溶けない硝子はやがて喉に詰まる(3)
床がベタつく。
一歩踏み出すたびに、靴底が古い油とこぼれたアルコールの混合物を吸い上げて、不快な音を立てる。
この店の空気は、まるで雑巾を絞った汁を霧吹きで撒いたみたいに湿っぽくて、酸っぱい。
ゼミの打ち上げなんて、適当な理由をつけて断ればよかったわ。どうしてあたしみたいな選ばれた人間が、こんな掃き溜めみたいな大衆居酒屋の、狭苦しい座敷に座らなきゃいけないの。
隣では、名前も覚えていない同期の男が、顔を赤くして大声で笑っている。彼の口から飛び散る唾が、あたしのカシミアのカーディガンにかかるんじゃないかって、気が気じゃないわ。
ねえ、ちょっと静かにしてくれない? そう言いたいけれど、あたしは口角を数ミリだけ上げて、聖母のようなアルカイックスマイルを貼り付けておく。
この場の空気を壊さない配慮ができるあたし。
泥の中でも咲き誇る蓮の花のように、凛として美しいあたし。
その演出のためなら、多少の不快感は我慢してあげる。
救いは、右隣にカケルがいること。
彼は今日も完璧だわ。周りの男たちがビールで腹を膨らませてだらしなく崩れている中で、彼だけは背筋を伸ばし、涼しい顔でウーロン茶を飲んでいる。
あたしの隣に座る資格があるのは、彼だけ。
彼の腕が、ふとした拍子にあたしの二の腕に触れる。
熱い。
服の上からでも伝わる、硬質な筋肉の温度。
彼もまた、この下品な宴に退屈しているのね。
早く二人になりたい。あたしの香水の匂いだけが漂う、あの密閉された車内へ逃げ込みたい。そんなテレパシーを送るように、あたしはテーブルの下で、彼の太腿にそっと小指を這わせる。
ビクッ、と彼の筋肉が反応する。
可愛い。あたしの指一本で、エリート医大生の理性が揺らぐ。
彼は視線を落とし、困ったように、でも嬉しそうにあたしを見る。
あとで抜け出そうか、と彼の唇が動く。ええ、お願い。こんな場所、あたしたちには似合わないもの。
その時だった。引き戸が乱暴に開いて、強烈な匂いが流れ込んできたのは。
甘ったるいバニラの香水と、汗と、安物のファンデーションが混ざり合った、頭痛がしそうな悪臭。
遅れてごめんなさぁい! と甲高い声が響く。
現れたのは、一年のリオとかいう女。
見て、あの格好。肩が丸出しのニットに、座れば下着が見えそうなミニスカート。髪は脱色しすぎて藁みたいにパサついているし、メイクは厚塗りすぎて能面みたい。歩く公害ね。
彼女が入ってきただけで、部屋の湿度が不快な方向に跳ね上がるのがわかる。
こっちこっち! と男たちが色めき立つ。
わかりやすいわね。すぐにヤレそうな女が来た途端、発情した猿みたいに騒ぎ出して。
リオは媚びた笑顔を振りまきながら、あろうことか、あたしたちのテーブルの向かい側にドカッと座り込んだ。
近い。匂いがきつい。
彼女はジョッキを両手で持ち、男たちに囃し立てられるままに飲み干す。喉仏を鳴らして、口の端から液体を垂らしながら。
品がない。育ちが知れるわ。
あたしは不快感を隠すようにグラスを傾ける。視界に入れないで。あたしの網膜が汚れるから。
あ、カケル先輩だ!
リオが猫なで声で叫んだ。
彼女の視線が、あたしの所有物にへばりつく。
やだ、今日もおしゃれですねぇ。時計かっこいい!
彼女は身を乗り出し、テーブル越しにヒロトの腕に触れようとする。
あたしの中で、警報が鳴り響く。
触らないで。その雑菌だらけの手で、あたしのブランド品に指紋をつけないで。ヒロトも嫌がるはずだわ。潔癖な彼が、こんな歩く培養液みたいな女を相手にするはずがない。そう思って彼を見ると、彼は微かに苦笑いをして、身を引くこともなく、ありがとう、と短く答えた。
え?
今、笑った?
拒絶しなかった?
