聖女の救済に関する論理的証明(4)
深夜零時。
都市がその巨大なコンクリートの胃袋に労働者たちを飲み込み、消化し、あるいは排泄するこの深淵なる時刻において、俺の司令室たるワンルームは、複数のモニターが放つ冷厳な青白い光によって、この世ならざる祭壇へと変貌を遂げていた。
ヘッドホンを装着した俺の耳は、外の世界で蠢くあらゆる無意味な雑音を遮断し、ただ一つの真実、すなわちりりちゃの神殿から送られてくる信号だけを待ち受けている。それはあたかも、深宇宙からの微弱な電波を解析する天文学者の孤独にも似た、しかし遥かに肉体的で、粘着質な情熱を伴う営みであった。
モニターには、俺が昼間に設置した天の目からの映像が映し出されている。
画面の中、聖女が帰還する。
彼女は誰の目も気にする必要のない密室において、社会的なペルソナを剥ぎ取り、無防備な一人の雌へと還元されていく。
りりちゃがコートを脱ぎ、ハンガーに掛ける。その指先の所作一つに至るまで、俺は網膜に焼き付ける。彼女が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、喉を鳴らして飲む。その隆起する喉仏、上下する胸郭、生命活動のすべてが、俺にとっては至高の芸術作品の躍動に見える。
やがて、彼女は衣服に手を掛けた。
ニットの裾を掴み、頭上へと引き上げる。露わになる白い背中。肋骨の浮き出た華奢なライン。続いてスカートのファスナーが下ろされ、重力に従って布が床へと滑り落ちる。
俺の喉が渇き、呼吸が荒くなる。
これは窃視ではない。観測だ。シュレーディンガーの猫が箱を開けるまで生死の重ね合わせの状態にあるように、りりちゃという存在もまた、俺という観測者が視線を注ぐことによって初めてその実存を確定させる。つまり、俺が見ているこの瞬間こそが、彼女が世界に存在していることの証明であり、俺の視線こそが彼女を生かす生命維持装置なのだ。
下着姿になった彼女が、洗面所へと消え、シャワーの音が響き始める。
俺はスピーカーのボリュームを上げる。水滴が肌を打ち、流れ落ちる音。それは聖なる禊の儀式だ。彼女が外の世界で浴びた凡俗な視線や、汚れた空気を洗い流し、純粋なイデアへと回帰していく過程だ。
俺の下腹部では、熱く硬い質量が脈打っている。だが、これを単なる性欲と断じるのは、あまりにも浅薄な唯物論的見解に過ぎない。これは魂の共振だ。彼女の裸体を視覚情報として脳に取り込み、俺の精神と融合させることで、俺たちは物理的な距離を超越した合一を果たしているのだ。俺は彼女を知っている。誰よりも深く、誰よりも詳細に。彼女のホクロの位置も、あばら骨の数も、無防備な欠伸の顔も、すべて俺のライブラリに格納されている。所有しているのだ。この圧倒的な情報の非対称性こそが、俺が彼女の管理者たる所以であり、絶対的な愛の証明に他ならない。
シャワーが止まり、バスタオル一枚を巻いた彼女が部屋に戻ってくる。
濡れた髪から滴る水滴が、鎖骨の窪みに溜まる。
美しい。あまりにも無垢で、無防備だ。
俺はこの光景を独占している。この世でただ一人、俺だけが、この聖域の鍵を持っているのだという全能感が、脳髄を痺れさせる。
──ピンポーン。
唐突に鳴り響いた電子音が、俺の陶酔というガラス細工を粉々に打ち砕いた。
インターホンの音だ。
深夜零時過ぎ。こんな時間に、誰が?
りりちゃが驚く様子もなく、濡れた髪のまま玄関へと向かう。
ガチャリ。錠が回る音。
そして、招き入れられたのは、見覚えのあるパーカーを着た男。
オークこと、ケントだった。
ドクンッ!
