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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
傲慢の章
39/41

溶けない硝子はやがて喉に詰まる(5)

 連絡が途絶えてから三日。

 スマホの画面は、死んだ魚の目のように白濁したまま沈黙している。

 普通なら狼狽するところでしょうけれど、あたしは自分に言い聞かせる。

 これは冷却ではなく発酵の時間なのだと。

 あの夜、寸止めされた欲望が彼の体内で熟成され、あたしへの渇望が極限まで膨れ上がっているのだと。

 そう信じていないと、足元が崩れそうだったから。

 そろそろ、救済が必要ね。

 あたしは鏡の前で、完璧なメイクを確認して微笑む。口角が少し震えているのを、指で押さえて止める。

 今日は特別。あたしの方から、彼の部屋に行ってあげる。

 合鍵を使って。女から押しかけるなんて安っぽい真似だけど、これはサプライズという名の、慈悲深い女神の施し。

 そう、あたしは女神。誰が何と言おうと、選ばれた特別な女。

 高級マンションの最上階。

 鍵穴にキーを差し込む手が、少し湿っている。

 カチャリ、と音がして扉が開く。

 誰もいない無機質な部屋。

 あたしは靴を脱ぎ、リビングへ。

 彼が帰ってくるまでに、あたし自身を最高のご馳走としてセッティングしておきましょう。

 シャワーを借りて、自分の服を脱ぎ、彼のワイシャツを一枚だけ羽織る。

 ブカブカのシャツから伸びる白い足。

 これを見て、理性を保てる男なんていないはず。

 その時、玄関の方で電子ロックが解除される音がした。

 ピロリン、ガチャ。

 早いわね。

 どうしよう。心の準備ができていない。

 あたしはとっさに、寝室のウォークインクローゼットへと滑り込んだ。

 ブランド物のスーツやコートが並ぶ、狭くて暗い空間。防虫剤と、革の匂い。暗闇の中で膝を抱えると、急に自分が小さくなったような気がした。

 足音が近づいてくる。

 一つじゃない。

 二つだ。

 ヒロトの足音と、もう一つ、ペタペタと歩く、だらしない足音。

 ……女?

 心臓が早鐘を打つ。

 まさか。あたしへの愛に苦しむ彼が、他の女を連れ込むなんて。

「……で、あの子から連絡は?」

 聞き覚えのある声。でも、いつもの甘ったるい猫なで声じゃない。

 リオだ。

 あいつ、カケルの部屋にまで入り込んでいたの?

 クローゼットの隙間から覗くと、ヒロトがソファに深々と座り込み、その隣にリオが腰を下ろしていた。

 カケルは疲れ切った顔で、ネクタイを緩めている。

「ああ、来てるよ。『お忙しいですか』とか『ご無理なさらないで』とか。通知見るだけで気が重くなるから、開いてないけど」

 カケルが気まずそうに答える。

 気が重い? あたしの心配が?

「へえ。真面目だねえ、あの子も。でもさ、カケル先輩も悪いよ。優しく優しく、ここまで引っ張っちゃったんだから」

 リオがスナック菓子の袋を開けながら、面白がるように言う。

「俺だって、ずっと本気だったんだよ!」

 カケルが言い訳するように声を荒げた。

「あんな綺麗な子、他にいないだろ? だから大切にしようと思ったし、彼女のペースに合わせようと努力したよ。でもさ……限界だよ。『まだ早いわ』って、いつまで待たせる気だよ。俺だって男なんだぞ? 生身の人間なんだぞ?」

「あはは、可哀想なカケル先輩。ヤらせてくれない女神様かぁ」

「笑い事じゃないって。あの『貴方のために焦らしてあげてるのよ』みたいな顔、さすがに疲れたよ。最初はいい気分だったけどさ……だんだん息苦しくなってきた。彼女といると、無菌室に閉じ込められてるみたいなんだ」

 無菌室。息苦しい。

 あたしはワイシャツの胸元を握りしめた。

 あたしは……貴方を守ろうとしていたのに。貴方はただ、やりたかっただけなの?

「それに比べて、リオはいいよな」

 カケルの声が、甘く、だらしなく緩む。

「こうやって、気軽に触れるし、馬鹿話もできるし。彼女みたいに、触れたら割れそうな硝子細工じゃない。お前の方が、なんていうか……生きてるって感じがして、安心するんだよ」

「なにそれ。私が安っぽいってこと?」

「違うよ。人間らしいってことだよ」

 カケルがリオの腰に手を回す。欲望のままに、安易に女の肉を求めている。

「でもさー、あの人、まだ自分が特別だと思ってるよ? こないだも大学で見かけたけど、『あたしは特別』オーラ全開だったもん。着てる服とかは高いかもしれないけどさ、なんか中身スカスカって感じ」

 リオが冷ややかに言う。

 カケルは、少しバツが悪そうに、でも同意した。

「……言うなよ。まあ、確かに……綺麗なんだけど、体温がないっていうか。人形と触れ合ってる感じ、というか、そういうのは正直あるかもな」

 硝子細工。体温がない。人形。

 あたしの膝が震え出す。

 あたしが誇りにしてきた清潔さや純潔が、彼にとっては「不感症な人形」でしかなかった。

 彼はあたしを崇拝していたんじゃない。ただ、「扱いづらい面倒な女」として持て余していただけだったの?

