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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
傲慢の章
38/41

溶けない硝子はやがて喉に詰まる(4)

 鍵が回り、重たい鉄の扉が閉まる音がすると、ようやく世界が正しい形に戻った気がした。

 ここには、さっきの居酒屋みたいな油の臭いも、あの安っぽい女の香水の残り香もない。あるのは、アロマディフューザーから漂うラベンダーの香りと、完璧に管理された湿度、そしてあたしという特級品だけ。

 どうぞ、と彼を招き入れる。

 彼は少し緊張した面持ちで、あたしの城に足を踏み入れる。

 当然よね。ここは選ばれた人間しか入れない、秘密の花園なのだから。

 

 シャワーを浴びてくるわ、とあたしは告げる。

 一緒に、なんて野暮なことは言わない彼が好き。

 バスルームで丁寧に身体を洗う。あの女の視線で汚された皮膚を、一枚剥ぎ取るくらいの気持ちで磨き上げる。鏡の中のあたしは、湯気で少し火照って、熟れた桃みたいに瑞々しい。

 バスタオルを巻き、髪を濡れたままにして、リビングに戻る。

 彼はソファに座り、出されたミネラルウォーターも飲まずに、ただじっと待っていた。その姿は、餌を前にして「待て」を命じられた大型犬そのもの。忠実で、飢えていて、愛おしい。

 おいで、とあたしはベッドルームへ彼を誘う。

 間接照明だけが灯る薄暗い部屋。

 シルクのシーツが、冷たくて滑らかな光を放っている。

 彼は靴下を脱ぎ、シャツのボタンを外し、慎重にあたしの隣に滑り込んでくる。

 彼の体温が高い。触れ合う肌から、彼の中に渦巻く熱が伝染してくる。

 キスして。

 あたしが顎を上げると、彼は貪るように唇を塞いできた。

 さっきの帰り道よりも激しく、余裕のないキス。舌が深く入ってくる。息継ぎも許さないほどに、あたしの呼吸を奪おうとする。

 苦しい。でも、この苦しさは快感。彼がどれだけあたしに飢えているか、この窒息感が証明しているから。

 彼の手が、バスタオルの隙間から入り込んでくる。大きな掌が、あたしの胸を包み込む。

 ……んっ。

 声が漏れる。

 演技じゃない。本当に、久しぶりの刺激に身体が反応してしまう。

 指先が乳首を掠める。電流が走る。

 彼の手はさらに下へ、腰のくびれをなぞり、太腿の内側へと伸びていく。

 濡れているでしょう? あたしの秘所が、待ちわびて涙を流しているのがわかるでしょう? 彼の指が、核心に触れようとする。

 ダメ。

 あたしは彼の手首を掴む。

 彼が、またか、という顔であたしを見る。その瞳には、色濃い不満と、抑えきれない焦燥が浮かんでいる。

 ねえ、いい加減にしてよ、と彼が掠れた声で言う。

 こんなに濡れてるのに。君だって欲しがってるのに。どうして拒むの?

 あたしは悲しげに眉を寄せる。

 だって、怖いの。

 またそのカードを切る。

 大切にしてほしいの。壊さないで。でも、今日はここまでなら。

 あたしは彼の手を取り、あたしの胸元へ導く。

 そして、あたし自身の手で、彼の下半身に触れてあげる。

 硬い。怒っているみたいに脈打っている。

 ズボンの上から、優しく擦ってあげる。

 これじゃ足りないよ、と彼は呻く。中に入れたい。君と繋がりたい。

 ダメよ。入れることがすべてじゃないわ。こうして肌を触れ合わせ、熱を交換し合うだけで、こんなにも濃密じゃない。挿入なんて、ただの生殖行為よ。あたしたちはもっと高次元の、魂が溶け合うような愛撫をしているの。ほら、気持ちいいでしょう? あたしの柔らかな手で、貴方の欲望を包んであげているのよ。