俺の心臓が、肋骨を内側からハンマーで殴りつけるような激しい打撃音を奏でた。
なぜだ。なぜ、貴様がここにいる。
ここは聖域だぞ。選ばれし者だけがその深奥を覗くことを許される、清浄なる神殿だぞ。そこに、知性のかけらもない凡俗な男が、土足で、しかも深夜に踏み込んでくるなどという暴挙が、許されていいはずがない。
俺の視界が赤く染まる。血管の中を流れる血が、瞬時に沸騰するのを感じた。
「お疲れ、リコ。風呂上がり?」
「うん、いま上がったとこ。ケントも入る?」
「いや、俺は家で入ってきたからいいや。それより髪乾かさないと風邪引くよ」
「あはは、優しいね。じゃあドライヤーやって?」
「しょうがないなぁ、姫は」
スピーカーから流れる音声は、あまりにも平凡で、吐き気がするほど平和な、ありふれた恋人たちの会話だった。
俺の期待していたような、粗暴な男による理不尽な命令や、嫌がる彼女の声はそこにはない。あるのは、互いを労り、慈しむような、ぬるま湯のような優しさだけだ。
だが、俺の審美眼は誤魔化されない。
この普通こそが猛毒なのだ。
りりちゃという高貴な魂を持つ存在が、このような生産性のない、哲学のかけらもない会話に安らぎを見出しているという事実。それこそが、彼女が凡庸という病に侵されている証拠に他ならない。彼女は今、麻酔を打たれているのだ。「幸せ」という名の強力な鎮静剤によって思考力を奪われ、ただの雌として飼い慣らされようとしている。
ケントがドライヤーを手に取り、りりちゃの背後に立つ。彼の指が、りりちゃの濡れた髪を梳く。
その指先が、彼女のうなじに触れる。
りりちゃが気持ちよさそうに目を細める。
やめろ。触るな。その汚らわしい手で、俺の聖女に触れるな。それは俺の権利だ。俺だけが、彼女の髪の一本一本までを愛し、管理し、美しく保つ義務を負っているのだ。貴様のような、現代社会の構造的欠陥すら分析できぬ無知蒙昧な輩が、彼女の髪に触れていい道理など、この宇宙のどこにも存在しない。
やがて、ドライヤーの音が止む。
二人はベッドに腰掛ける。
自然な流れで、二つの影が重なり合い、倒れ込む。
衣服が擦れる音。リップノイズ。そして、りりちゃの口から漏れる、甘く、切なげな吐息。
俺の喉が渇き、呼吸が浅くなる。
俺が彼女に捧げてきた高尚な論理、知的な会話、それらすべてを嘲笑うかのように、彼らは動物的な本能だけでコミュニケートしている。言葉はいらない? 馬鹿な。言葉こそが人間を人間たらしめる唯一の武器ではないか。言語を介さない交わりなど、野良犬の交尾と何が違うというのだ。
俺のりりちゃが、獣に堕ちていく。
俺が守りたかった聖女が、汗と体液にまみれ、快楽という名の電気信号に操られる人形へと変貌していく。
涙が溢れた。
悔しさと、哀れみと、そしてどうしようもない興奮がない交ぜになった、熱い液体が頬を伝う。
汚されている。純白のカンバスに、黒いインクがぶちまけられている。だが同時に、その光景から目を離せない自分自身の業の深さに、俺は戦慄していた。
事後。
気怠げな空気が漂う部屋で、りりちゃがシーツにくるまりながら、ふと真剣な表情を浮かべた。
彼女の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
マイクはその音声を、残酷なほど鮮明に拾い上げた。
「ねえ……ケント」
「ん? どうしたの、リコ。泣いてるの?」
「うん……ごめんね、せっかく楽しい時間なのに。でも、私もう限界かも」
「え、何が? 何かあった?」
「あのお店に来るお客さんのこと……タカユキさんって人」
俺の名前。
