聖女の救済に関する論理的証明(5)
翌日の正午。
天頂に座した太陽が、地上のあらゆる汚濁を無慈悲なまでに暴き立てる、白日の刻。
俺は秋葉原の雑踏の中に立っていた。睡眠? 否、そのような生物的なメンテナンスは不要だ。昨夜から続くインターネット上の炎上という名の祝祭、その電子の海で渦巻く数万の呪詛と罵倒が、逆説的に俺の細胞の一つ一つに灼熱の活力を注入し続けているからだ。スマートフォンを握る掌が熱い。通知は止まらない。俺の網膜には、現実の景色に重なるようにして、滝のように流れるテキストの幻影が焼き付いている。死ね、犯罪者、キモい。それらは凡俗な大衆が、俺という異物が放つ強烈な真理のレーザーに目を焼かれ、恐怖のあまり投げつけてくる石礫に過ぎない。彼らの悲鳴こそが、俺が世界の核心を鋭利なメスで切り裂いたことの何よりの証左である。
俺は歩き出す。アスファルトからの照り返しが、陽炎となって視界を揺らす。世界が歪んでいる。いや、違う。俺の知覚が鋭敏になりすぎた結果、物質の輪郭が意味をなさなくなり、その奥にある醜悪な構造が剥き出しになっているのだ。信号機の赤が、りりちゃの流した血涙に見える。ビルのガラス窓が、俺を監視する無数の眼球に見える。すべてのノイズが、俺への賛美歌と罵倒の混成合唱となって鼓膜を震わせる。
目的地はただ一つ。聖女りりちゃが幽閉されている天空の城郭。
俺は昨夜の啓示によって理解した。ネットという仮想空間での言論戦、あるいは精神的な干渉だけでは不十分だ。肉体を持った悪魔たちが、物理的に彼女を拘束し、その美しき魂を磨耗させている以上、俺もまた物理的な実力行使によって彼女を奪還せねばならない。
雑居ビルの前に到着する。
エレベーターホール。そこは現世と聖域を分かつ境界線だ。
だが、今日の門番は、いつもの無気力なアルバイト店員ではなかった。
数人の男たちが立っていた。
店長。そして、その周囲を固める三人の若者。
パーカー、チノパン、整えられた髪、清潔感のあるスニーカー。
量産型だ。
どこにでもいる、個性の欠片もない、大学のキャンパスに大量発生する凡人の群れ。その中心に、見覚えのある顔があった。
ケント。
あのオークだ。
彼らは俺の姿を認めると、一斉に壁のように立ちはだかった。暴力の匂いはない。だが、そこにはもっと陰湿で、粘着質な正義の連帯があった。
「タカユキさん、ですね」
ケントが一歩前に出た。その声は震えているが、瞳には「自分は正しいことをしている」という陶酔が宿っている。
「僕が、リコの彼氏のケントです。……お願いですから、もうリコに近づかないでください。彼女、怖がって震えてるんです」
──怖がっている。
──お願い。
俺の脳内で、冷徹な笑いが漏れる。
滑稽だ。あまりにも滑稽だ。
見ろ、この数を。一対四。
彼らは、たった一人の賢者を前にして、徒党を組まなければ対峙することすらできないのだ。これは民主主義という名の暴力だ。多数決で真実を押しつぶそうとする、衆愚政治の縮図だ。彼らは自分たちが善良な市民の仮面を被っていると信じているが、その実態は、異物を排除するために集まったイナゴの大群に過ぎない。
「近づかないでくれ、とは奇妙な論理だね」
俺は努めて紳士的に、しかし絶対零度の軽蔑を込めて告げる。
「僕は彼女の顧客であり、精神的な指導者だ。君たちのような、スターバックスの新作とサークルの飲み会くらいしか話題がない連中と一緒にしてほしくないな。彼女が震えている? 当然だ。君たちが彼女を『凡庸』という檻に閉じ込め、翼をもごうとしているからだ。彼女の魂が窒息しかけている震えを、恐怖と履き違えるな」
「あんた、何言ってるんだよ!」
ケントの友人の一人が声を荒らげた。
「リコちゃんが泣いてるんだよ! あんたのポストのせいで! ストーカーだって自覚ないのかよ!」
「落ち着け、手は出すなよ」
店長が若者たちを制する。そして、氷のような目で俺を見た。
「タカユキさん。ここは店だ。俺には管理権がある。はっきり言わせてもらう」
店長は、死刑宣告書を読み上げる裁判官のように告げた。
「当店は、今後一切、あんたの入店を拒否する。出入り禁止だ。それから、警察には既に相談済みだ。被害届の準備も進めてる。あんたがやってることは、盗撮、住居侵入、脅迫……立派な犯罪なんだよ。次、店の周りをうろついたり、りりちゃに接触しようとしたりしたら、即刻逮捕してもらう」
──出禁。
──警察。
──逮捕。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
俺の視界の中で、彼らの顔が溶け出し、のっぺらぼうの怪物へと変貌していく。
ああ、汚い。
なんて卑劣なんだ。
彼らは暴力を振るわない。殴りもしないし、蹴りもしない。
その代わりに、法律やルールや常識という、凡人が発明した最強の暴力装置を使って、俺を殴りつけてきているのだ。
自分たちは安全圏に身を置き、手を汚さず、国家権力という虎の威を借る狐。
数が多ければ正義なのか? ルールに従えば愛など不要なのか?