 ソファの上で、リオがカケルに跨る。

「ふうん。じゃあ、私の味は?」

「……お前は、汗臭いよ」

 カケルが笑った。

 それは、あたしには絶対に見せない、雄としての卑しい笑顔。

「えー。ひどぉい」

「でも、その匂いがいいんだよ。頭空っぽにして、本能だけでイケる気がする」

 二人の唇が重なる。

 ジュル、という濃密な水音。

 あたしとのキスとは違う。

 気を使うことも、手順を踏むこともなく、ただ互いの欲求不満をぶつけ合うだけの、獣の交尾。

 涙が込み上げてくる。熱い塊が喉元までせり上がってくる。

 惨め。

 彼らが選んだのは、あたしが軽蔑し、排除してきた汚れだ。カケルは、高貴なあたしよりも、汗臭くて都合のいいリオを選んだんだ。

「大切にする」なんて言葉は、ただの「抱けない言い訳」だった。

 今すぐここから飛び出して、「嘘つき!」と叫びたい。

 泣き叫んで、彼を責め立てたい。

 でも……。

 あたしは、滲んできた涙を、震える指先で乱暴に拭った。

 ここで泣いたら、あたしは本当に「捨てられた面倒な女」になる。彼らの会話通り、「勘違いしていた哀れなピエロ」として幕を下ろすことになる。


 それだけは嫌。

 死んでも嫌。


 あたしはクローゼットの暗闇の中で、大きく息を吸い込んだ。

 防虫剤の匂いが肺を満たす。


 人工的で、清潔な、保存料の匂い。


 震える膝を両手で強く抱きしめる。泣かない、あたしは泣かない、こんな性欲に負けた弱い男と尻軽女のために、あたしの高貴な涙を一滴でも流してやるもんか、と唇を噛んだ、その時だった。

 世界がひび割れるような決定的な音が響き渡り、ギチギチと悲鳴を上げるソファのバネや革と皮膚が擦れ合う湿った摩擦音、パンパンと肉がぶつかり合う音、ジュルクチュと粘膜が絡み合う水音が一気に部屋中の酸素を汚濁していった。

 あぁ、リオ、リオ……ッ! と呻くカケルの声にはあたしに向けていた理知的な響きなど微塵もなく、ただ目の前の雌の肉に溺れる雄の情けない喘ぎだけがあり、すごい汗、ぬるぬるする、もっと奥……ッ、とねだるリオに対して、いいんだよ汚くていい、中、すげぇ熱い、溶けそうだ……ッ、と叫ぶ彼の言葉は、あまりにも純粋な快楽の悲鳴となってクローゼットの扉を突き抜けた。

 そこにはもう、あたしの名前なんてない。あたしの影も存在しない。彼らはあたしを比べることさえ忘れている。あたしという存在がこの世にいたことさえ忘れ果て、ただ互いの穴を埋め合う獣になっている。

 あはっ、すごい、カケル先輩、顔すごいよ、イきそう? と嗤う女に、ああ、だめだ、もう無理だ、気持ちよすぎる、全部出すぞッ、と答えるカケルの声とドプドプと波打つような音が混ざり合いあたしの逃げ場を塞ぎ、耳を塞いでも音は皮膚から毛穴から侵入しあたしの内側をドロドロに犯していく。

 吐き気と逆流しそうな胃液の中でこの汚らわしい音の奔流。それがあたしという高潔な存在を「無視」という形で踏みにじり唾を吐きかけてくるのを、あたしは奥歯が砕けるほど噛み締めながら、これは嵐ではなく下水の氾濫なのだと悟る。汚泥に飲み込まれないよう呼吸を止め、ただ耐え続ける孤独な彫像になるしかなかった。


 どれくらいの時間が経っただろう。

 部屋には重苦しい静寂と、むせ返るような体臭だけが残されていた。

 クローゼットの隙間から、寝息が聞こえる。満たされた動物たちの、無防備な寝息。

 あたしは音もなく扉を押し開け、フローリングに足を下ろした。

 足元がひんやりとする。

 リビングのソファには、絡み合ったまま眠る二つの肉塊があった。

 

 あたしは、自分の体を見下ろした。

 カケルのワイシャツ。

 彼を喜ばせるために、彼に「女」として見てもらうために身につけた、白い布。

 それが今は、ひどく重く、汚らわしく感じられた。

 あたしはボタンに手をかけた。

 一つ、また一つ。

 指が震えるけれど、止まらない。

 バサリ。

 シャツが床に落ちる。

 あたしは裸になり、自分の服を手に取った。

 カシミアのカーディガン。

 シルクのスカート。

 あたし自身が選んだ、あたしを守るための鎧。

 袖を通す。

 肌に馴染む感触に、少しだけ呼吸が楽になる。

 床に落ちたワイシャツを見る。

 抜け殻みたいに、くしゃくしゃになって落ちている。


 もう、いらない。


 こんな安っぽい言い訳の塊みたいな服、あたしには似合わない。

 あたしは、唇を噛み締めながら、眠る二人を見下ろした。

 涙は流れていない。でも、心臓はまだ痛い。

 まるで硝子の破片を飲み込んだみたいに、ズキズキと痛んでいる。

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