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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
罰Ⅰ
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抵抗不能の純白な精神汚染

 白白白白白白白白。


 視界のゲシュタルトが崩壊するほどの、暴力的なホワイトアウト。

 遠近法の喪失。平衡感覚の家出。まるで眼球を裏返して、その強膜の内側をゼロ距離で直視させられているような、吐き気を催すほどの閉塞と開放の同時多発テロだ。三半規管が職務放棄して、脳髄の中で不快なノイズ・ミュージックを奏でている!


 吐きたい!

 胃袋の存在証明をすべてぶちまけて、この冒涜的に潔癖なキャンバスを汚染してやりたい!

 だが不可能。口腔内に、正体不明の有機的な異物が侵入しているからだ。

 ゴムでもゼリーでもない。生温かく、ヌルリとした弾力。まるで他人の切り取られた舌か、摘出されたばかりの腫瘍。そいつが「同居許可」も取らずに喉の奥へ根を張ろうと脈動している。最悪の侵略行為だ。

 手足は動かない。不可視の椅子。不可視の拘束具。

 僕は真空パックされた鶏肉のごとく、この狂った「白」という概念によって、存在の輪郭ごとパッキングされている。


 思考しろ。シナプスを焼き切る勢いで回転させろ。

 パニックは下等動物の反応だ。俺は二十一世紀の文明が生んだ、理性的でスマートな霊長類の完成形だぞ? 感情というバグを排除し、論理という聖剣で武装したホモ・サピエンスだろ?

 状況解析。


 仮説1。ここは病院。俺の前頭葉がクラッシュして、視覚野が砂嵐を映している。

 仮説2。ここは死後のクラウド・サーバー。俺というデータは削除待機フォルダに放り込まれた。

 仮説3。悪質なVR。過労したニューロンが見せる極彩色のエラー。


 どれだ。どれが正解だ。解答用紙はどこだ!

 無音。真空。静寂のデシベルが高すぎる。「無」が鼓膜を支配している。

 怖い。

 言語化できない恐怖! 思考の反響音が怖い! 外界からの入力信号がないせいで、俺の自我という風船が内圧に耐え切れずパンク寸前だ! 俺という個体が、この白の海に希釈されて消滅してしまう!


「──うるさいなあ」


 声がした。

 鼓膜への振動ではない。脳の皺の奥に、湿った指先で直接書き込まれたような、粘着質なシグナル。


「君の思考ノイズ、騒音レベルだっての。もう少し黙れない? ここは神聖なる法廷であり、実験室であり、処刑場なんだからさ。わかる? 沈黙を恐れて無意味な情報を垂れ流すのは、精神的に未熟な現代人のバグだよ」


 空間のテクスチャが、音もなく裂けた。

 白が捲れ上がり、そこから「奴」が滲み出てきた。清潔な白衣を纏った、人型の概念。だが、首から上が欠損している。

 顔があるべき座標に鎮座しているのは、赤黒く脈打つ巨大な臓器──心臓だった。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 バスケットボール大の肉塊が、不気味に痙攣している。血管という血管が蛇のようにのたうち回り、静脈の青と動脈の赤が、カンディンスキーの抽象画のようにグロテスクな模様を描く。その表面は脂ぎった粘液でコーティングされ、時折、プシューッという音と共に、生臭い蒸気を噴出している。

 グロッ。生理的嫌悪の臨界点突破。「()()」という現象を煮詰めて、濾過せずにブチまけたような暴力的な実存感!


「なにガン見してんの? 穴が開くよ」


 心臓が言った。発声器官はない。巨大な肉塊の振動が、直接「意味」となって俺の脳に干渉してくる。


「相変わらずだよねえ。対象の本質に触れるのをビビッて、表面的なメタデータばっか漁ってんの。マッチングアプリの画面スワイプするみたいに、俺のことも値踏みしてんでしょ? 解像度の加工、右にスワイプ。年収の桁、右にスワイプ。遺伝子の偏差値、左にスワイプ、おっ、かわいい! 右にスワイプ……。君はそうやって数字と記号とピクセルの集合体を愛撫するだけで、相手の鼓動を聞こうとしなかった。だからこそ君みたいな不良債権は今、ここに差し押さえられてるってわけ」


 心臓人間は、虚空に浮かぶ不可視のタブレットを、面倒くさそうに弾く仕草をした。


「被告人。個体識別番号、XXX。罪状の読み上げ……はあ、またこのパターンかよ。人類ってなんでこう、同じエラーコードを愛おしむのかねえ? 学習機能ショートしてんの? それとも忘却こそが至高の快楽だってか? Winsows95の方がまだマシな処理能力だぜ」


 心臓は呆れたように、小刻みに痙攣した。


「罪状。『愛の不法投棄』。および『感情代謝の不全』。さらに『精神的加害の黙認による未必の故意』。……要するにさ。君、愛っていう劇薬の取扱説明書、根本から読み違えてんだよ」


 読み違えてる? 俺が?

 ふざけんな! 異議あり! 口の中の異物が邪魔だが、俺の脳内弁論を聞け!

