雪の果樹園(4)
朝が来た。
この家における朝とは、希望の始まりではない。夜という名の黒いインクが、太陽光という漂白剤によって暴力的に白く洗浄される、痛みを伴う化学反応の時間だ。
眩しい。
雨戸の隙間から差し込む光が、レーザービームのように僕の網膜を焼きに来る。僕はコタツの中に頭まで潜り込み、ダンゴムシのように丸まっていた。
臭い。
自分の体臭と、腐ったミカンの皮と、安酒の残り香と、昨夜の「不発に終わった殺意」の死臭が混ざり合って、とんでもないアロマを醸成している。
これが僕の匂いだ。敗北者の体臭だ。
一階の居間から、またしてもあのドリル音が聞こえてくる。
兄貴の声だ。
「おいカズオ! 起きろ! 司法書士の先生が来るぞ!」
元気だ。
異常なまでに元気だ。
昨夜、あと数ミリ指が動いていれば、お前の頭はスイカ割りされた後の残骸になっていたんだぞ。それを知らずに、よくもまあそんなに張り切った声が出せるものだ。無知は力なり。オーウェルは正しかった。
僕はコタツ布団をのろのろと押しのけた。重力加速度が昨日の倍になっている気がする。
昨夜、あの銃をどうしたっけ?
ああ、そうだ。押入れに放り込んだんだ。弾を抜いて、ケースにも入れず、布団の上に雑に投げ捨てた。
もう見たくもなかった。あれは「可能性」の塊だ。僕に「行動」を促す呪いのアイテムだ。封印だ。二度と日の目を見ることはない。
居間に行くと、兄貴はすでにスーツに着替えていた。
パリッとしたシャツ。磨かれた靴。完璧なビジネスマンの装甲。
一方僕は、三日前から着替えていないヨレヨレの半纏と、毛玉だらけのスウェット。
同じ遺伝子から生まれたとは思えない。進化の分岐点で、片方は陸に上がり、片方は深海に潜ることを選んだのだ。
「顔洗ってこい。シャキッとしないか」
「……水が出ないんだよ、朝は。凍ってるから」
「言い訳すんな。ほら、これ」
兄貴がテーブルの上に書類の束を広げた。売買契約書。重要事項説明書。登記識別情報。
紙の束。
これだけの紙を作るのに、どれだけの木が死んだんだろう。僕の果樹園のリンゴの木も、いずれチップにされて、こういうつまらない契約書に生まれ変わるのだろうか。
「ここに実印。ここには署名。全部で五箇所だ」
兄貴が万年筆を差し出した。モンブラン。黒光りする太い軸。
昨夜の銃身に似ている、と思った。
これもまた凶器だ。
インクという弾丸を撃ち込み、僕の生活を、僕の停滞を、僕の過去を殺すための、洗練された凶器。
僕はペンを受け取った。
重い。
昨夜の銃よりは軽いはずなのに、精神的な質量は同じくらい重かった。
「……ねえ」
背後から声がした。
エレーナだ。
振り返ると、彼女は部屋の隅に立っていた。
昨夜の妖艶さは消え失せていた。ノーメイク。乱れた髪。目の下には濃い隈ができている。白い肌は青白く、まるで幽霊のようだ。
彼女は僕の手にある万年筆を見つめ、次に僕の目を見た。
その瞳には、もう「期待」はなかった。あるのは、底知れぬ軽蔑と、そして微かな恐怖だった。
──書くの?
──昨日は撃たなかったくせに、今日は書くの?
──抵抗する勇気はないくせに、服従する勇気はあるのね。
彼女の視線が、僕を解剖していく。
うるさい。見るな。
僕はただ、楽になりたいだけなんだ。
抵抗するのはカロリーを使う。戦うのは疲れる。
でも、服従するのは?
流されるのは?
