」

 マナミの声で、僕は現実の日曜日に引き戻されます。

 そうだ、今は公園に来ていたのでした。

 雲ひとつない青空。緑の芝生。僕はシャベルを手に取り、マナミと一緒に砂場に入ります。

 妻はベンチで本を読んでいます。

 完璧な構図です。

 僕は無心で砂を掘ります。

 ザクッ、ザクッ。

 湿った砂の感触が、ふと昨夜抱いたミミの肌を連想させます。昨日の彼女は、妙に綺麗でした。肌艶が良く、以前のような淀んだ空気が消えていました。

 最近、いいことがあったの、と彼女は微笑んでいました。きっと、バイト先で褒められたとか、その程度のことでしょう。

 彼女の世界は狭い。六畳一間のアパートが彼女の宇宙の全てであり、その中心にいる太陽は僕なのですから。


 僕は砂を積み上げます。

 高く、高く。

 水をかけて固めます。

 ドロドロの泥水。

 僕の手は泥だらけです。

 ああ、気持ちいい。

 汚れることの快感。

 僕の指先から、黒い泥が滴り落ちます。

 それはまるで、僕の脳内から漏れ出したシロップのようです。

 マナミが無邪気に笑っています。

 天使の笑顔。

 この笑顔を守るために、パパは泥にまみれているんだよ。


 その時、ポケットのスマホが振動しました。

 ブブッ。短い振動。LINEの通知です。

 僕は眉をひそめます。

 休日に連絡してくるのはルール違反です。僕が家庭持ちだとは言っていませんが、休日は重要なプロジェクトの会議があるから、と言い聞かせてあるはずです。ミミもそれは重々承知のはず。それなのに連絡してくるということは、よほどの緊急事態でしょうか。

 また発作でも起きたのか? 「死にたい」と泣き喚いているのか?

 僕は泥だらけの手をズボンで拭い、周囲を気にしながらスマホを取り出しました。

 画面に表示された名前は、『鈴木実』。ヨウコへのカモフラージュ用偽名です。

 通知センターに表示されたメッセージのプレビュー。

 それを見た瞬間、僕の手が止まりました。


『今、だいじょうぶ? そうだんしたいことがあります』


 相談? 「死にたい」でも「会いたい」でもなく、相談?

 いつものヒステリックな文面とは違う、妙に落ち着いた、しかし切迫した響き。

 胸騒ぎがしました。

 昨夜の彼女の笑顔。「いいことがあったの」という言葉。点と点が、嫌な予感として繋がりかけます。

 僕はベンチの妻の方を見ました。彼女は読書に夢中です。

 僕は静かに立ち上がり、公衆トイレの裏手へと移動しました。

 ここなら誰にも聞かれない。

 僕は画面をタップし、通話ボタンを押そうとして──指を止めました。指先が微かに震えています。

 なぜだ? なぜ僕は怯えている?

 たかが、飼い猫からの電話じゃないか。


 日曜日の公園の喧騒が、急に遠ざかっていくような感覚。

 僕は深呼吸をして、通話ボタンを押しました。

 その瞬間、僕の完璧な日曜日は終わりを告げることになります。

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