 感謝しなさい。

 他の女なら股を開くだけで済ませるところを、あたしはこうして手間をかけて、貴方の理性を試してあげているんだから。

 彼は何度か腰を揺らし、あたしの中に押し入ろうとする素振りを見せたけれど、あたしが拒絶の瞳を向けると、力なく動きを止めた。

 深いため息。

 天井を仰ぎ、彼は動きを止める。

 わかったよ、と彼は呟く。

 その声は、諦めというよりは、疲労の色が濃かった。

 無理強いはしない。君が嫌なら、しない。

 彼はあたしから身体を離し、ベッドの端に腰掛けた。

 背中が丸まっている。

 欲望を持て余し、行き場を失った哀れな男の背中。

 怒った?

 あたしは背後から彼に抱きつく。怒ってないよ、と彼は言うけれど、あたしの腕を握り返してはくれない。

 ただ、ちょっと疲れただけ。

 そうよね。我慢させてごめんね。でも、これは貴方のためなの。簡単に手に入ったものなんて、すぐに飽きてしまうでしょう? あたしは貴方に、一生飽きない宝物を与えたいの。だから、今のこの苦しみさえも味わって。渇ききった喉に、いつか注がれる極上のワインを夢見て、今は砂を噛み締めなさい。

 今日はもう帰るよ、と彼が立ち上がる。

 え、泊まっていかないの?

 これ以上いたら、理性が持たないから。そう言って、彼はシャツのボタンを留め始めた。

 手早い動作。あたしを見ることもなく、淡々と身支度を整える。

 その横顔があまりに能面のように無表情で、一瞬だけ胸がざわついた。

 冷めたの?

 いいえ、違う。

 彼は自分を律しているのよ。

 あたしへの愛が大きすぎて、暴走しそうな自分を必死に抑え込んでいるのよ。

 なんてストイックで、なんて誠実な人。やっぱり貴方は、あたしにふさわしい男だわ。あの安っぽい女の誘惑になんて、微塵も揺らがなかった証拠だもの。

 玄関まで見送る。

 彼は靴を履き、振り返った。

 おやすみ、と言う彼の瞳は、どこか遠くを見ていた気がした。

 あたしの裸に近い姿を見ても、もうギラギラとした光を宿していない。

 また連絡するよ、という言葉だけを残して、彼は鉄の扉の向こうへと消えた。

 ガチャリ。

 再び閉ざされた密室。

 あたしは一人、リビングに取り残される。部屋の中には、彼の香水の残り香と、やり場のない熱気が澱んでいる。

 自分の手を見る。彼に触れた感触が残っている。

 身体が、まだ熱い。

 彼が帰ってしまったことへの、ほんの少しの物足りなさ。

 でも、これでいいの。

 今日、彼にあたしのすべてを与えてしまっていたら、あたしは明日からただの「カケルの女」になっていた。

 でも今は違う。

 あたしはまだ「誰のものでもない高嶺の花」であり、彼は「花に手が届かなかった渇望する男」のまま。

 この関係性こそが、あたしの価値を維持する防腐剤。

 ベッドに戻り、シーツに顔を埋める。

 彼の匂いがする。

 苦しかったでしょうね、カケル。

 可哀想に。でも、安心して。あたしは逃げないわ。貴方がもっともっと飢えて、あたし無しでは呼吸もできなくなったその時。あたしは慈悲深く、貴方の喉を潤してあげるから。

 スマホを手に取る。

 彼からの「着いたよ」の連絡はまだない。

 当然よね。運転中だもの。

 それとも、車を停めて、一人で処理しているのかしら。

 想像すると、背筋がゾクゾクする。

 あたしのせいで、エリート医大生が惨めな自慰に耽る夜。

 最高。

 あたしは、今日一番の深い眠りにつけそうだわ。

 夢の中でも、彼はあたしに跪いているに違いないもの。

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