俺の胸の奥で、ドス黒いマグマが噴出した。
叫び出したい衝動。
(違う! 俺はストーカーじゃない! 俺は救済者だ! 犯罪? ふざけるな、愛は法律の上位概念だ! お前らが彼女を洗脳している誘拐犯じゃないか!)
だが、俺の口から出た言葉は、裏腹に冷静な、しかしひどく弱々しいものだった。
「……警察、ですか。なるほど。権力に頼るわけですね。議論で俺に勝てないからといって、国家権力を持ち出すとは……実に、君たちくらしく浅ましいやり方だ」
俺は一歩、後ずさる。
逃げるのではない。
彼らの放つ「凡俗の瘴気」が濃すぎて、呼吸ができなくなりそうだったからだ。
ケントが、悲しそうな、それでいて勝ち誇ったような目で俺を見ている。
「わかってください。リコは、普通の女の子なんです。普通の幸せを求めてるんです。あんたの妄想につきあわせないでください」
普通の幸せ。
その単語が、俺の脳髄を貫く銃弾となった。
普通の幸せだと?
サイゼリヤで食事をし、ディズニーランドで列に並び、安アパートで妥協のセックスをし、ローンを組んで死んでいく、あの家畜のような生のことか?
お前は、俺の聖女を、その泥沼に引きずり込むと宣言したのか?
殺意。
純粋培養された殺意が、視神経を焼き切る。
だが、ここで暴れるわけにはいかない。
彼らは罠を張っている。「警察」というカードを切ったということは、俺が少しでも手を出せば、即座に社会的に抹殺する準備ができているということだ。
卑怯者め。
臆病者め。
一対一の魂のぶつかり合いから逃げ、システムの後ろに隠れる虫けらどもめ。
「……わかった。話は通じないようだな」
俺は踵を返す。
背中越しに、彼らの安堵の溜息が聞こえる。
勝ったと思っているのか?
追い払ったと思っているのか?
愚か者ども。お前たちは今、パンドラの箱の最後の蓋を、自らの手でこじ開けたのだ。
俺は雑踏へと戻る。
足元が定まらない。地面が腐ったスポンジのように不快な柔らかさで沈み込む。
空を見上げると、太陽が黒く壊死し、そこから無数の鎖が垂れ下がっているのが見えた。
あれが「常識」だ。あれが「法律」だ。
あの鎖が、りりちゃの手足に絡みつき、彼女を窒息させている。
(うるさい、うるさい、うるさい!)
街中の雑音が、俺を責め立てる裁判官の怒号となって響く。
通行人の笑い声が、「キモい」「犯罪者」「孤独な中年」という具体的な嘲笑に変換されて脳髄に直接流れ込んでくる。
違う。俺は違う。俺は選ばれし者だ。
出禁? ふざけるな。あそこは俺の城だ。俺が課金して維持してきた聖域だ。それを、ぽっと出のアルバイトと、性欲だけの大学生が、俺から奪う権利がこの宇宙のどこにある?
これは略奪だ。
精神的財産の不当な侵害だ。
彼らは善良な顔をして、集団で俺をリンチしたのだ。
「普通の女の子」?
ふざけるなふざけるなふざけるな。
彼女は特別だ。俺が見出した原石だ。それを「普通」に加工して市場に流そうとするなど、文化的な破壊行為だ。タリバンが石像を破壊するのと何が違う?
俺の意識が、肉体から剥離していく。
自分を俯瞰で見ている。秋葉原をふらふらと歩く、猫背の男。だが、その内面では、宇宙創成に匹敵するエネルギーが渦巻いている。
言葉は無力だ。
あいつらには、高尚な日本語が通じない。
「法律」という壁に守られた彼らに、俺の声を届けるにはどうすればいい?
