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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
傲慢の章
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溶けない硝子はやがて喉に詰まる(6)

 カシミアのカーディガンを羽織り、ボタンをすべて留め終えても、指先の震えは止まらなかった。心臓が不規則に脈打つたびに、彼らの残酷な言葉がリフレインする。


『中身スカスカ』

『硝子細工』

『体温のない人形』


 逃げ出したい。

 今すぐこの場所から消えて、あたしの「価値」を否定するすべてを記憶から抹消してしまいたい。

 あたしは逃げるように玄関へと足を向けかけた。

 けれどその時、静寂を引き裂くように、ズズッ、という湿った音が響いた。

 足が止まる。

 恐る恐る振り返ると、ソファの上で眠るリオが、鼻を鳴らして寝返りを打ったところだった。

 あたしは息を呑んだ。

 そこに広がる光景が、あまりにも無防備で、そして決定的に「損なわれている」ように見えたから。

 半開きになったリオの口からは、唾液が糸を引いて垂れ落ち、カケルのズボンにシミを作っている。彼女のスカートは捲れ上がり、露わになった太腿には、うっすらと赤い鬱血の跡──カケルが強く掴んだ指の跡が残っていた。

 カケルも同様だ。脂ぎった顔で口を開け、首筋にはリオが吸い付いたような跡がある。部屋に充満する、酸っぱい獣の臭いと、生温かいゴムの匂い。

 ……ああ。

 生理的な悪寒と共に、冷たい納得があたしを満たしていく。

 これが、彼らの言う「生きてるって感じ」なのね。

 互いの穴をこじ開け、粘膜を擦り合わせ、体液で汚し合うこと。

 それは「愛し合う」なんて綺麗なものじゃない。

「消費し合う」ということだわ。

 見て。

 リオの肌は、カケルに触られた分だけ手垢がつき、価値が目減りしている。カケルの身体も、リオの安っぽい体液を受け入れて、中古品に成り下がっている。

 彼らは今夜、互いの価値を削り取って、摩耗させたのね。

 ふと、夜景を背にした窓ガラスに、あたしの姿が映り込んでいるのが見えた。

 あたしは吸い寄せられるように、窓辺へと歩み寄った。

 暗いガラスの中のあたし。

 乱れひとつない衣服。

 誰の指跡も、誰の体液も付着していない、白く滑らかな肌。

 恐怖と屈辱で青ざめているけれど、その身体は「新品」のまま、完璧な状態で保存されている。

 カケルトは言った。「人形」と。「体温がない」と。

 ええ、そうよ。それがどうしたの?

 温度があるということは、熟れて、腐って、崩れていくということ。誰かに食べられ、消化され、排泄される運命にあるということ。

 でも、あたしは違う。

 あたしは誰にも封を切らせなかった。

 誰にも中身を確認させなかった。

 だからこそ、あたしは「可能性」のままでいられる。

 その瞬間、あたしの中でカチリと音がした。

 熱を持っていた傷口が、急速に塞がっていく音。

 彼らは「中身がスカスカ」だと笑ったけれど、馬鹿ね。

 箱の中身なんて、どうでもいいのよ。

「未開封」であるという事実。

 その一点においてのみ、あたしは彼らのような「開封済みの中古品」よりも、天文学的に価値が高いの。

 一度開けられてしまった箱なんて、たとえ中に黄金が入っていたとしても、もう誰も定価では買わないわ。

 あたしの胸の痛みは、すうっと引いていった。

 代わりに満ちてきたのは、誰にも侵されない聖域を守り抜いた者だけが持つ、冷たく硬い自尊心。

 

 あたしは床に落ちている、抜け殻のような白いワイシャツを跨いだ。

 男に媚びるために身につけた布切れ。

 ああ、危なかったわ。

 もし今日、あれを着たままカケルに抱かれていたら、あたしもあそこのソファで涎を垂らす使用済みの女になるところだった。あたしは、あたしの純潔を、ギリギリのところで守り抜いたのよ。

 あたしは音もなく玄関へ向かう。

 扉を開け、外へ出る。

 重厚なドアが閉まる音。

 ガチャリ。

 それは、あたしがあの安売りのワゴンセール会場から立ち去り、高級ブティックのショーケースへと帰還する音だった。

 夜風が冷たい。

 タクシーを拾い、シートに深く沈み込む。

 窓の外を流れる街の灯りを見つめながら、あたしは自分の膝を揃え、手を重ねた。

 指先ひとつ、髪の毛一本に至るまで、すべてがあたしのもの。

 誰の所有物でもない。

 カケルのものにならなくてよかった。

 あんな、すぐに他の女で汚れるような男に、あたしの封を切る資格なんて最初からなかったんだわ。

 部屋に戻り、鍵をかける。

 ここはあたしの城。あたしの保管庫。

 シャワーを浴びる。

 あの部屋の空気中に漂っていた、彼らの情事の粒子を徹底的に洗い流す。

 熱いお湯が、あたしの皮膚を殺菌し、初期化してくれる。

 バスタオルに包まり、鏡の前に立つ。

 そこには、誰の手も加えられていない、真っさらな女が立っていた。

 処女であること。

 それは単なる身体的な特徴じゃない。

「誰の欲望にも屈しなかった」という精神の勝利。

 あたしは誰にも消費されず、誰にも使い捨てられず、この身ひとつで完結している。

 化粧水を取り出し、肌にパッティングする。一滴、一滴、染み込ませるたびに、あたしの傲慢さは強固な膜となって全身を覆っていく。

 可哀想なカケル。可哀想なリオ。

 貴方たちは、そうやって次々と相手を変えて、互いを擦り減らしていくのね。何度も開封され、手垢にまみれ、やがて誰にも見向きもされなくなる。「経験豊富」なんて言葉で自分を慰めながら、じわじわと、ボロボロになっていく。

 でも、あたしは違う。

 この「未開封」のシールが貼られている限り、あたしは永遠に新品のまま。中身が空っぽだろうが関係ない。開けられない限り、そこには「無限の幻想」が詰まっていることになるのだから。

 ベッドに横たわる。

 冷たいシーツが、あたしを優しく迎え入れてくれる。

 隣には誰もいない。

 広すぎる空間。

 以前はそこに「愛する人」が来る日を夢見ていたけれど、今は違う。

 他者の侵入を許さない、この清浄な空間こそが、あたしの価値そのもの。

 目を閉じる。

 瞼の裏に、あの醜い二人の姿が一瞬浮かび、すぐに消えた。

 もう、憎しみすらない。

 ただ、リサイクルショップに並ぶ中古品を眺めるような、淡々とした区別があるだけ。


 ねえ、あたし。


 あたしは知っているわ。

 本当に価値のあるものは、使われないの。

 使われるための道具じゃない。

 ただ「在る」ことだけが許された、アンタッチャブルな聖遺物。

 あたしは自分の体を抱きしめる。

 硬くて、冷たくて、閉ざされたあたしの殻。

 その奥にある秘められた場所は、もう誰にも渡さない。

 神様以外の誰にも、このリボンを解く権利なんて与えない。

 

 おやすみなさい、消費されるために生まれた人たち。

 あたしはあたしだけの、永遠に封印された硝子の棺の中で、誰よりも高潔に眠り続けるわ。


 たとえ中身が空虚でも、「誰も開けられなかった」という伝説だけは、永遠に輝き続けるのだから。


(傲慢の章・完)

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