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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
傲慢の章
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溶けない硝子はやがて喉に詰まる(2)

 助手席のドアが開くと、そこにはひんやりとした冷気と、高価な革の匂い、そしてサンダルウッドの香水が混ざり合った、彼特有の香りが漂っていた。

 どうぞ、と彼が差し出す手は、他の男たちのそれとは違う。爪の先まで丁寧に手入れされ、節くれ立ちもなく、白くて長い指。まるでピアニストか外科医のような、知性と嗜虐性を同時に感じさせる美しい手だわ。

 ありがとう、と私は流し目で微笑み、彼の手を借りてシートに身を滑り込ませる。

 彼の名前はカケル。医学部の四年生で、このキャンパスのカースト最上位に君臨する男。

 彼がアクセルを踏み込むと、車体は滑るように夜の街へと走り出した。窓の外を流れる街灯が、真珠のネックレスみたいに連なって後ろへと消えていく。密閉された車内は、世界から切り離された二人だけのカプセル。心臓の鼓動さえ聞こえてきそうな静寂の中で、彼の横顔を盗み見る。

 整った鼻筋、知的な額、そして時折、獲物を狙うように細められる瞳。

 完璧だわ。

 彼こそが、私の隣を歩くことを許された唯一の存在。有象無象の雑種犬たちが、どれだけ尻尾を振って寄ってきても、この席だけは譲れない。だって、最高級の宝石には、最高級のケースが必要でしょう。彼というブランドが、私の価値をさらに保証してくれるのよ。

 ねえ、今日はどこへ連れて行ってくれるの。

 そう尋ねると、彼は少し悪戯っぽく口角を上げた。

 君が喜びそうな場所だよ、と彼は言う。

 ベイエリアの夜景が見えるレストランかしら。それとも、会員制の隠れ家バーかしら。どちらにしても、彼は外さない。私の好みを熟知し、私を喜ばせることこそが自分の喜びだと錯覚している、優秀な飼い犬だから。

 信号待ちで車が止まる。

 彼の手が、コンソールボックスの上で私の手に重なった。

 熱い。

 クールな顔をしているけれど、皮膚の下を流れる血液は沸騰しているのがわかる。

 君の手はいつも冷たくて気持ちいいな、と彼は呟き、私の指を一本一本、愛でるように撫で回す。指の股、爪の生え際、そして手首の内側の薄い皮膚。まるで、これから執刀する患部を確認しているみたいに、執拗で、ねっとりとした接触。

 ゾクゾクするわ。

 その指先から伝わってくるのは、純粋な好意なんかじゃない。私の全てを暴き、解体し、自分の所有物としてラベルを貼りたいという、昏い独占欲。

 いいよ。もっと触って。

 今は手だけで我慢してあげる。

 貴方のその焦燥感が、車内の湿度を上げているのがわかるわ。

 食事の間も、彼は完璧だった。

 夜景の見える窓際の席。クリスタルグラスに注がれた赤ワイン。

 彼は私の瞳を見つめながら、君は本当に綺麗だ、と何度も繰り返した。

 知っているわ。

 今夜のために、どれだけ時間をかけて準備したと思っているの。

 肌には最高級のオイルを塗り込み、髪は一筋の乱れもなく巻き上げ、下着だって、もしもの時(そんな時は来ないけれど)のために、フランス製の繊細なレースを身に着けている。

 私は彼のために着飾っているんじゃない。彼をひざまずかせるために、武装しているの。

 デザートのスプーンを口に運ぶ仕草ひとつ、グラスに口紅の跡を残す角度ひとつ、すべてが計算された芸術品なのよ。

 

 店を出て、再び車に乗り込む頃には、彼の理性のタガが外れかけているのがわかった。

 行き先も告げずに車を走らせる彼。向かっているのは、彼のマンションか、それとも海沿いの人気の少ない駐車場か。

 どちらでもいいわ。

 貴方がどう出るか、楽しませてもらうもの。

 やがて車は、埠頭の暗がりでエンジンを切った。

 静寂。波の音だけが遠くで聞こえる。

 彼がシートベルトを外し、身を乗り出してくる。逃げ場のない密室で、男の匂いが押し寄せてくる。サンダルウッドの香りが強くなる。彼の体温が、私の肌を焼くように迫る。

 ……カケル、と私が呼ぶ間もなく、唇が塞がれた。

 強引で、飢えたキス。彼の舌が、私の口内を蹂躙するように入ってくる。歯列をなぞり、私の舌を絡め取り、唾液を交換する。

 ちゅ、じゅる、と水音が響く。

 汚い。けれど、甘い。

 理性的でスマートな彼が、たった一つの肉欲のために獣に戻る瞬間。

 この落差こそが、私の勝利の味。

 彼の手が、私の太腿を這い上がってくる。ストッキング越しの摩擦熱が、脳髄を痺れさせる。スカートの裾が捲られ、冷たい夜気が素肌に触れる。その直後、彼の手のひらが直接、私の柔肌を掴んだ。