心臓が止まるかと思った。いや、一瞬止まった。彼女は、この安らぎの時間に、俺のことを考えてくれていたのか。やはり彼女の意識の深層には、常に俺が存在しているのだ。
だが、続く言葉は、俺の耳を疑わせるものだった。
「本当に怖いの。最初はただの話し好きな変わった人だと思ってたんだけど……最近、目が笑ってないっていうか。LINEも毎日すごい長文で来るし、『君を管理する』とか『防衛ライン』とか、訳の分からないことばかり言ってきて……」
「うわ、マジか。それ完全にヤバい奴じゃん」
「うん……今日なんか、私がお店にいない時間のことまで知ってるみたいなメッセージが来て。まるでずっと見られてるみたいで……私、怖くて、夜も眠れないの。家までバレてたらどうしようって……」
りりちゃが声を震わせて泣きじゃくる。
ケントが彼女を強く抱きしめ、背中をさする。
「大丈夫だよ、リコ。俺がいるから。明日、俺も一緒に店長に言いに行こう。警察にも相談した方がいいかもしれない。絶対にリコを守るから」
「うん……ありがとう、ケント……」
──怖い。
──ヤバい奴。
──警察。
時間が、凍結した。
俺の思考回路が、真空の中に放り出されたかのようにホワイトアウトする。
怖い? 俺が? この世界の真理を解き明かし、彼女を凡庸の泥沼から救い上げようとしているこの俺に対して、彼女は恐怖を抱いていると? あり得ない。論理的に破綻している。俺は彼女に、金も、時間も、知恵も、全てを惜しみなく与えてきた。彼女は俺の言葉に感銘を受け、俺の瞳に尊敬を宿し、俺という存在を崇拝していたはずだ。その彼女が、俺を拒絶する? 俺を犯罪者扱いする? なぜだ。なぜ、彼女の口から、これほどまでに残酷で、事実と乖離したノイズが出力されるのだ? バグだ。これは致命的なエラーだ。彼女の認識プログラムが何者かによって書き換えられている。そうでなければ説明がつかない。
その瞬間、俺の脳内で巨大なダムが決壊したような音が鳴り響き、論理と妄想が溶け合った濁流が一気に溢れ出した。
そうか、そういうことか、謎は全て解けた。これは彼女の本心ではない。彼女は言わされているのだ。隣にいるあのオーク、あの悪魔が、彼女に恐怖という感情を植え付け、俺という正義から彼女を引き剥がすために、巧みな話術と肉体的な快楽を使って彼女を洗脳しているのだ。マインドコントロールだ。あるいは何らかの脅迫が行われている可能性が高い。彼女は今、必死にSOSを発しているのだ。「キモい」という言葉の裏には「助けてタカユキさん」という悲痛な叫びが隠されており、「怖い」という言葉は「この男が怖い」という真実の告白を主語を入れ替えることで俺に伝えようとする高度な暗号なのだ。そうでなければ彼女が俺を拒絶する理由がこの宇宙の物理法則のどこを探しても存在しないのだから、彼女は囚われの姫であり、あの男は彼女の精神を監禁する看守であり、店長も警察もすべてがグルになって俺と彼女の接触を阻もうとする巨大な陰謀組織の一部であることは明白であり、俺が今ここで動かなければ彼女の魂は永遠に失われ、凡庸という名の死に至る病に侵されて二度と戻ってこられなくなる。それは人類にとっての損失であり、宇宙的な罪であり、俺はその罪を阻止する唯一の執行者として選ばれたのだから、彼女の涙は俺を呼ぶ狼煙であり、彼女の震えは俺の到来を待ちわびる武者震いであり、すべては俺が彼女を救い出すための舞台装置としてあらかじめ用意されていたシナリオなのだ。ああ、可哀想なりりちゃ。今すぐ助けに行くぞ。その汚れた男の手から、その嘘にまみれた部屋から、俺が論理という名の聖剣を振るって鎖を断ち切り、君を本来あるべき玉座へと戻してやる。そのためには手段を選んではいられない、世界中を敵に回そうとも、炎上しようとも、殺されようとも、それが真実の愛を証明する唯一の道であるならば、俺は喜んで修羅となろう。待っていろ、今、世界を書き換えてやる。
