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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
傲慢の章
37/41

溶けない硝子はやがて喉に詰まる(3)

 床がベタつく。

 一歩踏み出すたびに、靴底が古い油とこぼれたアルコールの混合物を吸い上げて、不快な音を立てる。

 この店の空気は、まるで雑巾を絞った汁を霧吹きで撒いたみたいに湿っぽくて、酸っぱい。

 ゼミの打ち上げなんて、適当な理由をつけて断ればよかったわ。どうしてあたしみたいな選ばれた人間が、こんな掃き溜めみたいな大衆居酒屋の、狭苦しい座敷に座らなきゃいけないの。

 隣では、名前も覚えていない同期の男が、顔を赤くして大声で笑っている。彼の口から飛び散る唾が、あたしのカシミアのカーディガンにかかるんじゃないかって、気が気じゃないわ。

 ねえ、ちょっと静かにしてくれない? そう言いたいけれど、あたしは口角を数ミリだけ上げて、聖母のようなアルカイックスマイルを貼り付けておく。

 この場の空気を壊さない配慮ができるあたし。

 泥の中でも咲き誇る蓮の花のように、凛として美しいあたし。

 その演出のためなら、多少の不快感は我慢してあげる。

 救いは、右隣にカケルがいること。

 彼は今日も完璧だわ。周りの男たちがビールで腹を膨らませてだらしなく崩れている中で、彼だけは背筋を伸ばし、涼しい顔でウーロン茶を飲んでいる。

 あたしの隣に座る資格があるのは、彼だけ。

 彼の腕が、ふとした拍子にあたしの二の腕に触れる。

 熱い。

 服の上からでも伝わる、硬質な筋肉の温度。

 彼もまた、この下品な宴に退屈しているのね。

 早く二人になりたい。あたしの香水の匂いだけが漂う、あの密閉された車内へ逃げ込みたい。そんなテレパシーを送るように、あたしはテーブルの下で、彼の太腿にそっと小指を這わせる。

 ビクッ、と彼の筋肉が反応する。

 可愛い。あたしの指一本で、エリート医大生の理性が揺らぐ。

 彼は視線を落とし、困ったように、でも嬉しそうにあたしを見る。

 あとで抜け出そうか、と彼の唇が動く。ええ、お願い。こんな場所、あたしたちには似合わないもの。

 その時だった。引き戸が乱暴に開いて、強烈な匂いが流れ込んできたのは。

 甘ったるいバニラの香水と、汗と、安物のファンデーションが混ざり合った、頭痛がしそうな悪臭。

 遅れてごめんなさぁい! と甲高い声が響く。

 現れたのは、一年のリオとかいう女。

 見て、あの格好。肩が丸出しのニットに、座れば下着が見えそうなミニスカート。髪は脱色しすぎて藁みたいにパサついているし、メイクは厚塗りすぎて能面みたい。歩く公害ね。

 彼女が入ってきただけで、部屋の湿度が不快な方向に跳ね上がるのがわかる。

 こっちこっち! と男たちが色めき立つ。

 わかりやすいわね。すぐにヤレそうな女が来た途端、発情した猿みたいに騒ぎ出して。

 リオは媚びた笑顔を振りまきながら、あろうことか、あたしたちのテーブルの向かい側にドカッと座り込んだ。

 近い。匂いがきつい。

 彼女はジョッキを両手で持ち、男たちに囃し立てられるままに飲み干す。喉仏を鳴らして、口の端から液体を垂らしながら。

 品がない。育ちが知れるわ。

 あたしは不快感を隠すようにグラスを傾ける。視界に入れないで。あたしの網膜が汚れるから。

 あ、カケル先輩だ!

 リオが猫なで声で叫んだ。

 彼女の視線が、あたしの所有物にへばりつく。

 やだ、今日もおしゃれですねぇ。時計かっこいい!

 彼女は身を乗り出し、テーブル越しにヒロトの腕に触れようとする。

 あたしの中で、警報が鳴り響く。

 触らないで。その雑菌だらけの手で、あたしのブランド品に指紋をつけないで。ヒロトも嫌がるはずだわ。潔癖な彼が、こんな歩く培養液みたいな女を相手にするはずがない。そう思って彼を見ると、彼は微かに苦笑いをして、身を引くこともなく、ありがとう、と短く答えた。

 え?

 今、笑った?

 拒絶しなかった?