あたしの見間違いかしら。
いいえ、彼は大人の対応をしただけよ。こんな場で露骨に嫌な顔をするのはスマートじゃないものね。内心では吐き気を催しているに決まっているわ。あとで二人になったら、あの女臭かったね、って笑い話にして慰めてあげなきゃ。
なのに、リオは図に乗ってさらに距離を詰めてくる。
ねえ先輩、彼女いるんですかぁ? いないなら立候補しちゃおっかなー、なんて、冗談めかして、でも目は笑っていない捕食者の目で言ってくる。
いるよ、とカケルがあたしを見る。
当然よ。
目の前にいるでしょう。世界で一番美しくて、気高くて、誰の手にも渡っていない最高の宝石が。
あたしは優越感たっぷりに微笑んで、リオを見下ろす。
残念ね。
貴方みたいな中古品が入り込む隙間なんて、1ミクロンもないのよ。
えー、やっぱりぃ? 超お似合いですけどぉ。
リオは口を尖らせるけれど、その視線はまだカケルに絡みついている。
先輩って、優しそうですよね。
彼女はそう言いながら、テーブルの下で足を組み替えた。
短いスカートがずり上がり、生白い太腿が露わになる。
あざとい。
あまりに安直な誘惑。
でも、あたしは見逃さなかった。
カケルの視線が、一瞬だけ、本当に瞬きするほどの短い間だけ、彼女の太腿に吸い寄せられたのを。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
何を見ているの? あんな、誰にでも見せびらかしている安い肉の、どこに価値があるの? 貴方は美食家でしょう? 最高級の食材しか口に合わないはずでしょう? どうして、道端に落ちているジャンクフードに目を奪われるの?
違う。
彼は呆れているのよ。
あまりの下品さに、開いた口が塞がらないだけ。
そうよね、カケル。
貴方は今、心の中で彼女を軽蔑しているのよね。
あたしという完璧な存在が隣にいるのに、あんな汚らわしい女に欲情するわけがないもの。
あたし、ちょっとお手洗い。
あたしは優雅に立ち上がる。この不快な空気を一度リセットしなきゃ。
トイレの鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。
崩れていない。陶器のような肌。潤んだ瞳。完璧。あんな藁みたいな髪の女とは、細胞のレベルから違う。
あたしはリップを塗り直す。
紅を引くたびに、自信が上書きされていく。
大丈夫。
カケルはあたしのもの。
彼はあたしの「未開封」という価値に跪いているんだから。あんな、誰の手垢がついているかわからない女になんて、指一本触れたくないはずよ。
席に戻ると、空気が少し変わっていた。
リオがカケルの隣に移動していた。
あたしの席ではないけれど、あたしと彼の間にある聖域に、土足で踏み込んでいた。彼女は何かを囁き、カケルが……笑っていた。
あたしに見せるような、緊張感のある崇拝の笑みじゃない。もっと力の抜けた、だらしない、男の顔で笑っていた。
何の話をしているの?
あたしが戻ると、カケルはハッとしたように表情を引き締めた。
おかえり、と彼は言うけれど、その声には微かな罪悪感が滲んでいる気がした。
何でもないよ、大学の講義の話、と彼は取り繕う。
そう。ならいいわ。
あたしは何も気づいていないふりをして、彼の隣に座り直す。そして、テーブルの下で、思い切り彼の太腿をつねってやった。
強く。
爪が食い込むくらいに。
彼は小さく息を呑んだけれど、悲鳴は上げなかった。
罰よ。あたしという主人がいながら、他のメス犬に尻尾を振った罰。
カケル、そろそろ出ましょう。あたしは彼の耳元で、氷のように冷たく、そして甘く囁く。これ以上、あたしのブランド品を汚染されたくないもの。
彼は頷き、逃げるように立ち上がった。
リオが、えー、もう行っちゃうんですかぁ、と残念そうに声を上げる。彼女の視線は、獲物を逃したハンターのようにギラついている。
でも無駄よ。
彼はあたしを選んだの。
店を出て、夜風に当たると、ようやく呼吸ができた気がした。
カケルの手を握る。
彼の手は湿っていた。さっきの女の熱気に当てられたのかしら。
汚い。早く消毒しなきゃ。
ねえカケル、あたしの部屋に来ない?
普段なら言わない誘い文句を、つい口にしてしまった。
焦り? まさか。
これは確認作業。彼が誰のものであるかを、骨の髄までわからせるための、慈悲深い教育的指導よ。
彼は驚いた顔をしたけれど、すぐに熱っぽい瞳で頷いた。
当然よね。あんな安物を見たあとだもの。本物の宝石の輝きを、その目で確かめたくてたまらないんでしょう?
いいわ。
今夜は少しだけ、ご褒美をあげる。
ただし、包装紙を破ることは許さない。リボンを解いて、中身を隙間から覗かせてあげるだけ。それだけで貴方は、一生あたしの虜になるんだから。
そうよね、カケル?
貴方はあんな女より、あたしの方がずっとずっと「欲しい」に決まってるものね?