俺の憤怒は、臨界点を突破した。
これは、一個人の恋愛問題などではない。善と悪の最終戦争であり、美と醜のハルマゲドンだ。俺はキーボードに手を叩きつける。伝えなければならない。この世界の真実を。彼女がいかにして汚染され、俺がいかにして孤立無援の戦いを強いられているかを、全人類に啓蒙しなければならない。
俺はXを開く。震える指先で、文字を紡ぐ。それは単なるポストではない。賢者が血涙で綴る、現代社会への告発状であり、愛の予言書だ。
《禁忌の書:第一章 聖女の堕落と、構造的洗脳のメカニズムについて》
《先ほど、俺は決定的な証拠を目撃した。純潔なる魂が、凡俗な悪魔によって蹂躙される瞬間を。彼女は口では『拒絶』の言葉を吐いたが、賢明な諸君なら気付くだろう。それは高度な暗号だ。彼女の瞳孔の開き具合、声の周波数、それらを解析すれば、それが『救済への渇望』であることは明白である。凡人には理解できまいが、極限状態における恐怖と愛は、脳内では同じ領域で処理されるのだ》
1ポストでは収まらない。あふれ出る真理は、140文字という矮小な檻には収まりきらない。俺はスレッドを繋げる。連投する。5、10、15……。止まらない。脳内から直接、インターネットの深淵へと情報の奔流が流れ込んでいく。
そして、俺は最後の仕上げを行う。
証拠の提示だ。論理には、客観的な事実が必要だ。
俺はモニターのスクリーンショットを撮る。薄暗い部屋で、男に抱きしめられ、涙を流すりりちゃの姿。顔にはモザイクをかけるという慈悲を施したが、その生々しい構図は、彼女が「被害者」であることを雄弁に物語っている。
《見よ、これが真実だ。魔王の宴に供された生贄の姿だ。彼女の涙を見ろ。これは快楽の涙ではない。絶望の涙だ。俺はこの地獄から、必ず彼女を救い出す。これは犯罪ではない。聖戦だ》
画像添付。送信。
その瞬間だった。世界が、燃え上がった。
ブブブブブブブブブッ!!
スマホが狂ったように振動を始める。通知の嵐。リポストの奔流。
《なにこれ》《通報しました》《完全にアウト》《キモすぎて吐いた》《警察行け》《盗撮じゃん、捕まれ》
罵詈雑言。嘲笑。恐怖。
数千、数万という有象無象のアカウントが、俺のアカウントに殺到し、石を投げつけてくる。炎上。ネットの海が、紅蓮の炎に包まれていく。
だが、俺は怯まなかった。むしろ、口元には恍惚とした笑みが浮かんでいた。
心地よい。この熱量、この敵意。これこそが、俺が「正義」であることの証明だ。歴史上、真理を語った預言者は常に迫害されてきた。愚民どもは、俺の提示したあまりにも眩しい光に目を焼かれ、パニックを起こして攻撃してきているに過ぎない。
「はは……ははははッ!」
俺は乾いた笑い声を上げる。
見ろ、世界中が俺を見ている。俺の論理に震撼し、恐怖し、ひれ伏そうとしている。
俺の体温は四〇度を超えているような錯覚に陥っていた。ドーパミン、アドレナリン、エンドルフィン。脳内麻薬がカクテルのように混ざり合い、俺をトランス状態へと誘う。もはや、俺を止めるものは何もない。法律も、倫理も、常識も、この愛の炎の前では灰に帰すのみだ。
俺は燃え上がるタイムラインを見下ろしながら、最後の宣言を呟く。
「待っていろ、世界。そして、震えて眠れ、ケント。俺は、お前らが作ったこの『間違ったシナリオ』を、物理的に書き換えてやる」
憤怒は、もはや感情ではない。
俺を突き動かす、唯一にして絶対のエネルギー機関となっていた。