それは、重力に従って坂を転がり落ちる石のように、エネルギーを使わない「自然現象」だ。
だから僕は書く。
これは敗北じゃない。物理法則への順応だ。
サラサラサラ……。
ペン先が紙の上を滑る。
僕の名前。「カズオ」。
文字を書いている感覚がない。自動書記だ。僕の中の「社会性」というプログラムだけが起動して、肉体を操っている。
一箇所。二箇所。三箇所。
朱肉をつける。印鑑を押す。グッ。
赤い円が、紙の上に刻印される。それは昨夜、銃から飛び出した赤い弾薬の色に似ていた。銃弾は発射されなかったけれど、印鑑は押された。
どちらも赤くて、どちらも僕の人生を終わらせるトリガーだ。
「よし! これで完了だ」
兄貴が書類をひったくるように回収した。
満面の笑み。
太陽光パネルが光り輝く未来が見えているのだろう。
「司法書士には俺から渡しとく。来週には着手金が入るからな。カズオ、お前も引っ越しの準備始めろよ。業者呼ぶか?」
「……いや、いい」
僕はペンを置いた。指先がインクで少し汚れていた。
「身一つで出るよ。捨てるものしかないから」
「そうか。ま、それが一番効率的だな」
効率的。大好きな言葉だね、兄貴。
僕は立ち上がり、よろよろと台所へ向かった。喉が渇いた。水道管が凍っていても、ヤカンに残った水くらいはあるだろう。
台所の流し台。ステンレスが錆びて、茶色いシミを作っている。コップに水を注いでいると、隣に気配がした。
エレーナだ。
彼女は無言で、僕の横に並んだ。兄貴は居間で電話をしている。「あ、もしもし先生? ええ、サイン貰いましたよ。問題なしです。ハハハ!」と高笑いしている。
「……最低」
エレーナが呟いた。
蚊の鳴くような、小さな声だった。
「ごめん」
「謝らないで。謝るエネルギーすら惜しいくせに」
鋭い。僕の本質を見抜き始めている。
「私、わかったの」
彼女は流し台の錆びたシミを指でなぞりながら言った。
「あなたは優しい人でも、臆病な人でもないわ」
「……じゃあ、なんだよ」
「あなたは、虚無よ」
彼女は僕の顔を覗き込んだ。その瞳は、深淵を覗き込む探検家のように怯えていた。
「エイイチは欲張りな豚よ。でも、豚には食欲がある。生きたいという汚い欲望がある。でも、あなたには何もない。愛も、憎しみも、怒りも、悲しみも。昨夜、銃を持った時、あなたは迷ったんじゃないわ。『どっちでもいい』と思ったんでしょ? 殺すのも、殺さないのも、あなたにとっては等価値の『作業』だった。ただ、死体を片付ける方が手間だから、やめただけ。ただそれだけ」
心臓をアイスピックで刺されたような衝撃。
そうだ。
僕は兄貴を愛しているわけでも、憎んでいるわけでもない。ただの「障害物」として処理しようとし、コスト計算の結果、却下しただけだ。そこには人間としての感情は1ミリたりとも存在しなかった。
「……怖い」
エレーナが身震いした。
「暴力的な男より、あなたみたいな『何もしない』男の方が、ずっと怖いわ。あなたは、世界中の熱を吸い取って、ただ腐らせていくブラックホールだわ」
彼女は後ずさりした。僕という汚染物質から距離を取るように。
「私、帰るわ。二度とここには来ない」
彼女は踵を返した。その背中は、昨夜のような「助けて」という甘えではなく、明確な「拒絶」を語っていた。
僕は一人、台所に残された。
コップの水には、埃が浮いていた。それを一気に飲み干す。冷たい水が食道を通って胃に落ちる。
僕は空っぽだ。
彼女の言う通り。
僕はブラックホールだ。
だから、この家も、果樹園も、未来も、すべて飲み込んで消滅させるんだ。
居間から兄貴の声がする。
「カズオ! ちょっと手伝え! 荷物運ぶぞ!」
僕はコップを置いた。
ああ、面倒くさい。
でも、従おう。
それが一番、カロリーを使わない消滅への近道だから。
僕は死んだ魚のような目で、ゆっくりと足を動かした。