 心外だ! 俺は愛をリスペクトしてる! 丁重に扱ってるからこそ、安全距離を確保して運用してんだよ! 愛なんてのは核廃棄物だろ? 精神の汚染物質だろ? 素手で触れば爛れるし、飲み込めば内臓が溶ける毒物だろ? だから俺は、防護服を着込み、マジックハンドを介して、遠隔操作でスマートに処理してきたんじゃねえか! 依存という名の癒着をしない! 束縛という名の監禁をしない! 期待という名の債務を負わない! それが現代社会における、最も洗練された「愛」のプロトコルだろ! マナーだろ! 汗と涙と体液にまみれてのたうち回るような、昭和的泥臭い情念なんて、俺のOSには1ミリも互換性がねえんだよ! 俺はただ、バグのない平穏なシステムとして稼働したいだけなんだ!


「ああ、ああ。なんて雄弁なノイズ。自己正当化の不協和音で鼓膜が腐りそう」


 心臓人間は、憐れむように、ドクリ、と大きく収縮した。


「君の言う『スマート』ってのはさ、聞こえはいいけど……要するに『去勢された臆病』でしょ? 傷つくリスクヘッジばっか考えて、自家製の無菌室に引きこもって震えてるだけの、可愛らしい胎児じゃん。それを我々の業界用語ではね、『()()便()()』って呼ぶんだよ」


 便秘。

 なんて汚らわしい、即物的なメタファーだ。


「汚い? ハッ、君ってほんとユーモアの回路死んでるね。愛なんてものはさ、排泄行為と本質的に同義だぞ。溜め込めば毒素になるし、精神を内側から壊死させる。ドロドロした未消化の自我を、恥も外聞もなく体外へ垂れ流して、それを相手に塗りたくる行為こそが愛なんだよ。君は排泄していない。ずっと溜め込んでる。君の魂の直腸は、未消化の感情っていう宿便でパンパンに膨れ上がって、今にも破裂寸前だ。……ああ、匂うぜ。腐乱したエゴのガスが、プンプン漏れてやがる」


 奴が一歩近づいた。鉄錆と血糊、そして甘い腐敗臭が混ざり合った、死の香水が漂ってきた。


「だから、強制的な開通工事が必要なんだよ。浣腸だ。存在論的浣腸。君の硬化した脳髄に劇薬を注ぎ込んで、無理やりにでもスッキリさせてやるよ」


 心臓人間は、白衣のポケットから、とんでもない物を取り出した。

 巨大な注射器。

 シリンダーの太さは俺の太腿ほどもあり、先端にはストロー並みの口径を持つ針が、凶々しくギラついている。

 そして、その中身。

 七色。いや、極彩色のカオス。

 赤、黒、紫、緑、黄色……あらゆる原色が混ざり合うことなく、マーブル模様を描いて渦巻いている。それは生き物のように蠢き、時折、液体の中から苦悶する人の顔が浮かんでは消え、怨嗟の声なき悲鳴が泡となって弾けているのが見える。


「これは、君みたいな賢い消費者が返品してきた、愛の産業廃棄物だ。致死量を超えて濃縮された、情念の抽出液。色欲に溺れ、魂を暴食し、憤怒で狂い、怠惰に腐り、嫉妬に狂喜し、強欲に自滅し、傲慢に踊った、……愛すべき七人の罪人たちの、脳髄液だぜ」


 奴は注射器を構えた。針先から極彩色の雫がポタリと垂れて、床の白さをジューッと焼いた。


「君には免疫がない。無菌室育ちの虚弱な精神だからな。これを打てばOSごとお釈迦になって、発狂するかもしれん。二度と元の『スマートな僕』には再起動できんかもしれん。……でも、それが罰だ。他者の狂気を、我が事としてインストールしろ。奴らがどれほど痛かったか。どれほど惨めだったか。どれほど、生々しく脈打っていたか。その脳髄のシワ一本一本で、たっぷりと味わいなよ」


 待て! 待ってくれ!

 話せばわかる! 言語的プロトコルで交渉しよう! 暴力は野蛮だ! 医療行為には同意書が必要だろ! こんなの不条理なバグだ! 俺はただ、平穏に生きたかっただけなんだよ! 誰も傷つけず、誰からも傷つけられず、空気みたいに透明なデータのまま、静かにシャットダウンしたかっただけなんだよ!

 来るな! その針を向けるな!

 怖い!

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い!

 俺が俺じゃなくなってしまう! あのドロドロした液体が入ってきたら、俺はきっと汚染されてしまう! 俺が守り続けてきた清潔な自我が、他人の汚い感情で上書き保存されちまう! 嫌だ! 助けてくれ! ママ! 神様! 誰か! 俺をこの悪夢からログアウトさせてくれえええええ!


「問答無用。──では、刑を執行します」


 心臓人間は、それまでの軽薄さが嘘のように、絶対零度の事務的な手つきで、その巨大な針を俺の眼球に突き立てた。

 ブスリ。

 頭蓋骨が砕ける音。冷たい金属が脳漿をかき混ぜる感触。

 そして、トリガーが引かれた。


 ドプン。

 世界が弾けた。


 熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!

 血管という血管に、煮えたぎる鉛が奔流となって流れ込んでくる! 視界が明滅! エラー! エラー! 致命的なシステムクラッシュ! 赤黒紫緑黄! 色の洪水! あああ誰かの記憶が雪崩れ込んでくる! 俺じゃない誰かの、浅ましくてみっともない絶叫が、俺の喉を引き裂いて噴出する! ああ、なんだこれ! 苦しい! 痛い! 重い!


 でも。

 甘い。

 脳が溶けるほどに、甘美だ。

 これが、愛なのか。

 これが、人が死に至るほどの、愛の致死量──。


 俺の意識は、七色の狂気の渦へと、高速回転しながら堕ちていった。


(罰Ⅰ・完)

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