雪の果樹園(1)
僕はコタツの一部だ。
比喩ではない。生物学的な事実として、今の僕は暖房器具と融合したキメラである。
腰から下は赤外線の海に浸り、細胞のひとつひとつが熱エネルギーを貪るだけの単細胞生物へと退化している。僕の血管はコタツのコードと直結し、僕の心臓はこの正方形の天板の下にある発熱体だ。
だから、動けない。
動くわけがない。
植物が土から根を引き抜いて散歩に行かないのと同じ理屈だ。ここが僕の土壌であり、世界の全てであり、墓場なのだから。
窓の外では、雪が降っているらしい。
らしい、というのは、僕がもう三日ほど雨戸を開けていないからだ。隙間風の音と、湿度と、なんとなくの空気の重さでわかる。ここは日本の北の果て、果樹園という名の植物の死体置き場。
かつて祖父が植え、父が守り、そして僕が「見ている」だけのリンゴの木々は、いまごろ雪の重みで枝を折られているかもしれない。
でも、僕は動かない。
かわいそうに。痛いだろうな。冷たいだろうな。脳内では、僕は長靴を履き、スコップを担ぎ、雪の中をラッセルして木々の雪下ろしをしている。汗を流し、白い息を吐き、「大丈夫か」と木の幹を撫でる心優しき守り人。完璧なシミュレーションだ。解像度4Kの労働映像。
しかし現実の僕は、コタツの天板の上にあるミカンの皮を、爪でちまちまと剥いているだけだ。
黄色い飛沫が飛ぶ。酸っぱい匂いが、部屋に充満したカビと埃の匂いに混ざる。このミカンも、うちの畑で取れたやつだ。収穫時期を逃して地面に落ち、腐りかけていたのを拾ってきた。甘みよりも発酵したアルコールの味がする。
うん、うまい。腐敗の味がする。僕も腐っているから、共食いだ。
「──おい、カズオ。いるんだろ?」
玄関でドンドンと扉を叩く音がした。暴力的な音だ。静寂を乱暴に破壊する野蛮なノイズ。
誰が来たかはわかっている。エンジンの音が違う。あんな下品な低音を響かせる車は、この過疎集落には一台しか存在しない。
兄貴だ。
東京で成功し、ITだかコンサルだか知らないが、とにかく「虚業」で大金を稼いでいる、僕の血縁上の兄。
エイイチ。
名前を呼ぶだけで口の中に砂を噛んだようなジャリジャリした不快感が広がる。
「カズオ! 開けろよ。車が見えてんだぞ」
帰れよ。
僕はミカンの白い筋を丁寧に取り除きながら思う。どうせまた、「親父の法事」だの「土地の権利書」だの、面倒くさい手続きの話をしに来たんだろ? あるいは、このボロ屋と果樹園を売っ払って老人ホームの資金にしようとか、そういう建設的で吐き気のする提案か?
僕は動きたくないんだ。
このコタツから一ミリでも出れば、そこはマイナス五度の極寒地獄だ。エネルギー保存の法則に反する。エントロピーの増大に加担したくない。僕は宇宙の熱的死を遅らせるために、ここでじっとしているエコ活動家なんだ。
だが、兄貴はしつこかった。
ドンドンドンドン!