 ビクッ、と身体が跳ねる。

 ダメ。

 そこはまだ早い。

 私は彼の胸を両手で押し返す。

 ハア、ハア、と荒い息を吐きながら、彼は不満げに私を見る。どうして、と彼の目が訴えている。僕たち、もう三ヶ月もこうしているじゃないか。そろそろいいだろう? 君だって感じているじゃないか。

 ええ、感じているわ。下腹部が熱くて、蜜が滲んで、ストッキングが張り付くほどに濡れているわ。貴方のその綺麗な指で、乱暴に突き上げられたら、どんなに気持ちいいだろうって想像しているわ。

 でも、だからこそダメなの。

 まだ怖いの、と私は伏し目がちに囁く。私の震える声、潤んだ瞳、乱れた服。

 この「か弱い処女」の演技が、彼にとって最強の鎖になることを私は知っている。

 初めてだから、大切にしてほしいの。

 その言葉を聞いた瞬間、彼の瞳から獣の色が少しだけ引き、代わりに庇護欲という名の新しい檻が現れる。

 ごめん、と彼は掠れた声で謝る。焦りすぎたね。君があまりに魅力的だから、つい理性が飛んでしまった。

 彼は私のスカートを直し、乱れた髪を優しく撫でる。

 大切にするよ、と彼は誓う。君が心から望むその時まで、僕は待つよ。

 ああ、なんて単純で、なんて愛おしいの。貴方は今、我慢することを選んだ自分に酔っているのね。本能を理性で抑え込み、純潔な恋人を守る騎士としての自分に陶酔しているのね。

 いいわ。その勘違いが続く限り、貴方は私のもの。セックスなんて、してしまえばただの運動よ。一度済ませてしまえば、神秘性は失われ、私はただの「彼女」に成り下がる。

 でも、「していない」という事実は永遠に輝き続ける。未開封の箱の中身は、いつだって無限の価値を持つのだもの。

 送っていくよ、と彼がエンジンをかける。

 帰り道、彼は私の手を握りしめたまま離さなかった。

 その手汗の量は、行きよりもずっと多い。彼の股間が熱く膨らんでいるのを、私は知っている。

 今夜、彼はこの疼きを抱えたまま、冷たいシャワーを浴びて、私の顔を思い浮かべながら自らを慰めるのだろう。

 私のいない場所で、私が彼を支配する。

 私の幻影が、彼をイカせる。

 これ以上の支配がどこにあるの?

 マンションの前で車を降りる。

 おやすみ、と手を振る私に、彼は名残惜しそうにクラクションを鳴らした。

 テールランプが遠ざかっていく。

 夜風が、火照った頬を冷やす。

 私は自分の唇を指でなぞる。腫れている。少し切れているかもしれない。鉄の味がした。

 ふふ、痛い。でも、この痛みは勲章よ。

 私が誰にも身を委ねず、高潔さを守り抜いたという証。

 部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。

 天井を見上げると、グルグルと世界が回っているような気がした。

 アルコールのせい? それとも、自分の価値が高まりすぎて、重力がおかしくなっているのかしら。

 股間が熱い。指を這わせる。濡れた下着が不快で、そして甘美だ。

 ねえ、カケル。

 本当は、今すぐ貴方に壊されたかった。

 貴方の獣のような衝動で、私の傲慢な理屈なんて全部吹き飛ばしてほしかった。

 でも、貴方は優しすぎるわ。

 あたしが「待て」と言えば待つ、お利口なワンちゃん。

 つまらない。けど、安心する。貴方は絶対に、私を裏切らない。私がこの「純潔」というカードを握っている限り、貴方は永遠に私の前で尻尾を振るしかないのだから。

 自分を慰めながら、私は恍惚とした表情で天井に問いかける。

 ねえ、神様。

 私より価値のある女なんて、この世にいないわよね?

 だって私は、誰も開けられなかったパンドラの箱なのだから。

 中身が空っぽだとしても、開けられない限り、そこには希望が詰まっていることになっているのだから。

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