ベンツのエンジン音が唸る。
重低音。ドイツ製の精密機械が奏でる、文明と勝利の凱歌だ。黒い車体は泥だらけの私道の上で、場違いなほどの輝きを放っている。まるで、腐敗した死体にたかる銀蠅の背中のように美しい。
運転席には兄貴。
助手席にはエレーナ。
窓が開いた。兄貴がサングラス越しに僕を見ている。
「じゃあな、カズオ! 業者との打ち合わせはメールで送るから見とけよ! 引っ越し、手伝えなくて悪いな!」
彼は笑っていた。
太陽光パネルで埋め尽くされた未来の丘を幻視しているのだろう。その脳内では、キャッシュフローの計算式が高速回転しているに違いない。
僕はただ頷いた。首を縦に振る。この動作だけで、数カロリーのエネルギーを消費する。無駄だ。本当は瞬き一つで済ませたい。
助手席のエレーナは、僕を見なかった。
彼女は真っ直ぐ前を見つめ、膝の上でハンドバッグを固く握りしめていた。その横顔は蒼白で、まるで何か恐ろしい伝染病から逃れようとする避難民のようだった。
彼女は知ってしまったのだ。
この家には、何よりもタチの悪い虚無が住み着いていることを。
そして、その虚無は伝染することを。
賢い女だ。逃げるが勝ちだ。都会の喧騒と、夫の空虚な愛に溺れて、この「静寂の地獄」を忘れるといい。
ブォン!
タイヤが泥を巻き上げる。
ベンツが動き出す。
遠ざかっていく。
赤いテールランプが、雪の舞う灰色の風景の中に溶けていく。
小さくなる。
見えなくなる。
音が消える。
……静寂。
完全なる、圧倒的な、愛すべき静寂が帰ってきた。
僕は一人、玄関の前に立ち尽くしていた。
雪が降り積もる。半纏の肩に、髪に、冷たい結晶が張り付く。
寒い。
凍死寸前の気温だ。だが、僕の心は奇妙なほど温かかった。
勝った。
僕はそう思った。
奴らは去った。侵略者は退散した。
契約書? 実印? 土地の権利?
そんなものは紙切れだ。法的な概念だ。ここにある「質量」と「時間」の前では、インクの染みなんて何の意味も持たない。
僕は家の中に戻った。
廊下を歩く。
ミシッ、ミシッ。
家が「おかえり」と言っている。あるいは「早く死ね」と言っている。どちらでもいい。僕たちは一蓮托生だ。
居間に戻る。
コタツがある。
スイッチを入れる。ボッ、という微かな音と共に、赤外線ランプが点灯する。
僕はそこに足を滑り込ませる。
ああ。
これだ。
腰から下が溶けていく。脊髄が液状化し、脳みそが重力に従って床に沈殿していく感覚。
僕はテーブルの上のミカンを手に取った。昨日から放置されていたやつだ。皮が少し乾燥して、茶色い斑点が出ている。
剥く。
食べる。
腐りかけの甘み。発酵臭。
うまい。
生きている味がする。いや、死んでいく味がする。
さて。
兄貴は言った。「引っ越しの準備をしろ」と。
来月には業者が来て、この家を取り壊すと。
僕はコタツに入ったまま、天井のシミを見上げる。
動く?
僕が?
馬鹿なことを言うな。僕はここから一歩も動かない。引っ越しなんてしない。荷造りなんてしない。アパートなんて探さない。
想像してみろ。
一ヶ月後、ショベルカーがやってくる。
作業員たちがドカドカと踏み込んでくる。
そこで彼らは目撃するのだ。
家具も片付けず、荷物もまとめず、廃墟のような家の中で、ただコタツに入ってミカンを食っている男を。
彼らは言うだろう。「何をしてるんですか、立ち退き期限は過ぎてますよ」と。
僕は答えない。
ただ、じっと彼らを見る。
虚ろな目で。焦点の合わない瞳で。
彼らは怒鳴るだろう。警察を呼ぶかもしれない。強制執行の手続きをするかもしれない。
どうぞご自由に。
警官が来て、僕の両脇を抱えて引きずり出そうとする。僕は抵抗しない。脱力する。七十キロの肉塊となった僕を運ぶのは、さぞかし重労働だろう。腰を痛めるかもしれない。ご愁傷様だ。
引きずり出されても、僕はまた戻ってくる。
家が壊されたら?
