溶けない硝子はやがて喉に詰まる(4)
鍵が回り、重たい鉄の扉が閉まる音がすると、ようやく世界が正しい形に戻った気がした。
ここには、さっきの居酒屋みたいな油の臭いも、あの安っぽい女の香水の残り香もない。あるのは、アロマディフューザーから漂うラベンダーの香りと、完璧に管理された湿度、そしてあたしという特級品だけ。
どうぞ、と彼を招き入れる。
彼は少し緊張した面持ちで、あたしの城に足を踏み入れる。
当然よね。ここは選ばれた人間しか入れない、秘密の花園なのだから。
シャワーを浴びてくるわ、とあたしは告げる。
一緒に、なんて野暮なことは言わない彼が好き。
バスルームで丁寧に身体を洗う。あの女の視線で汚された皮膚を、一枚剥ぎ取るくらいの気持ちで磨き上げる。鏡の中のあたしは、湯気で少し火照って、熟れた桃みたいに瑞々しい。
バスタオルを巻き、髪を濡れたままにして、リビングに戻る。
彼はソファに座り、出されたミネラルウォーターも飲まずに、ただじっと待っていた。その姿は、餌を前にして「待て」を命じられた大型犬そのもの。忠実で、飢えていて、愛おしい。
おいで、とあたしはベッドルームへ彼を誘う。
間接照明だけが灯る薄暗い部屋。
シルクのシーツが、冷たくて滑らかな光を放っている。
彼は靴下を脱ぎ、シャツのボタンを外し、慎重にあたしの隣に滑り込んでくる。
彼の体温が高い。触れ合う肌から、彼の中に渦巻く熱が伝染してくる。
キスして。
あたしが顎を上げると、彼は貪るように唇を塞いできた。
さっきの帰り道よりも激しく、余裕のないキス。舌が深く入ってくる。息継ぎも許さないほどに、あたしの呼吸を奪おうとする。
苦しい。でも、この苦しさは快感。彼がどれだけあたしに飢えているか、この窒息感が証明しているから。
彼の手が、バスタオルの隙間から入り込んでくる。大きな掌が、あたしの胸を包み込む。
……んっ。
声が漏れる。
演技じゃない。本当に、久しぶりの刺激に身体が反応してしまう。
指先が乳首を掠める。電流が走る。
彼の手はさらに下へ、腰のくびれをなぞり、太腿の内側へと伸びていく。
濡れているでしょう? あたしの秘所が、待ちわびて涙を流しているのがわかるでしょう? 彼の指が、核心に触れようとする。
ダメ。
あたしは彼の手首を掴む。
彼が、またか、という顔であたしを見る。その瞳には、色濃い不満と、抑えきれない焦燥が浮かんでいる。
ねえ、いい加減にしてよ、と彼が掠れた声で言う。
こんなに濡れてるのに。君だって欲しがってるのに。どうして拒むの?
あたしは悲しげに眉を寄せる。
だって、怖いの。
またそのカードを切る。
大切にしてほしいの。壊さないで。でも、今日はここまでなら。
あたしは彼の手を取り、あたしの胸元へ導く。
そして、あたし自身の手で、彼の下半身に触れてあげる。
硬い。怒っているみたいに脈打っている。
ズボンの上から、優しく擦ってあげる。
これじゃ足りないよ、と彼は呻く。中に入れたい。君と繋がりたい。
ダメよ。入れることがすべてじゃないわ。こうして肌を触れ合わせ、熱を交換し合うだけで、こんなにも濃密じゃない。挿入なんて、ただの生殖行為よ。あたしたちはもっと高次元の、魂が溶け合うような愛撫をしているの。ほら、気持ちいいでしょう? あたしの柔らかな手で、貴方の欲望を包んであげているのよ。
感謝しなさい。
他の女なら股を開くだけで済ませるところを、あたしはこうして手間をかけて、貴方の理性を試してあげているんだから。
彼は何度か腰を揺らし、あたしの中に押し入ろうとする素振りを見せたけれど、あたしが拒絶の瞳を向けると、力なく動きを止めた。
深いため息。
天井を仰ぎ、彼は動きを止める。
わかったよ、と彼は呟く。
その声は、諦めというよりは、疲労の色が濃かった。
無理強いはしない。君が嫌なら、しない。
彼はあたしから身体を離し、ベッドの端に腰掛けた。
背中が丸まっている。
欲望を持て余し、行き場を失った哀れな男の背中。
怒った?
あたしは背後から彼に抱きつく。怒ってないよ、と彼は言うけれど、あたしの腕を握り返してはくれない。
ただ、ちょっと疲れただけ。
そうよね。我慢させてごめんね。でも、これは貴方のためなの。簡単に手に入ったものなんて、すぐに飽きてしまうでしょう? あたしは貴方に、一生飽きない宝物を与えたいの。だから、今のこの苦しみさえも味わって。渇ききった喉に、いつか注がれる極上のワインを夢見て、今は砂を噛み締めなさい。
今日はもう帰るよ、と彼が立ち上がる。
え、泊まっていかないの?
これ以上いたら、理性が持たないから。そう言って、彼はシャツのボタンを留め始めた。
手早い動作。あたしを見ることもなく、淡々と身支度を整える。
その横顔があまりに能面のように無表情で、一瞬だけ胸がざわついた。
冷めたの?
いいえ、違う。
彼は自分を律しているのよ。
あたしへの愛が大きすぎて、暴走しそうな自分を必死に抑え込んでいるのよ。
なんてストイックで、なんて誠実な人。やっぱり貴方は、あたしにふさわしい男だわ。あの安っぽい女の誘惑になんて、微塵も揺らがなかった証拠だもの。
玄関まで見送る。
彼は靴を履き、振り返った。
おやすみ、と言う彼の瞳は、どこか遠くを見ていた気がした。
あたしの裸に近い姿を見ても、もうギラギラとした光を宿していない。
また連絡するよ、という言葉だけを残して、彼は鉄の扉の向こうへと消えた。
ガチャリ。
再び閉ざされた密室。
あたしは一人、リビングに取り残される。部屋の中には、彼の香水の残り香と、やり場のない熱気が澱んでいる。
自分の手を見る。彼に触れた感触が残っている。
身体が、まだ熱い。
彼が帰ってしまったことへの、ほんの少しの物足りなさ。
でも、これでいいの。
今日、彼にあたしのすべてを与えてしまっていたら、あたしは明日からただの「カケルの女」になっていた。
でも今は違う。
あたしはまだ「誰のものでもない高嶺の花」であり、彼は「花に手が届かなかった渇望する男」のまま。
この関係性こそが、あたしの価値を維持する防腐剤。
ベッドに戻り、シーツに顔を埋める。
彼の匂いがする。
苦しかったでしょうね、カケル。
可哀想に。でも、安心して。あたしは逃げないわ。貴方がもっともっと飢えて、あたし無しでは呼吸もできなくなったその時。あたしは慈悲深く、貴方の喉を潤してあげるから。
スマホを手に取る。
彼からの「着いたよ」の連絡はまだない。
当然よね。運転中だもの。
それとも、車を停めて、一人で処理しているのかしら。
想像すると、背筋がゾクゾクする。
あたしのせいで、エリート医大生が惨めな自慰に耽る夜。
最高。
あたしは、今日一番の深い眠りにつけそうだわ。
夢の中でも、彼はあたしに跪いているに違いないもの。




