溶けない硝子はやがて喉に詰まる(1)
ねえ、そんなに熱い溜息を吐きかけないで。
貴方の呼気に含まれる湿度が、あたしの丁寧にセットした前髪を濡らしてしまうじゃない。
目の前の男、サークルの先輩だっけ、名前なんてどうでもいいけれど、彼の視線があたしの首筋からデコルテのラインを、ナメクジみたいに這いずり回っているのがわかる。粘着質で、光沢のある欲望。隠そうともしないその浅ましさが、逆に愛おしくさえ思えてくるわ。
薄暗い個室居酒屋の、安っぽいベルベットのソファ。隣に座る彼の太腿が、あたしの太腿にじっとりと押し付けられている。熱い。生き物の体温というよりは、発情した獣の体温。
貴方、今、何を考えているの。
このままあたしを押し倒して、スカートの中に手を滑り込ませたい、でしょう。あたしの白い肌に、貴方の脂ぎった指跡を残したい、でしょう。
ふふ、顔を見ればわかるわ。
充血した目。小刻みに震える指先。乾いた唇を舌で湿らせる仕草。
可哀想に。目の前に極上の果実がぶら下がっているのに、ガラス一枚隔てられているみたいに手が届かないんだものね。
あたし、ちょっと酔っちゃったかも。
そう囁いて、彼の肩に頭を預けてあげる。
シャンプーの香り、柔軟剤の香り、そしてあたし自身の肌が放つ、乳液のような甘い匂い。それらが鼻腔を刺激して、彼の理性を溶かしていく音が聞こえるみたい。
彼は震える手で、あたしの腰に腕を回してくる。
華奢な腰でしょう。折れそうなくらい細いくせに、柔らかい肉付きも残している、奇跡のようなラインでしょう。
彼の指が、ブラウスの上からあたしの肋骨をなぞる。
ゾクゾクする。
恐怖じゃないわ。これは優越感。
ひとりの雄の生物としての機能を、あたしという存在が狂わせているという全能感。
ねえ、もっと強く抱きしめてもいいのよ。
そうすれば、貴方の腕の中で、あたしがどれだけ価値のある壊れ物か、重さで実感できるはずだから。
君って、本当にガードが固いよね、と彼が恨めしそうに呟く。
みんな言ってるよ、君は高嶺の花すぎて手が出せないって。
あら、光栄だわ。
周りの女の子たちを見てごらんなさいよ。
飲み会のたびに安っぽいチューハイで顔を赤らめて、誰でもいいからお持ち帰りしてほしいって顔で媚びを売っている、あの消費期限切れの肉塊たちを。
彼女たちは「親しみやすさ」を売りにしているつもりでしょうけれど、それは「安売り」って言うのよ。
誰にでも開かれる扉に、何の価値があるの。
誰でも土足で踏み込める部屋に、どんな神聖さがあるの。
あたしは違う。
あたしは、選ばれた人間しか鍵を持てない、完全なる密室なの。
ねえ、先輩。あたし、まだ誰のものにもなったことがないの。
耳元でそう囁くと、彼の動きがピタリと止まる。
信じられない、という顔。
二十歳を過ぎて、こんなに男を狂わせる身体をしていて、こんなに甘いフェロモンを撒き散らしているのに。
あたしは、まだ真空パックされたままの新品なの。誰も知らない。誰も触れたことがない。
その事実が持つ破壊力を、貴方は理解できるかしら。
それは単なる経験の有無じゃない。あたしが、自分自身をどれだけ高貴な存在として扱っているかという証明。
世界中の男たちが喉から手が出るほど欲しがっているのに、誰一人としてあたしの城壁を越えられなかったという、勝利の歴史。
貴方の瞳の色が変わったわね。
ただの性欲じゃない。征服欲。独占欲。未開の地を最初に踏み荒らす冒険者になりたいという、男の本能的な野心。
興奮するでしょう。
あたしの純潔を散らすのが貴方かもしれないと思ったら、脳髄が沸騰するでしょう。
その手が、あたしのスカートの裾を捲り上げようとする。
焦らないで。
がっつかないで。
テーブルマナーも知らない野良犬は嫌いよ。
あたしは彼の手首を、細い指先でそっと押さえる。
ダメ。今日はここまで。
その言葉ひとつで、彼が絶望の淵に叩き落とされる様を見るのが、たまらなく快感。
寸止め。
これこそが、あたしの支配の形。与えないことで、貴方の飢餓感を極限まで煽り、あたしへの執着を永遠のものにするの。
そろそろ帰るわね、とあたしは立ち上がる。
待って、と彼が縋るように言うけれど、あたしは微笑むだけ。その微笑みは、聖女のように慈悲深く、そして悪魔のように冷酷だったはず。
貴方が今日の支払いを済ませている間に、あたしは夜の街へと消える。
ハイヒールがアスファルトを叩く音。
カツ、カツ、カツ。
背中で感じる彼の視線が、蜘蛛の糸のようにあたしに絡みついてくる。
今夜、貴方は一人きりのベッドで、あたしの残り香と、柔らかい肌の感触を反芻しながら、惨めに自分を慰めるんでしょうね。あたしの名前を呼びながら、叶わぬ夢を見て果てるんでしょうね。それって、実質、あたしに犯されているのと同じことよ。
タクシーに乗り込み、冷たいシートに身を沈める。窓の外を流れるネオンサインが、あたしの顔を色とりどりに染めていく。
ふう、疲れた。
誰も彼も、欲望を隠せない猿ばかり。
でも、仕方ないわよね。
最高級の蜜があれば、虫が寄ってくるのは自然の摂理だもの。
ウィンドウに映る自分の顔を見る。
艶やかな黒髪、潤んだ瞳、桜色の唇。
完璧。
どこも汚れていない。どこも傷ついていない。
あたしはずっと、ショーケースの中の特級品のまま。
マンションに帰り着き、鍵を開ける。
重厚な金属音が、あたしを外の世界から遮断する。
シャワーを浴びて、汗と、男たちの脂ぎった欲望を洗い流す。
バスタオル一枚で鏡の前に立つ。
湯上がりの肌は、薄紅色の光を放っている。豊満な胸の膨らみ、くびれた腰、滑らかな太腿。そして、固く閉ざされた秘所。
あたしは自分の体を抱きしめる。
熱い。
体の芯が、疼いている。
先輩との駆け引きで高ぶった神経が、鎮まらないまま脈打っている。
本当は、誰よりも欲しがっているのはあたしかもしれない。誰かに乱暴にこじ開けられて、ぐちゃぐちゃに掻き回されたいという倒錯した願望が、腹の底でマグマのように煮えたぎっている。
でも、まだダメ。この疼きさえも、あたしの価値を高めるための熟成期間。
誰にあげようかな。
誰がこの、世界一高慢で、世界一純粋な処女膜を突き破る権利を勝ち取るのかな。
それ相応の対価を支払える王子様が現れるまで、あたしはこの甘い檻の中で、一人で熟れ続けるの。腐り落ちる寸前の、鼻が曲がるほど甘美な芳香を放ちながらね。
ベッドに倒れ込む。
冷たいシーツが、火照った肌に吸い付く感覚に、思わず吐息が漏れる。
……んっ。
自分の指で触れてみる。
濡れている。蜜が溢れている。もったいない。この一滴一滴が、ダイヤモンドよりも価値があるというのに。
誰もいない部屋で、あたしは一人、自分の価値を確認するように悶える。
早く迎えに来て。
あたしを壊してくれる、残酷なほどに完璧な誰かさん。
待ちくたびれて、中身が溶け出してしまいそうだよ。