更地になったその場所に、僕は座り続ける。
太陽光パネルが設置されたら?
そのパネルの下、日陰の隙間に潜り込んで、僕は眠り続ける。
雨が降ろうが、雪が降ろうが、夏の日差しが照りつけようが。
僕はそこに在り続ける「シミ」になる。
どんな洗剤でも落ちない、カビのような、呪いのような、黒いシミ。
それが僕の戦い方だ。世界に対する最も消極的で、最も悪質なテロリズム。
兄貴の計算した利回りを、僕という異物が狂わせてやる。
発電効率を下げてやる。
あの土地には幽霊が出る、テコでも動かない男がいる、という噂を流して、価値を暴落させてやる。
ざまあみろ。
お前の「効率」なんて、僕の「怠惰」の前では無力だ。
ふと、視線を感じた。
押入れ。
少し開いた襖の隙間から、闇が僕を覗いている。
あそこには、昨夜投げ捨てた散弾銃がある。黒く、冷たく、重い鉄の塊。
エレーナは言った。「撃って」と。
僕は撃たなかった。でも、本当にそうか?
僕は目を閉じる。
脳内のスクリーンに、昨夜の映像が浮かび上がる。
兄貴の頭が吹き飛ぶ映像。
鮮血。脳漿。火薬の匂い。
あの瞬間、僕は確かに「殺した」のだ。
そして今も、殺し続けている。
行動しないことで。決断しないことで。未来を放棄することで。
僕は自分自身を、兄貴を、エレーナを、そしてこの世界を、ゆっくりと、時間をかけて殺している。
銃なんて必要ない。
「何もしない」ということこそが、最強の破壊兵器なのだ。引き金を引く一瞬の暴力よりも、永遠に引き金を引かないまま相手を拘束し続ける暴力の方が、遥かに残酷で、タチが悪い。
僕はまたミカンを手に取る。今度は腐っていない、綺麗なやつだ。
でも、僕が触れた瞬間、その果実は急速に老化し、酸化し、腐敗していくような気がした。僕の手はエントロピーの王の手だ。
触れるものすべてを土に還す、死神の手だ。
「……さて」
僕は独りごちる。
外は吹雪になってきたようだ。風の音が唸りを上げている。リンゴの木々は、今頃雪の重みで枝を折られているだろう。
パキッ。パキッ。
骨が折れるような音が聞こえる気がする。
痛いか? 苦しいか?
安心してくれ。助けには行かないから。
一緒に腐ろう。春が来ても芽吹かないように。根っこから腐って、ドロドロの肥料になって、この土地の一部になろう。
僕はコタツの中に深く沈み込む。
暖かさが、意識を溶かしていく。
眠い。
永遠に眠っていたい。
兄貴のベンツが遠ざかった今、この世界には僕と、腐敗と、静寂しかない。
完璧だ。これこそが、僕の求めていた楽園だ。
脳裏に、エレーナの最後の言葉が蘇る。
『あなたは虚無よ』
最高の褒め言葉だ、エレーナ。
愛していたよ。たぶん、一秒くらいは。
でも、その一秒を維持するのが面倒くさかったんだ。
僕は目を閉じた。
呼吸が浅くなる。心拍数が下がる。
僕はコタツと一体化し、家と一体化し、冬と一体化する。
僕はもう動かない。
誰が来ても。何が起きても。
この銃は、永遠に火を噴かない。
その代わり、銃口の中で腐り落ちた弾薬が、世界全体を毒していくのだ。
おやすみ、兄さん。
おやすみ、エレーナ。
おやすみ、僕の腐りゆく果樹園。
僕は深い、泥のような眠りの底へと、ゆっくりと堕ちていった。
(怠惰の章・完)




