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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
罰Ⅱ
41/41

全治不能の幸福な内臓破裂

 ギャハハハハハハハハハハハハハハ!!


 笑いが、止まらない。

 涙腺が決壊し、鼻腔から粘液が垂れ、口からは(よだれ)が糸を引く。顔面にある全種類の排泄孔が大開放セール中だ。汚い? 知るか! 最高だ!

 視界のホワイトアウトが、極彩色のノイズで塗り潰されていく。

 三半規管が台風の真ん中に放り込まれたみたいに暴れ回っている。

 俺は白い床に這いつくばり、のたうち回りながら、腹の底からこみ上げる哄笑を吐き出し続けている。肋骨が軋む。肺が焼ける。

 痛い! 苦しい! みっともない!


 ──ああ、なんて「生々しい」んだ!


 さっきまでの俺を見てみろよ。無菌室で培養されたもやしっ子。リスクヘッジという名の防護服を着込んで、傷つかないように、汚れないように、スマートに生きる? ハッ、笑わせるな! あんなものは人生じゃない。ただの「死後硬直」だ。熱のない、味のない、ただの時間の浪費だ。

 でも今はどうだ?

 俺の血管の中を、あの注射器からブチ込まれた()()()()()が、沸騰したマグマのような勢いで駆け巡っている!


 色欲に支配された男のどろどろに溶けた脳髄液!

 暴食で膨れ上がった女の胃袋の破裂音!

 憤怒の業火で焼かれた男の皮膚がどろどろに焼ける死臭!

 怠惰と汚泥にどぷんと沈んでいった男の呼吸音!

 嫉妬で狂った女が突き立てた爪の激痛!

 強欲が男に与えた血肉の重みと虚無の金属音!

 傲慢な夢を見た女の空虚に響き渡る笑い声!


 全部、全部、俺の中にある!

 俺という器はもうメチャクチャだ。クラッシュし、ショートし、もくもくと煙を上げている。だが、この状態のOSこそが、俺が生まれて初めて獲得した正常稼働状態なんだ!


「……ッハ、ゲホッ! う、うめえ……なんだこれ、濃厚すぎて、頭おかしくなる……もっとだ、もっとくれ……!」


 俺は床にぶちまけた自分の吐瀉物を、愛おしむように指でかき回す。

 痛かった。死ぬほど痛かった。心臓を素手で握りつぶされるような苦痛の連続だった。

 惨めだった。プライドなんてミンチにされて、犬のように這いつくばって愛を乞うた。

 醜かった。鏡を見るのもおぞましいほどの、欲望の化け物に成り果てた。

 だが、その一瞬一秒が、俺の人生のどの瞬間よりも鮮烈に輝いていた。傷口から噴き出す血の熱さだけが、俺が「ここにいる」ことを証明してくれたんだ!


「おーおー、イカれてんねえ。まさか脳みそ焼き切れて戻ってくるとは。人類の耐久テスト、想定外の結果が出ちゃったよ」


 頭上から、あの粘着質な声が降ってきた。

 心臓人間。

 赤黒く脈打つ肉塊が、実験動物を見下ろすマッドサイエンティストみたいに、呆れた様子で痙攣している。


「どうだった? 地獄のフルコース・ツアーは。君が軽蔑してやまなかった『愚かな感情』の味は。不味かったろ? 吐き気がしたろ? さあ、反省文の時間だ。君がいかに理性的で清潔な市民に戻りたいか、涙ながらに語ってみなよ」


 奴は俺を見下ろしている。

 俺は、床に這いつくばったまま、顔を上げた。

 涎と涙でグチャグチャの顔。充血して血走った目。

 俺は、裂けた唇を吊り上げて、ニタリと笑った。


「……おかわり」

「あ?」

「おかわりだっつってんだよ!! 聞こえねえのか、このヤブがァ!!」


 俺は絶叫した。理性? 知性? そんなガラクタ、とっくに消化しちまったよ! 俺は心臓人間の足元にタックルし、その清潔な白衣を汚れた手で鷲掴みにした。


「もっと痛みをくれ! もっと絶望をくれ! もっと、心臓がかきむしられるような、あの熱いドロドロした鉛を俺の中に流し込んでくれよ! 気持ちよかったんだよ! 誰かに溺れるのが! 誰かを憎むのが! 何かが欲しくて欲しくてたまらなくて、のたうち回るあのたった一瞬が、俺の人生の全部だったんだ!」


 そうだ、俺は中毒者だ。

 愛という名の劇薬の過剰摂取。

 安全な場所で飲むミネラルウォーターよりも、戦場で飲む泥水の方が美味いと知ってしまった獣だ。

 この白い部屋は寒すぎる! 静かすぎる! 俺の頭がおかしくなっちまう! 刺激をくれ! 衝撃をくれ! 鼓膜を突き破るような絶叫をくれええええええ!


 心臓人間は、しばらく沈黙していた。

 ドクン、ドクン、と重苦しい鼓動だけが響く。

 やがて、その肉塊が、クツクツと揺れ始めた。

 笑っている。


「……ハハ。アハハハハハ! 傑作だ! 恐れ入ったよ、君! 便秘どころか、完全に腹下しちゃってるじゃんか! 下痢だよ下痢! 括約筋がぶっ壊れて、大便垂れ流しだ!」


 奴は嬉しそうに、俺の手を振り払った。


「合格だよ。君の更生プログラムは完了だ。おめでとう。君はもう、立派な『人間』だ。愚かで、浅ましくて、どうしようもなく愛おしい、欠陥だらけの有機生命体だ」

「じゃあ、もう一回……!」

「いいや、時間切れだ」


 心臓人間は、冷酷に告げた。

 その声には、サディスティックな愉悦が混じっていた。


「ここでのリハーサルは終わり。これからは本番だよ。君には、——元の世界に帰ってもらう」


 は?


