全治不能の幸福な内臓破裂
ギャハハハハハハハハハハハハハハ!!
笑いが、止まらない。
涙腺が決壊し、鼻腔から粘液が垂れ、口からは涎が糸を引く。顔面にある全種類の排泄孔が大開放セール中だ。汚い? 知るか! 最高だ!
視界のホワイトアウトが、極彩色のノイズで塗り潰されていく。
三半規管が台風の真ん中に放り込まれたみたいに暴れ回っている。
俺は白い床に這いつくばり、のたうち回りながら、腹の底からこみ上げる哄笑を吐き出し続けている。肋骨が軋む。肺が焼ける。
痛い! 苦しい! みっともない!
──ああ、なんて「生々しい」んだ!
さっきまでの俺を見てみろよ。無菌室で培養されたもやしっ子。リスクヘッジという名の防護服を着込んで、傷つかないように、汚れないように、スマートに生きる? ハッ、笑わせるな! あんなものは人生じゃない。ただの「死後硬直」だ。熱のない、味のない、ただの時間の浪費だ。
でも今はどうだ?
俺の血管の中を、あの注射器からブチ込まれた七つの大罪が、沸騰したマグマのような勢いで駆け巡っている!
色欲に支配された男のどろどろに溶けた脳髄液!
暴食で膨れ上がった女の胃袋の破裂音!
憤怒の業火で焼かれた男の皮膚がどろどろに焼ける死臭!
怠惰と汚泥にどぷんと沈んでいった男の呼吸音!
嫉妬で狂った女が突き立てた爪の激痛!
強欲が男に与えた血肉の重みと虚無の金属音!
傲慢な夢を見た女の空虚に響き渡る笑い声!
全部、全部、俺の中にある!
俺という器はもうメチャクチャだ。クラッシュし、ショートし、もくもくと煙を上げている。だが、この状態のOSこそが、俺が生まれて初めて獲得した正常稼働状態なんだ!
「……ッハ、ゲホッ! う、うめえ……なんだこれ、濃厚すぎて、頭おかしくなる……もっとだ、もっとくれ……!」
俺は床にぶちまけた自分の吐瀉物を、愛おしむように指でかき回す。
痛かった。死ぬほど痛かった。心臓を素手で握りつぶされるような苦痛の連続だった。
惨めだった。プライドなんてミンチにされて、犬のように這いつくばって愛を乞うた。
醜かった。鏡を見るのもおぞましいほどの、欲望の化け物に成り果てた。
だが、その一瞬一秒が、俺の人生のどの瞬間よりも鮮烈に輝いていた。傷口から噴き出す血の熱さだけが、俺が「ここにいる」ことを証明してくれたんだ!
「おーおー、イカれてんねえ。まさか脳みそ焼き切れて戻ってくるとは。人類の耐久テスト、想定外の結果が出ちゃったよ」
頭上から、あの粘着質な声が降ってきた。
心臓人間。
赤黒く脈打つ肉塊が、実験動物を見下ろすマッドサイエンティストみたいに、呆れた様子で痙攣している。
「どうだった? 地獄のフルコース・ツアーは。君が軽蔑してやまなかった『愚かな感情』の味は。不味かったろ? 吐き気がしたろ? さあ、反省文の時間だ。君がいかに理性的で清潔な市民に戻りたいか、涙ながらに語ってみなよ」
奴は俺を見下ろしている。
俺は、床に這いつくばったまま、顔を上げた。
涎と涙でグチャグチャの顔。充血して血走った目。
俺は、裂けた唇を吊り上げて、ニタリと笑った。
「……おかわり」
「あ?」
「おかわりだっつってんだよ!! 聞こえねえのか、このヤブがァ!!」
俺は絶叫した。理性? 知性? そんなガラクタ、とっくに消化しちまったよ! 俺は心臓人間の足元にタックルし、その清潔な白衣を汚れた手で鷲掴みにした。
「もっと痛みをくれ! もっと絶望をくれ! もっと、心臓がかきむしられるような、あの熱いドロドロした鉛を俺の中に流し込んでくれよ! 気持ちよかったんだよ! 誰かに溺れるのが! 誰かを憎むのが! 何かが欲しくて欲しくてたまらなくて、のたうち回るあのたった一瞬が、俺の人生の全部だったんだ!」
そうだ、俺は中毒者だ。
愛という名の劇薬の過剰摂取。
安全な場所で飲むミネラルウォーターよりも、戦場で飲む泥水の方が美味いと知ってしまった獣だ。
この白い部屋は寒すぎる! 静かすぎる! 俺の頭がおかしくなっちまう! 刺激をくれ! 衝撃をくれ! 鼓膜を突き破るような絶叫をくれええええええ!
心臓人間は、しばらく沈黙していた。
ドクン、ドクン、と重苦しい鼓動だけが響く。
やがて、その肉塊が、クツクツと揺れ始めた。
笑っている。
「……ハハ。アハハハハハ! 傑作だ! 恐れ入ったよ、君! 便秘どころか、完全に腹下しちゃってるじゃんか! 下痢だよ下痢! 括約筋がぶっ壊れて、大便垂れ流しだ!」
奴は嬉しそうに、俺の手を振り払った。
「合格だよ。君の更生プログラムは完了だ。おめでとう。君はもう、立派な『人間』だ。愚かで、浅ましくて、どうしようもなく愛おしい、欠陥だらけの有機生命体だ」
「じゃあ、もう一回……!」
「いいや、時間切れだ」
心臓人間は、冷酷に告げた。
その声には、サディスティックな愉悦が混じっていた。
「ここでのリハーサルは終わり。これからは本番だよ。君には、——元の世界に帰ってもらう」
は?
