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愛の致死量  作者: 藤堂虎太郎
怠惰の章
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雪の果樹園(2)

 この家における夜とは、単に太陽が沈む現象ではない。闇という粘度の高い黒い液体が、天井の隙間からドロドロと染み出し、部屋全体を水槽のように満たす物理現象だ。

 その水槽の中で、僕たちは酒を飲んでいる。

 兄貴が持ってきたウイスキー「響」。名前が気に入らない。静寂を愛する僕の家に、音を響かせるな。

 対する僕は、近所のスーパーで買った紙パックの焼酎だ。甲類。アルコール度数25%の化学薬品。

「……でだ。このスキームなら、利回りが実質12%なんだよ。わかるかカズオ? リンゴなんて作ってもリスクしかない。台風が来たら全滅、虫が湧いたら全滅。ハイリスク・ローリターンだ。だが、太陽光は違う。太陽は裏切らない。お前が寝てても、チャリンチャリンと金が落ちてくる」

 兄貴の顔が赤く上気している。彼は喋り続けている。もう二時間だ。

 スキーム。アセット。サステナブル。彼が吐き出すカタカナ語が、部屋の空気を汚染していく。僕はコタツに入ったまま、紙コップの焼酎をあおる。

 うるさい。

 兄貴の声は、工事現場のドリルの音に似ている。建設的で、前向きで、破壊的だ。

 太陽光パネル?

 脳内でシミュレーションする。僕の果樹園が、あの無機質な板で埋め尽くされる光景。土の匂いが消え、草の呼吸が止まり、シリコンと金属の焦げる匂いが充満する。

 そこには「死」がある。

 僕が愛する静かな腐敗としての死ではなく、管理された、無菌の、プラスチックのような死だ。

 絶対に嫌だ。

 でも、僕は反論しない。へえ、すごいな、なるほどね。省エネモードの相槌BOTと化して、嵐が過ぎ去るのを待つ。貝になるんだ。硬い殻に閉じこもって、外界の刺激をシャットアウトするんだ。

「お前、聞いてんのか?」

 兄貴が苛立ったようにグラスを置いた。氷がカランと鳴る。

「聞いてるよ。太陽は偉大だ。ラー万歳」

「ふざけてんのか」

「真面目だよ。で、いつ工事が始まるんだ?」

「契約さえ済めば来月からだ。だからカズオ、お前は早く次の住処を探せ。紹介してやるから」

 来月。

 タイムリミットが設定された。僕の停滞生活における余命宣告だ。

 あと三十日。三十日後には、ショベルカーという名の鉄の爪が、この家の柱をへし折り、コタツを粉砕し、僕を冬の空の下へ放り出すわけだ。


 ああ、殺すか。


 脳内のAIが、冷静に提案してくる。


『プランBを実行しますか? ターゲット、実兄。凶器、テーブルの上のウイスキー瓶。方法、撲殺。成功率、65%』


 悪くない。

 今、兄貴は酔っ払って無防備だ。あの重たいガラス瓶で後頭部をフルスイングすれば、頭蓋骨はスイカみたいに割れるだろう。中から飛び散るのは果汁ではなく、資本主義と欲望の詰まった脳味噌だ。

 僕はウイスキー瓶に手を伸ばす──幻覚を見た。現実は、自分の焼酎のパックを掴んで、トクトクと注ぎ足しただけだ。

 ああ、重い。

 殺意の質量に対して、僕の筋力が追いついていない。

「あら、飲み過ぎじゃないですか? エイイチさん」

 エレーナが、鈴を転がすような声で割って入った。

 彼女は飲んでいない。ずっと烏龍茶だ。だが、その瞳はアルコールよりも強く酔っているように見える。あるいは、退屈という毒に侵されているのか。

 彼女は立ち上がり、兄貴の背後に回ると、その肩を揉み始めた。

「あなた、疲れてるのよ。こんな田舎まで運転してきて、熱く語って。少し横になったら?」

「ん……まあ、そうだな。酔いが回ったわ」

 兄貴は大きなあくびをした。警戒心ゼロだ。この女が自分の首を絞めるかもしれないなんて、微塵も疑っていない。幸せな男だ。想像力が欠如しているというのは、幸福の必須条件だからな。

「カズオさん、お布団はどちらに?」

「……二階だ。客間がある」

「ありがとうございます。運んでおきますね」

 エレーナは兄貴の腕を取り、引きずるようにして立ち上がらせた。

 兄貴はよろめきながら、「カズオ、契約書は明日判子押せよ」と言い残し、部屋を出て行った。

 静寂が戻ってきた。


 いや、違う。

 兄貴というノイズ源が消えたことで、別の「音」が聞こえ始めた。

 衣擦れの音。

 遠くで鳴る風の音。

 そして、僕自身の心臓の音だ。ドクン、ドクン。不整脈気味のビートが、コタツの中で反響している。


 十分後。

 エレーナが戻ってきた。

 一人で。

 彼女は部屋に入ると、ピシャリと襖を閉めた。密室の完成だ。そして、兄貴が座っていた座布団ではなく、僕のすぐ隣──コタツの右辺に腰を下ろした。

 近い。

 香水の匂いが津波のように押し寄せてくる。

 ムスク。ジャスミン。そして微かな獣臭。

「……寝たわよ。あの豚」

 彼女は言った。

 声のトーンが一段階下がっている。女優が舞台裏で見せる素顔の声だ。

「豚?」

「ええ。食べて、飲んで、金の話をして、寝る。豚以外の何に見えるの?」

 彼女は僕の紙コップを取り上げ、残っていた焼酎を一気に飲み干した。

 間接キス? そんな甘酸っぱいもんじゃない。これは「共有」だ。共犯関係の樹立だ。彼女の唇についた赤いルージュが、紙コップの縁にべっとりと付着している。まるで血痕みたいだ。

