雪の果樹園(3)
階段を上る。
一段、また一段。
僕の家の階段は、築五十年の歴史を誇る古木だ。踏みしめるたびにミシッ、ギシッと悲鳴を上げる。それはまるで、これから犯そうとしている大罪に対する家の拒絶反応であり、あるいは「早くやれ」という観客からの拍手のようでもあった。
僕の手には散弾銃。
重い。物理的に重いし、意味的にも重い。
約三キログラムの鉄と木の塊が、地球の重力を数倍にして僕の腕にのしかかる。
背後にはエレーナ。
彼女は幽霊のように足音を立てない。ただ、濃密な香水の匂いと、熱を持った吐息だけが、僕の背中を押し続けている。
これは決して共犯ではなかった。彼女はリモコンを握っている操縦者で、僕はただのドローンだ。殺意というプログラムをインストールされた、旧式でポンコツな殺人ドローン。
「……静かにね」
彼女が耳元で囁く。
わかっている。
僕は忍者のように慎重に足を運ぶ。
二階の廊下は、一階よりも寒かった。屋根に近い分、外気と直結している。冷気が肌を刺し、アドレナリンで沸騰した脳みそを強引に冷却しようとする。
突き当たりにある部屋。客間。
そこから、地響きのような音が聞こえてくる。
ゴウッ……ガガッ……プシュー……。
いびきだ。
兄貴のいびきだ。
無防備で、傲慢で、生命力に溢れた騒音。あいつは寝ている間ですら、空気を支配し、空間を占有し、「俺はここにいるぞ」と主張している。
ああ、腹が立つ。
あの音を聞いているだけで、僕の静寂への愛が傷つけられる。殺意の理由としては十分すぎる。金のためでも、女のためでもない。静かにしてほしいという切実な願いのために、僕はきっと引き金を引くのだ。
僕は襖に手を掛けた。
ゆっくりと、ミリ単位で開けていく。敷居が滑る微かな音。隙間から、常夜灯のオレンジ色の光が漏れる。
開いた。
部屋の中央、兄貴がわざわざ持参した高級な羽毛布団の中で、巨大な肉の塊が蠢いている。
エイイチ。
仰向けだ。口を半開きにして、涎を垂らしながら、幸せそうに寝ている。
その顔は、昼間の「成功者」の仮面が剥がれ落ち、ただの貪欲な中年男の素顔を晒していた。脂ぎった額。緩んだ頬。時折、ピクリと痙攣する瞼。
夢を見ているのだろうか。
太陽光パネルが地平線を埋め尽くす夢か? 通帳の桁が増えていく夢か? それとも、自分の弟に頭を吹き飛ばされる悪夢か?
僕は枕元に立つ。
距離、約一メートル。
近すぎる。
兄貴の呼気に含まれるアルコール臭が、僕の鼻を突く。生臭い。生きている臭いだ。
「……弾を」
エレーナが、僕のポケットに手を突っ込んだ。
指先が僕の腰骨に触れる。冷たい火花が散る。
彼女が取り出したのは、二発の散弾。赤いプラスチックの円筒に、真鍮のリム。まるで巨大な口紅だ。死化粧のための口紅。
彼女は無言でそれを僕に渡す。
僕は銃を中折れさせる。
カチャリ。
金属音が静寂に響く。兄貴のいびきが一瞬止まる。
心臓が跳ね上がる。
……起きない。また「ガゴッ」と音を立てて呼吸を再開した。こいつの神経図太すぎるだろ。野生なら開始五秒で捕食されてるぞ。
僕は薬室に、赤い弾薬を滑り込ませる。
ヌルリ、と入る。
恐ろしいほどスムーズだ。まるでこの銃が、十年もの間、この瞬間を待ちわびていたかのように。
銃身を戻す。ジャキン。閉鎖音。装填完了。
これで、この鉄の棒はただの置物から、命を刈り取る死神の鎌へとクラスチェンジした。
あとは、安全装置を外し、引き金を引くだけ。
指一本の労力。ミカンの皮を剥くよりも少ないカロリー消費で、目の前の人間を「物体」に変えることができる。
僕は銃口を向ける。
狙いは眉間。黒い銃口が、兄貴の脂ぎった額を見つめる。
その時だ。
僕の視界が、またしてもバグを起こした。
ぐにゃり。
兄貴の顔が歪んだ。
常夜灯の薄暗い光の中で、兄貴の顔が変形していく。
目が四つに増え、口が裂け、鼻が豚のように上を向く。
いや、違う。
兄貴の顔が「風景」に見えてきた。
あの額は、コンクリートで固められた地面だ。
あの目は、監視カメラのレンズだ。
あの口は、すべてを飲み込むトンネルだ。
あいつは人間じゃない。「開発」という名の怪物であり、「効率」という名の悪魔だ。僕の平穏な腐敗を脅かす、システムそのものだ。
殺せ。
システムを破壊しろ。
バグを修正しろ。
脳内の指令室で、警報が鳴り響いている。
ターゲットロック。発射準備完了。カウントダウン開始。3、2、1……
エレーナが、僕の背中に密着する。
彼女の手が、僕の手に重なる。
彼女の人差し指が、僕の人差し指の上に乗る。
引き金へ。
「やって」
彼女は囁く。吐息が耳の中に入り込み、脳髄を犯す。
「全部終わらせて。全部壊して。そして私を連れて行って」
引き金にかかる指に、力がこもる。
遊びの部分が引かれ、あとはクリティカルな一点を超えるだけ。
ほんの数ミリ。
紙一枚分の距離。
その瞬間、僕の脳内で、とてつもない閃光が走った。
ドン!