扉が悲鳴を上げている。鍵なんて掛けていない。どうせ盗まれるものなんてない。入ってくればいいのに、都会人は「ノックをして許可を得る」という儀式を経ないとテリトリーに侵入できない病気にかかっているらしい。
「ちッ……」
僕は舌打ちをした。
これは「移動」のための予備動作だ。舌打ちの反動を利用しないと、重力に逆らえない。
僕はコタツ布団をのろのろと押しのけ、四つん這いになり、ナマケモノが木から降りるような速度で玄関へと向かった。
廊下が冷たい。足の裏が氷の上を歩いているみたいだ。
死ぬ。このままでは凍死する。玄関までの五メートルが、アマゾン川の流域くらい長く感じる。
ガラララ……。
錆びついた引き戸を開けると、そこには「成功」という概念が服を着て立っていた。キャメルのロングコート。整えられた髪。健康的に日焼けした肌。そして背後には、泥だらけの私道に似つかわしくない、ピカピカの黒いベンツ。
エイイチだ。
相変わらず、無駄にエネルギー効率の良さそうな顔をしている。
「おっそいんだよ、カズオ。冬眠してんのか?」
「……似たようなもんだよ」
僕は掠れた声で答えた。三日ぶりに声帯を使ったから、錆びついた蝶番みたいな音がした。
「ほら、入るぞ。寒いんだよここは」
兄貴はズカズカと上がり込んでくる。土足で上がりそうな勢いだ。そして、兄貴の背後から、もう一人の人物が現れた。
「──お邪魔します」
その瞬間、僕の視界の彩度が、強制的に引き上げられた。
世界がバグったのかと思った。 灰色と茶色と白しかなかった僕の視界に、鮮烈な「赤」が飛び込んできたからだ。
赤いリップ。赤いネイル。透き通るような白い肌に、亜麻色の長い髪。
年齢は二十代半ばだろうか。兄貴とは一回り以上違う。女優? モデル? いや、そんなチャチな肩書きじゃ収まらない。
彼女は、生命力の塊だった。
立っているだけで周囲の空気が振動し、雪が溶け、枯れ木に花が咲きそうな、圧倒的な「陽」のオーラ。
「紹介するよ。妻のエレーナだ」
兄貴が得意げに言った。
エレーナ。
日本人離れした名前だが、顔立ちは日本人だ。あるいはハーフか。どうでもいい。名前なんて記号だ。
重要なのは、彼女が僕を見たということだ。
その大きな瞳が、ボサボサ頭で、半纏を着て、無精髭を生やした、コタツの妖怪みたいな僕を捉えた。
通常なら、蔑みの目を向けるはずだ。あるいは、汚いものを見る目か、同情か。
だが、違った。
彼女の目は、僕の奥底にある「空虚」を見つめ、そしてほんの一瞬だけ──「助けて」と言った。
……は?
今、なんて?
声には出していない。ただ、瞳孔の収縮と、口元の微かな震えが、モールス信号のように僕の脳髄に直接メッセージを叩き込んできたのだ。
──この男は退屈なの。
──この「成功」という名の金メッキの檻から、私を連れ出して。
──あなたなら、できるでしょ?
ドクン。
僕の心臓が、不愉快なほど大きく跳ねた。
脳内で、シナプスがスパークする。
アクション映画の開幕だ。
(脳内シミュレーション・スタート)
僕は電光石火の速さで玄関の傘立てに隠してある散弾銃(親父の形見だ)を取り出す。ジャキッ! 装填音。兄貴が驚愕の表情で振り返る。
「カ、カズオ、何を……」
ズドン! 問答無用。兄貴の眉間に風穴が開く。スローモーションで倒れ込むキャメルのコート。鮮血が雪の上に赤い薔薇を咲かせる。エレーナが悲鳴を上げる? 違う、彼女は微笑むのだ。僕は硝煙の匂いを纏ったまま、彼女の手を取る。
「行くぞ、エレーナ」
「ええ、私の英雄」
僕たちは兄貴のベンツに乗り込む。キーは死体から奪った。アクセル全開。後輪が泥を巻き上げ、僕たちはこの腐った果樹園を背に、地平線の彼方へと脱出する──!
(シミュレーション・終了)
完璧だ。
オスカー賞ものの脚本だ。血沸き肉踊る、愛と暴力の逃避行。
素晴らしい。ブラボー。スタンディングオベーション。
で、現実は?
「……どうも。弟のカズオです」
僕はペコリと頭を下げた。
銃なんて取り出さない。そもそも傘立てには壊れたビニール傘しか入っていない。
兄貴を撃つ? 面倒くさい。死体の処理はどうする? 警察への言い訳は? ベンツの運転なんてしたことない。ガソリン代は誰が払うんだ。
無理だ。
カロリーが高すぎる。
そんな大それたことをするくらいなら、僕はここで窒息死したほうがマシだ。
「初めまして、カズオさん。お噂はかねがね」
エレーナが微笑んだ。
その笑顔は、完璧に訓練された「良き妻」の仮面だった。さっきの「助けて」というシグナルは、僕の妄想だったのか?