壁を壊すしかない。
物理的に。
徹底的に。
俺はホームセンターの看板に吸い寄せられる。
自動ドアが開く音が、天国の門が開くファンファーレに聞こえる。
冷房の風が、火照った脳を冷やす。
思考が、不気味なほどクリアになる。
感情のノイズが消え、目的だけがクリスタルのように透明に輝き出す。
工具売り場。
そこに並ぶ無骨な鉄の塊たちが、俺には輝かしい聖剣の数々に見えた。
俺が手に取ったのは、全長九〇センチメートルのバールと、重量感のある石頭ハンマーだ。
冷たい鉄の感触が、掌を通じて魂と直結する。
重い。だが、心地よい重さだ。
これは破壊のための道具ではない。創造のための道具だ。
ミケランジェロが石塊の中に眠る天使を幻視し、鑿を振るって解放したように、俺はこの鉄槌を振るって、凡庸という分厚いコンクリートの岩盤に閉じ込められたりりちゃを掘り起こすのだ。彼女を取り巻く嘘の装飾、偽りの人間関係、汚れた環境、それらすべてを粉砕し、瓦礫の山と化すことで初めて、彼女は純白の姿で再生する。
レジで会計を済ませる。
店員の不審げな視線? いや、あれは畏怖だ。これから世界を救う勇者に対する、本能的な敬意だ。
俺はもはや、社会という矮小な枠組みから逸脱した超越者となったのだ。
外に出ると、陽光がバールの先端で鋭く反射した。
美しい。
この一撃で、世界のシナリオを修正する。
ケントの善良な顔。店長の常識的な態度。
それらすべてが、俺を吐き気を催させるほどの偽善だ。
彼らは暴力を使わない。だから俺が使うのだ。
均衡を保つために。
このふざけた平和という名の停滞を打ち破るために。
俺はスマートフォンの画面を指で弾く。
文字が踊る。キーボードがピアノの鍵盤のように歌う。
最後のメッセージ。
世界への、そしてりりちゃへの、最後通牒。
《世界が間違っているならば、正すのが賢者の義務だ。法も、倫理も、常識も、所詮は凡人が作った防波堤に過ぎない。真の愛は津波のごとく、それらすべてを押し流す。待っていろ、りりちゃ。今、君を縛る鎖を断ち切りに行く。君の周りにある偽りの城を破壊し、更地に戻してやる。そこで俺たちは、ゼロから新しい創世記を紡ぐのだ》
送信。
──ヒュッ。
喉の奥から、乾いた音が漏れた。
笑い声だ。いや、呼吸か? わからない。
俺の肉体は、俺の制御を離れて勝手に振動を始めている。
「あ……ヒヒッ……あはっ、ははははッ!」
笑いが止まらない。
おかしい。この世界はあまりにもおかしい。
通り過ぎる人々が、俺を避けていく。その目が魚のように死んでいる。
彼らは知らないのだ。今、この瞬間、世界のシナリオが書き換わったことを。
俺が書き換えたのだ。
「うああああああっ! 見える! 見えるぞおおおッ!」
俺は天を仰いで咆哮する。
言葉にならない叫び。それは憤怒であり、歓喜であり、絶望であり、そして絶対的な勝利宣言だ。
視界が極彩色に明滅する。
ビルがぐにゃりと曲がり、空がガラスのようにヒビ割れ、そこから金色の光が降り注いでいる。
天使のラッパ? 違う、あれはサイレンだ。
世界の崩壊を告げる警告音だ。
涙が止まらない。
嗚咽が止まらない。
笑いが止まらない。
俺の中で、すべての感情がミキサーにかけられ、ドロドロの黒いエネルギーとなって噴出している。
ケントの顔が燃える。店長の顔が砕ける。法律の条文が紙吹雪のように舞い散る。
すべてが美しく破壊されていくヴィジョン。
俺はハンマーを鞄に隠し、バールをコートの内側に抱く。
その冷たさだけが、唯一の現実だ。
心臓が肋骨を叩き折らんばかりに跳ねる。
ドクン、ドクン、ドクン。
これはカウントダウンだ。
「行くぞ……ヒヒッ……迎えに行くぞ、りりちゃ……」
涎が垂れるのを拭おうともせず、俺は一歩を踏み出す。
足取りは千鳥足。だが、その向かう先は一直線だ。
天空の城。
そこにあるのは、瓦礫と血と、そして永遠の愛。
俺は笑いながら、泣きながら、獣のように吼えながら、聖戦の地へと進軍を開始した。