 あたしの見間違いかしら。

 いいえ、彼は大人の対応をしただけよ。こんな場で露骨に嫌な顔をするのはスマートじゃないものね。内心では吐き気を催しているに決まっているわ。あとで二人になったら、あの女臭かったね、って笑い話にして慰めてあげなきゃ。

 なのに、リオは図に乗ってさらに距離を詰めてくる。

 ねえ先輩、彼女いるんですかぁ? いないなら立候補しちゃおっかなー、なんて、冗談めかして、でも目は笑っていない捕食者の目で言ってくる。

 いるよ、とカケルがあたしを見る。

 当然よ。

 目の前にいるでしょう。世界で一番美しくて、気高くて、誰の手にも渡っていない最高の宝石が。

 あたしは優越感たっぷりに微笑んで、リオを見下ろす。

 残念ね。

 貴方みたいな中古品が入り込む隙間なんて、1ミクロンもないのよ。

 えー、やっぱりぃ? 超お似合いですけどぉ。

 リオは口を尖らせるけれど、その視線はまだカケルに絡みついている。

 先輩って、優しそうですよね。

 彼女はそう言いながら、テーブルの下で足を組み替えた。

 短いスカートがずり上がり、生白い太腿が露わになる。

 あざとい。

 あまりに安直な誘惑。

 でも、あたしは見逃さなかった。

 カケルの視線が、一瞬だけ、本当に瞬きするほどの短い間だけ、彼女の太腿に吸い寄せられたのを。

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。

 何を見ているの? あんな、誰にでも見せびらかしている安い肉の、どこに価値があるの? 貴方は美食家でしょう? 最高級の食材しか口に合わないはずでしょう? どうして、道端に落ちているジャンクフードに目を奪われるの?

 違う。

 彼は呆れているのよ。

 あまりの下品さに、開いた口が塞がらないだけ。

 そうよね、カケル。

 貴方は今、心の中で彼女を軽蔑しているのよね。

 あたしという完璧な存在が隣にいるのに、あんな汚らわしい女に欲情するわけがないもの。

 あたし、ちょっとお手洗い。

 あたしは優雅に立ち上がる。この不快な空気を一度リセットしなきゃ。

 トイレの鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。

 崩れていない。陶器のような肌。潤んだ瞳。完璧。あんな藁みたいな髪の女とは、細胞のレベルから違う。

 あたしはリップを塗り直す。

 紅を引くたびに、自信が上書きされていく。

 大丈夫。

 カケルはあたしのもの。

 彼はあたしの「未開封」という価値に跪いているんだから。あんな、誰の手垢がついているかわからない女になんて、指一本触れたくないはずよ。

 席に戻ると、空気が少し変わっていた。

 リオがカケルの隣に移動していた。

 あたしの席ではないけれど、あたしと彼の間にある聖域に、土足で踏み込んでいた。彼女は何かを囁き、カケルが……笑っていた。

 あたしに見せるような、緊張感のある崇拝の笑みじゃない。もっと力の抜けた、だらしない、男の顔で笑っていた。

 何の話をしているの?

 あたしが戻ると、カケルはハッとしたように表情を引き締めた。

 おかえり、と彼は言うけれど、その声には微かな罪悪感が滲んでいる気がした。

 何でもないよ、大学の講義の話、と彼は取り繕う。

 そう。ならいいわ。

 あたしは何も気づいていないふりをして、彼の隣に座り直す。そして、テーブルの下で、思い切り彼の太腿をつねってやった。

 強く。

 爪が食い込むくらいに。

 彼は小さく息を呑んだけれど、悲鳴は上げなかった。

 罰よ。あたしという主人がいながら、他のメス犬に尻尾を振った罰。

 カケル、そろそろ出ましょう。あたしは彼の耳元で、氷のように冷たく、そして甘く囁く。これ以上、あたしのブランド品を汚染されたくないもの。

 彼は頷き、逃げるように立ち上がった。

 リオが、えー、もう行っちゃうんですかぁ、と残念そうに声を上げる。彼女の視線は、獲物を逃したハンターのようにギラついている。

 でも無駄よ。

 彼はあたしを選んだの。

 

 店を出て、夜風に当たると、ようやく呼吸ができた気がした。

 カケルの手を握る。

 彼の手は湿っていた。さっきの女の熱気に当てられたのかしら。

 汚い。早く消毒しなきゃ。

 ねえカケル、あたしの部屋に来ない?

 普段なら言わない誘い文句を、つい口にしてしまった。

 焦り? まさか。

 これは確認作業。彼が誰のものであるかを、骨の髄までわからせるための、慈悲深い教育的指導よ。

 彼は驚いた顔をしたけれど、すぐに熱っぽい瞳で頷いた。

 当然よね。あんな安物を見たあとだもの。本物の宝石の輝きを、その目で確かめたくてたまらないんでしょう?

 いいわ。

 今夜は少しだけ、ご褒美をあげる。

 ただし、包装紙を破ることは許さない。リボンを解いて、中身を隙間から覗かせてあげるだけ。それだけで貴方は、一生あたしの虜になるんだから。

 そうよね、カケル?

 貴方はあんな女より、あたしの方がずっとずっと「欲しい」に決まってるものね?

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