いや、違う。
彼女が靴を脱いで上がる時、すれ違いざまに、ふわりと香水の匂いがした。その匂いは、腐ったミカンの酸っぱい臭気とは正反対の、甘く、毒々しい、都会の夜の匂いだった。その匂いが、僕の鼻腔をくすぐり、脳の奥にある「やる気スイッチ」的なものをカチリと押した気がした。
もちろん、スイッチは錆びついているから、火花が散っただけで起動はしなかったけれど。
「とりあえず上がってくれ。何もないけど」
僕は二人を居間へと案内した。
居間には、僕の本体であるコタツが鎮座している。天板の上には、食べかけのミカンと、飲みかけのぬるいお茶と、読みかけのチェーホフの戯曲集が散乱している。
兄貴が顔をしかめた。
「相変わらず汚ねえ部屋だな。カビの胞子が舞ってんぞ」
「このカビが、俺の免疫を鍛えてくれてるんだよ」
「屁理屈だけは達者だな」
兄貴は持参した高級そうな菓子折りをドンと置いた。
エレーナが、汚れた座布団に躊躇なく座る。その白いスカートが埃で汚れるのを、僕は他人事のように眺めていた。
「で、何の用?」
僕はコタツの中に戻り、定位置に足を突っ込んだ。
ああ、暖かい。
これだ。このぬるま湯こそが僕のサンクチュアリだ。兄貴と美女と、アクション映画の幻覚。そんな異物は、この平和な腐敗空間には必要ない。さっさと用件を済ませて、帰ってくれ。僕は眠いんだ。生まれてからずっと、骨の髄まで眠いんだよ。
「用件か。単刀直入に言うぞ」
兄貴は、エレーナの肩に馴れ馴れしく腕を回しながら言った。所有権の主張だ。品がない。
「この家と果樹園、売ることにしたから」
……ん?
僕は剥きかけのミカンを落とした。
売る?
ここを?
僕のコタツを? 僕のカビを? 僕の腐りゆく王国を?
「買い手がついたんだ。太陽光発電の業者が、土地ごと欲しがってる。悪くない値だぞ。カズオ、お前もいつまでもこんな幽霊屋敷で引きこもってないで、アパートでも借りて自立しろ。引っ越し代と当面の生活費くらいは出してやる」
兄貴の言葉は、正論だった。合理的で、経済的で、未来的だ。このままここにいても、家は朽ち果て、果樹園は荒れ地になり、僕は孤独死して白骨化するだけだ。
だから、兄貴は正しい。
でも、と僕は思う。
僕がここを出ていったら、誰がこの「停滞」を守るんだ? 誰が、雨戸の隙間から入る光の角度で時間を計るんだ? 誰が、夜中に軋む柱の声を聞いてやるんだ? 動かないことにも、才能が必要なんだ。変化を拒絶し、風化に耐え、ただそこに「在る」という石のような意志。それは、兄貴みたいな動き回るマグロには理解できない崇高な使命なんだよ。
反論しようとした。
「ふざけるな」と怒鳴り、テーブルをひっくり返し、兄貴の胸ぐらを掴むシーンを脳内で再生した。
しかし、実際に出た言葉は、
「……あ、そう」
それだけだった。
面倒くさい。
怒るのにはエネルギーがいる。怒鳴るには腹筋がいる。僕は諦めのため息をつき、落ちたミカンを拾って口に入れた。埃の味がした。
その時だ。
エレーナが、テーブルの下で、足先を動かした。彼女の爪先が、コタツの中で無防備に投げ出された僕の足の甲に、コツンと当たった。
偶然? いや、違う。
彼女はそのまま、ゆっくりと、僕の足をグリグリと踏みつけた。
痛み。
そして、ゾクリとするような快感。
顔を上げると、エレーナは兄貴の話に「ええ、そうですわね」と相槌を打ちながら、目だけで僕を見ていた。
その目は笑っていなかった。それは、飢えた獣の目だった。
──怒りなさいよ。
──奪われたくないなら、奪い返しなさいよ。
──撃ち殺してでも、守りなさいよ。
彼女の視線が、僕の思考の澱を掻き回す。
やめてくれ。
僕を煽るな。僕に期待するな。
僕はワーニャ伯父さんじゃない。絶望して拳銃自殺を図るような情熱すらない、ただの動かない肉なんだ。
でも。
コタツの中で踏みつけられた足の痛みだけが、僕に「お前はまだ生きている」と告げていた。
僕の脳内の映写機が、再び回り始める。
今度の映画は、もっと過激だ。兄貴を殺すだけじゃない。この家ごと燃やす。業火の中で、僕とエレーナだけが笑っている。
ああ、忙しい。
身体は指一本動かしていないのに、脳みそだけがフルマラソンをしているみたいだ。
僕は熱くなった額を、冷たいテーブルに押し付けた。
長い夜になりそうだった。




