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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
傲慢の章
35/41

溶けない硝子はやがて喉に詰まる(1)

 ねえ、そんなに熱い溜息を吐きかけないで。

 貴方の呼気に含まれる湿度が、あたしの丁寧にセットした前髪を濡らしてしまうじゃない。

 目の前の男、サークルの先輩だっけ、名前なんてどうでもいいけれど、彼の視線があたしの首筋からデコルテのラインを、ナメクジみたいに這いずり回っているのがわかる。粘着質で、光沢のある欲望。隠そうともしないその浅ましさが、逆に愛おしくさえ思えてくるわ。

 薄暗い個室居酒屋の、安っぽいベルベットのソファ。隣に座る彼の太腿が、あたしの太腿にじっとりと押し付けられている。熱い。生き物の体温というよりは、発情した獣の体温。

 貴方、今、何を考えているの。

 このままあたしを押し倒して、スカートの中に手を滑り込ませたい、でしょう。あたしの白い肌に、貴方の脂ぎった指跡を残したい、でしょう。

 ふふ、顔を見ればわかるわ。

 充血した目。小刻みに震える指先。乾いた唇を舌で湿らせる仕草。

 可哀想に。目の前に極上の果実がぶら下がっているのに、ガラス一枚隔てられているみたいに手が届かないんだものね。

 