撃った。
撃ってしまった。
あまりにもリアルなトリップ。
爆音で鼓膜が破れる。
銃口から噴き出すマズルフラッシュが、部屋を一瞬だけ真昼のように照らす。
兄貴の頭部がザクロのように弾ける。
赤い霧。白い骨片。灰色の脳漿。
それらがスローモーションで飛び散り、天井に、壁に、そして僕とエレーナの顔に降り注ぐ。
熱い。
血が熱い。
鉄の臭い。硝煙の臭い。排泄物の臭い。
兄貴だった肉塊が、ビクンビクンと痙攣し、やがて動かなくなる。
静寂。
圧倒的な静寂。
いびきが消えた。世界からノイズが消えた。
やった。
僕は守ったのだ。僕のコタツを。僕の眠りを。
しかし、次の瞬間、新たなノイズが脳内を駆け巡る。
サイレンの音。
パトカー。警察無線。「マル害一名、確保」。
取調室の眩しいライト。裁判。刑務所の冷たい床。
そして何より──「死体の処理」という、とてつもなく面倒くさい作業のイメージ。
重い死体を運ぶ労力。
血のついた畳を張り替える労力。
警察に事情を説明する労力。
刑務所で毎朝6時に起こされる労力。
あ、無理。
一気に醒めた。
脳内の僕は、血まみれの銃を放り投げて叫んだ。「めんどくせえ!」と。
殺人という行為のコストパフォーマンスが悪すぎる。
一瞬の快楽のために支払うエネルギー代償が、僕の許容範囲を数億倍オーバーしている。
こんなことなら、太陽光パネルの下で日陰になって寝ていたほうがマシだ。
現実に戻る。
視界の歪みが収束する。
目の前には、まだ無傷の兄貴が、相変わらずマヌケな顔で寝ている。
銃口はまだ眉間を向いている。指は引き金にかかったままだ。
背中にはエレーナの熱。
「……カズオさん?」
エレーナが怪訝そうに囁く。
なぜ撃たないのか、と。
指に力が入っているのに、なぜ最後の壁を越えないのか、と。
僕は汗だくだった。
動いていないのに、フルマラソンを完走した直後のように息が切れている。
脳内での殺人と、その後の事後処理シミュレーションで、僕はもうクタクタだった。
精神的な疲労骨折。
重い。
銃が、山のように重い。
指が、鉛のように動かない。
「……重い」
僕は掠れた声で呟いた。
「なに?」
「重いんだよ。これが。あいつの命が。これからの人生が。全部、重すぎて持てない」
僕は銃口を下ろした。
ガクンと膝が折れそうになる。
殺意が、急速に冷却されていく。怠惰という名の巨大な氷河が、僕の衝動を押しつぶしていく。
「嘘でしょ……」
エレーナが息を呑む。
彼女の目から、期待の色が消え、軽蔑と、そして深い絶望の色が浮かび上がる。
「撃たないの? ここまできて? 弾まで込めて?」
「ああ。撃たない」
僕は銃のレバーを操作し、ブレイクする。
ポン、と音を立てて、未使用の赤い弾薬が飛び出した。それが畳の上に転がる。コロン、コロン。乾いた音が、僕の敗北、あるいは勝利を告げる。
「なんでよ!」
エレーナが叫んだ。小声だが、悲鳴に近い。
彼女は僕の胸を叩いた。
「意気地なし! 役立たず! このカビ野郎!」
「……悪かったな」
僕は銃を杖代わりにして立ち尽くす。
兄貴が、うるさそうに寝返りを打った。んご……あー……。
それでも起きない。この平和ボケした豚め。お前は今、一度死んで、生き返ったんだぞ。感謝しろ。
僕はエレーナを見た。
彼女は泣いていた。美しい涙だった。退屈な日常を破壊してくれるはずの爆弾が不発に終わったことへの、純粋な失望の涙。
僕は思った。この涙を拭いてやりたい。抱きしめてやりたい。
でも、手を伸ばすのさえ、億劫だった。
「寝るよ。疲れた」
僕は銃を引きずりながら、部屋を出ようとした。エレーナは畳に崩れ落ち、赤い弾薬を握りしめて震えていた。
その背中は、僕が撃ち殺した(脳内で)兄貴の死体よりも、ずっと悲惨に見えた。
でも、僕は止まらない。コタツが僕を呼んでいる。早くあの赤外線の海に帰らなければ。そこで腐敗の続きをしなければ。
僕は、動かない男に戻るんだ。