帰る?
どこへ?
あの、退屈で、無機質で、死んだような世界に?
誰も傷つかないように距離を取り合い、スマホの画面越しに感情を処理し、コスパとタイパばかり気にする、あの無菌室のような東京に?
「嫌だ! あそこには何もない! 空っぽだ! 俺はもう、あんな薄い酸素じゃ呼吸できない! 窒息死しちまう!」
「それが罰だよ」
心臓人間が、ニヤリと笑った気がした。
「君は知ってしまった。愛の本当の熱量を。地獄の底で輝く、生の輝きを。その『飢餓感』を抱えたまま、あの平穏で退屈な日常に戻るんだ。周りの人間がみんな、のっぺらぼうの書き割りに見えるだろうね。交わされる会話がすべて、無意味な記号の羅列に聞こえるだろうね。君は一生、満たされることはない。砂漠で水を求めるように、極寒の地で火を求めるように、君は永遠に激痛のような愛を探して、ゾンビみたいに彷徨い続けるんだ!」
空間がきしむ音がした。
足元の白い床が、パカッと開いた。落とし穴。
下には、見慣れた灰色の街並みが見える。スクランブル交差点。行き交う無数の点。
地獄への入り口だ。
「行ってらっしゃい、愛の亡者くん。精々、その全治不能の内臓破裂を抱きしめて、死ぬまでのたうち回りなよ。それが君への、最高のご褒美だ」
ドンッ!
背中を蹴られた。
浮遊感。加速。重力。
「あ、ああ、ああああああああああ!」
遠ざかる白い部屋。
心臓人間が手を振っているのが見えた。
俺は手を伸ばす。
まだだ、まだ足りない、もっと汚してくれ、もっと壊してくれ!
──ガタンッ。
衝撃。
世界が揺れた。
目を開けると、俺は電車の座席に座っていた。
山手線。午後8時の満員電車。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。ガタンゴトン、ガタンゴトン。
正確無比で、退屈で、狂いそうなほど規則的なリズム。
車内アナウンスが、無感情な声で新宿駅への到着を告げている。
俺は、自分の手を見た。
高級なスーツ。歪みのないネクタイ。最新のスマホ。
すべてが元通りだ。
汚れていない。傷ひとつない。
スマートで、清潔で、効率的で、社会的地位のある「俺」に戻っている。
「……ハッ」
乾いた笑いが漏れた。
周りを見渡す。
向かいの席のサラリーマンは、死んだ魚のような目をして虚空を見つめている。
隣の母親は、泣きわめく赤ん坊が見えていないかのような能面でSNSの「いいね」を連打している。
誰も、血を流していない。
誰も、叫んでいない。
誰も、生きていない。
なんて静かな世界だ。
なんて寒々しい墓場だ。
ここは巨大な霊安室か? それとも俺だけが覚醒したのか?
ズキン!
胸の奥が痛んだ。
心臓じゃない。もっと深いところ。魂の内壁が、パックリと裂けている痛み。
あの七色の毒素が、まだ俺の血管に残留している。
それが、焼け付くように熱い。マグマみたいにドロドロと脈打っている。
俺は立ち上がった。
ドアが開く。
吐き出される人の波。
その灰色の群衆の中に、俺は足を踏み出す。
腹が減った! 猛烈に、腹が減った!
コンビニの弁当じゃダメだ。高級レストランのフルコースでも足りない。
俺が欲しいのは、肉じゃない。
感情だ。
誰かの人生を狂わせるほどの、濃厚で、致命的な愛だ。
俺の目は、きっと今、飢えた狼のようにギラついているだろう。
すれ違う人々を見る。
ただの通行人? 群衆?
いいや、違う。
彼らの無表情な皮を一枚剥げば、その下にはきっと、ドロドロした欲望や、煮えたぎる情念が眠っているはずだ。
みんな、隠してるだけだ。賢いフリをして、本当は叫びたくてたまらないはずだ。
暴きたい。引きずり出したい。
君たちの「生」を、俺に味見させてくれ。
あはっ。
雑踏の中で、俺は笑った。
涙がひとすじ、頬を伝った。
痛い。苦しい。寂しい。
最高だ。
この空腹こそが、俺が生きている証拠だ。
俺は歩き出す。
ネクタイを緩め、第一ボタンを乱暴に外す。
もう、防護服はいらない。
素手で触れてやる。火傷したって構わない。感染したって構わない。
さあ、狩りの時間だ。
この退屈な灰色の東京を、俺の血と、君たちの愛で、真っ赤に染め上げてやる。
俺の心臓が、早鐘を打ち始めた。
俺は、全治不能の幸福な内臓破裂を抱えて、終わらない愛の荒野へと、高らかに笑いながら駆け出した。
(罰Ⅱ・完)