「ねえ、カズオさん。あなた、本当はこの家を売りたくないんでしょ?」

「……面倒なだけだ」

「嘘つき。目が言ってるわ」

 エレーナは僕の顔を覗き込む。その瞳は、深海のように暗く、冷たく、そして熱い。

 彼女の手が、コタツ布団の下に滑り込んでくる。僕の太ももの上に、冷たい指先が這う。

 ゾワリと鳥肌が立つ。これは誘惑か? セックスの誘いか?

 違う。そんな生易しいものじゃない。彼女は僕の「機能」を確かめているのだ。この男は勃つのか、それとも本当にただの死肉なのか。

「知ってるのよ。この家のどこかに、アレがあるって」

「アレ?」

「お義父さんの、猟銃」

 心臓が止まるかと思った。

 なぜそれを知っている?

 親父が死んで十年。あの銃は、警察に返納手続きをするのが面倒くさくて(怠惰ゆえの犯罪だ)、ずっと押入れの奥に隠してある。

 違法所持。銃刀法違反。

 僕がこの世で唯一持っている、社会に対する「牙」だ。

「エイイチが言ってたわ。親父は狩猟が趣味だったって。昔はよくカモを撃ってたって」

「……ああ」

「見せて」

「は?」

「見せてよ。本物の銃を」

 エレーナの目がギラリと光った。

 彼女は僕の太ももを爪が食い込むほど強く掴んだ。

「私、退屈で死にそうなの。東京も、タワマンも、ブランドの服も、空っぽな愛も、全部プラスチックみたいで味がしないの。ねえ、リアルを見せて。鉄と、火薬と、油の匂いがする、本物の銃を」

 狂っている。

 この女は、僕以上に壊れている。

 兄貴は彼女をトロフィーワイフだと思っているだろうが、とんでもない。彼女は爆弾だ。安全ピンが抜けかけた、美しい人体爆弾だ。

 断るべきだ。そんなものないよ、と言って、寝たふりをするべきだ。

 だが、僕の身体は──あの呪わしい「動かない」という戒律を破って──動いた。

 彼女の熱量に感染したのかもしれない。あるいは、僕の中の怠惰が、一周回って「拒絶するのすら面倒くさい、言う通りにした方が早い」と判断したのか。

 僕はコタツから這い出した。

 立ち上がると、眩暈がした。久しぶりの直立姿勢に、脳への血流が追いつかない。

 僕はふらつく足で押入れへ向かい、一番奥の襖を開けた。カビ臭い布団の山。その奥に、黒い革のケースが眠っている。

 十年分の埃を被った、パンドラの箱。


 ズシリ。

 重い。


 引きずり出すと、床板がミシリと鳴った。

 エレーナが背後から近づいてくる。彼女の吐息が、僕の首筋にかかる。

「開けて」

 僕は震える手で、留め金を外した。

 パチン。パチン。乾いた音が、静寂を切り裂く。

 蓋を開ける。

 そこには、冷たい美獣が眠っていた。

 上下二連式の散弾銃。

 黒光りする銃身。磨き込まれた木のストック。

 手入れなんてしていないのに、それは奇妙なほど美しく、そして禍々しかった。

 時が止まっている。

 この銃だけが、腐りゆくこの家の中で、唯一「死んでいない」存在のように見えた。

「……美しい」

 エレーナが嘆息した。

 彼女は僕を差し置いて、その冷たい銃身に指を這わせた。

 まるで恋人の肌を愛撫するように。

 そして、彼女は顔を上げ、僕を見た。

 その瞳孔が開いている。

「ねえ、カズオさん。弾は?」

「……ある。別の箱に」

「撃てるの?」

「さあ。湿気ってるかもしれない」

「試してみましょうよ」

 彼女は言う。

 今夜の天気の話でもするみたいに、軽やかに。

「撃ちましょうよ。この腐った世界のど真ん中で」

 僕の脳内で、再びフィルムが回る。

 今度はもっと鮮明だ。

 僕はこの銃を手に取り、二階へ上がる。

 眠りこける豚の部屋へ入る。

 枕元に立つ。

 銃口を向ける。

 引き金を引く。

 ドォォォォン!

 爆音。閃光。飛び散る肉片。

 それで終わりだ。

 土地の売却話も、立ち退きの期限も、兄貴の自慢話も、すべて吹き飛ぶ。

 残るのは、僕と、この共犯者の女と、静寂だけ。

 手の中の銃が、熱を帯びてくるような錯覚を覚えた。


 撃ちたい。

 撃ちたくない。

 動きたい。

 動きたくない。


 二つの相反する衝動が、僕の中でショート寸前の火花を散らしている。

 エレーナが僕の手を取り、その銃のグリップを握らせた。彼女の手は熱く、僕の手は死人のように冷たかった。


「カズオさん。引き金は、軽いほうがいいわよ」


 彼女は悪魔のように囁いた。

 外では雪が激しくなり、風が窓ガラスをガタガタと揺らしていた。

 それはまるで、家全体が「やれ」と急かしているような、あるいは「やめろ」と震えているような音だった。

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