 あたし、ちょっと酔っちゃったかも。

 そう囁いて、彼の肩に頭を預けてあげる。

 シャンプーの香り、柔軟剤の香り、そしてあたし自身の肌が放つ、乳液のような甘い匂い。それらが鼻腔を刺激して、彼の理性を溶かしていく音が聞こえるみたい。

 彼は震える手で、あたしの腰に腕を回してくる。

 華奢な腰でしょう。折れそうなくらい細いくせに、柔らかい肉付きも残している、奇跡のようなラインでしょう。

 彼の指が、ブラウスの上からあたしの肋骨をなぞる。

 ゾクゾクする。

 恐怖じゃないわ。これは優越感。

 ひとりの雄の生物としての機能を、あたしという存在が狂わせているという全能感。

 ねえ、もっと強く抱きしめてもいいのよ。

 そうすれば、貴方の腕の中で、あたしがどれだけ価値のある壊れ物か、重さで実感できるはずだから。

 君って、本当にガードが固いよね、と彼が恨めしそうに呟く。

 みんな言ってるよ、君は高嶺の花すぎて手が出せないって。

 あら、光栄だわ。

 周りの女の子たちを見てごらんなさいよ。

 飲み会のたびに安っぽいチューハイで顔を赤らめて、誰でもいいからお持ち帰りしてほしいって顔で媚びを売っている、あの消費期限切れの肉塊たちを。

 彼女たちは「親しみやすさ」を売りにしているつもりでしょうけれど、それは「安売り」って言うのよ。

 誰にでも開かれる扉に、何の価値があるの。

 誰でも土足で踏み込める部屋に、どんな神聖さがあるの。

 あたしは違う。

 あたしは、選ばれた人間しか鍵を持てない、完全なる密室なの。

 ねえ、先輩。あたし、まだ誰のものにもなったことがないの。

 耳元でそう囁くと、彼の動きがピタリと止まる。

 信じられない、という顔。

 二十歳を過ぎて、こんなに男を狂わせる身体をしていて、こんなに甘いフェロモンを撒き散らしているのに。

 あたしは、まだ真空パックされたままの新品なの。誰も知らない。誰も触れたことがない。

 その事実が持つ破壊力を、貴方は理解できるかしら。

 それは単なる経験の有無じゃない。あたしが、自分自身をどれだけ高貴な存在として扱っているかという証明。

 世界中の男たちが喉から手が出るほど欲しがっているのに、誰一人としてあたしの城壁を越えられなかったという、勝利の歴史。

 貴方の瞳の色が変わったわね。

 ただの性欲じゃない。征服欲。独占欲。未開の地を最初に踏み荒らす冒険者になりたいという、男の本能的な野心。

 興奮するでしょう。

 あたしの純潔を散らすのが貴方かもしれないと思ったら、脳髄が沸騰するでしょう。

 その手が、あたしのスカートの裾を捲り上げようとする。

 焦らないで。

 がっつかないで。

 テーブルマナーも知らない野良犬は嫌いよ。

 あたしは彼の手首を、細い指先でそっと押さえる。

 ダメ。今日はここまで。

 その言葉ひとつで、彼が絶望の淵に叩き落とされる様を見るのが、たまらなく快感。

 寸止め。

 これこそが、あたしの支配の形。与えないことで、貴方の飢餓感を極限まで煽り、あたしへの執着を永遠のものにするの。

 そろそろ帰るわね、とあたしは立ち上がる。

 待って、と彼が縋るように言うけれど、あたしは微笑むだけ。その微笑みは、聖女のように慈悲深く、そして悪魔のように冷酷だったはず。

 貴方が今日の支払いを済ませている間に、あたしは夜の街へと消える。

 ハイヒールがアスファルトを叩く音。

 カツ、カツ、カツ。

 背中で感じる彼の視線が、蜘蛛の糸のようにあたしに絡みついてくる。

 今夜、貴方は一人きりのベッドで、あたしの残り香と、柔らかい肌の感触を反芻しながら、惨めに自分を慰めるんでしょうね。あたしの名前を呼びながら、叶わぬ夢を見て果てるんでしょうね。それって、実質、あたしに犯されているのと同じことよ。

 タクシーに乗り込み、冷たいシートに身を沈める。窓の外を流れるネオンサインが、あたしの顔を色とりどりに染めていく。

 ふう、疲れた。

 誰も彼も、欲望を隠せない猿ばかり。

 でも、仕方ないわよね。

 最高級の蜜があれば、虫が寄ってくるのは自然の摂理だもの。

 ウィンドウに映る自分の顔を見る。

 艶やかな黒髪、潤んだ瞳、桜色の唇。

 完璧。

 どこも汚れていない。どこも傷ついていない。

 あたしはずっと、ショーケースの中の特級品のまま。

 マンションに帰り着き、鍵を開ける。

 重厚な金属音が、あたしを外の世界から遮断する。

 シャワーを浴びて、汗と、男たちの脂ぎった欲望を洗い流す。

 バスタオル一枚で鏡の前に立つ。

 湯上がりの肌は、薄紅色の光を放っている。豊満な胸の膨らみ、くびれた腰、滑らかな太腿。そして、固く閉ざされた秘所。

 あたしは自分の体を抱きしめる。

 熱い。

 体の芯が、疼いている。

 先輩との駆け引きで高ぶった神経が、鎮まらないまま脈打っている。

 本当は、誰よりも欲しがっているのはあたしかもしれない。誰かに乱暴にこじ開けられて、ぐちゃぐちゃに掻き回されたいという倒錯した願望が、腹の底でマグマのように煮えたぎっている。

 でも、まだダメ。この疼きさえも、あたしの価値を高めるための熟成期間。

 誰にあげようかな。

 誰がこの、世界一高慢で、世界一純粋な処女膜を突き破る権利を勝ち取るのかな。

 それ相応の対価を支払える王子様が現れるまで、あたしはこの甘い檻の中で、一人で熟れ続けるの。腐り落ちる寸前の、鼻が曲がるほど甘美な芳香を放ちながらね。

 ベッドに倒れ込む。

 冷たいシーツが、火照った肌に吸い付く感覚に、思わず吐息が漏れる。

 ……んっ。

 自分の指で触れてみる。

 濡れている。蜜が溢れている。もったいない。この一滴一滴が、ダイヤモンドよりも価値があるというのに。

 誰もいない部屋で、あたしは一人、自分の価値を確認するように悶える。

 早く迎えに来て。

 あたしを壊してくれる、残酷なほどに完璧な誰かさん。

 待ちくたびれて、中身が溶け出してしまいそうだよ。

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