 帰る?

 どこへ?

 あの、退屈で、無機質で、死んだような世界に?

 誰も傷つかないように距離を取り合い、スマホの画面越しに感情を処理し、コスパとタイパばかり気にする、あの無菌室のような東京に?


「嫌だ! あそこには何もない! 空っぽだ! 俺はもう、あんな薄い酸素じゃ呼吸できない! 窒息死しちまう!」

「それが罰だよ」


 心臓人間が、ニヤリと笑った気がした。


「君は知ってしまった。愛の本当の熱量を。地獄の底で輝く、生の輝きを。その『飢餓感』を抱えたまま、あの平穏で退屈な日常に戻るんだ。周りの人間がみんな、のっぺらぼうの書き割りに見えるだろうね。交わされる会話がすべて、無意味な記号の羅列に聞こえるだろうね。君は一生、満たされることはない。砂漠で水を求めるように、極寒の地で火を求めるように、君は永遠に激痛のような愛を探して、ゾンビみたいに彷徨い続けるんだ!」


 空間がきしむ音がした。

 足元の白い床が、パカッと開いた。落とし穴。

 下には、見慣れた灰色の街並みが見える。スクランブル交差点。行き交う無数の点。

 地獄への入り口だ。


「行ってらっしゃい、愛の亡者くん。精々、その全治不能の内臓破裂を抱きしめて、死ぬまでのたうち回りなよ。それが君への、最高のご褒美だ」


 ドンッ!

 背中を蹴られた。

 浮遊感。加速。重力。


「あ、ああ、ああああああああああ!」


 遠ざかる白い部屋。

 心臓人間が手を振っているのが見えた。

 俺は手を伸ばす。

 まだだ、まだ足りない、もっと汚してくれ、もっと壊してくれ!


 ──ガタンッ。


 衝撃。

 世界が揺れた。

 目を開けると、俺は電車の座席に座っていた。

 山手線。午後8時の満員電車。


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。ガタンゴトン、ガタンゴトン。


 正確無比で、退屈で、狂いそうなほど規則的なリズム。

 車内アナウンスが、無感情な声で新宿駅への到着を告げている。


 俺は、自分の手を見た。

 高級なスーツ。歪みのないネクタイ。最新のスマホ。

 すべてが元通りだ。

 汚れていない。傷ひとつない。

 スマートで、清潔で、効率的で、社会的地位のある「俺」に戻っている。


「……ハッ」


 乾いた笑いが漏れた。

 周りを見渡す。

 向かいの席のサラリーマンは、死んだ魚のような目をして虚空を見つめている。

 隣の母親は、泣きわめく赤ん坊が見えていないかのような能面でSNSの「いいね」を連打している。


 誰も、血を流していない。

 誰も、叫んでいない。

 誰も、生きていない。


 なんて静かな世界だ。

 なんて寒々しい墓場だ。

 ここは巨大な霊安室か? それとも俺だけが覚醒したのか?


 ズキン!

 胸の奥が痛んだ。

 心臓じゃない。もっと深いところ。魂の内壁が、パックリと裂けている痛み。

 あの七色の毒素が、まだ俺の血管に残留している。

 それが、焼け付くように熱い。マグマみたいにドロドロと脈打っている。

 俺は立ち上がった。

 ドアが開く。

 吐き出される人の波。

 その灰色の群衆の中に、俺は足を踏み出す。

 腹が減った! 猛烈に、腹が減った!

 コンビニの弁当じゃダメだ。高級レストランのフルコースでも足りない。

 俺が欲しいのは、肉じゃない。

 感情だ。

 誰かの人生を狂わせるほどの、濃厚で、致命的な愛だ。

 俺の目は、きっと今、飢えた狼のようにギラついているだろう。

 すれ違う人々を見る。

 ただの通行人? 群衆?

 いいや、違う。

 彼らの無表情な皮を一枚剥げば、その下にはきっと、ドロドロした欲望や、煮えたぎる情念が眠っているはずだ。

 みんな、隠してるだけだ。賢いフリをして、本当は叫びたくてたまらないはずだ。

 暴きたい。引きずり出したい。

 君たちの「生」を、俺に味見させてくれ。


 あはっ。


 雑踏の中で、俺は笑った。

 涙がひとすじ、頬を伝った。

 痛い。苦しい。寂しい。

 最高だ。

 この空腹こそが、俺が生きている証拠だ。


 俺は歩き出す。

 ネクタイを緩め、第一ボタンを乱暴に外す。

 もう、防護服はいらない。

 素手で触れてやる。火傷したって構わない。感染したって構わない。

 

 さあ、狩りの時間だ。

 この退屈な灰色の東京を、俺の血と、君たちの愛で、真っ赤に染め上げてやる。

 俺の心臓が、早鐘を打ち始めた。

 

 俺は、全治不能の幸福な内臓破裂を抱えて、終わらない愛の荒野へと、高らかに笑いながら駆け出した。


(罰Ⅱ・完)

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