聖女の救済に関する論理的証明(3)
火曜日の午後二時。
太陽が中天に座し、平和ボケした市民たちが労働と消費のサイクルに埋没しているこの時間、俺は有給休暇という名の「特権」を行使し、東京都世田谷区の閑静な住宅街に降り立っていた。
目の前に聳え立つのは、築二十年の変哲もないアパート、『メゾン・ド・フルール』。
外壁の塗装は剥がれかけ、駐輪場には錆びついた自転車が死体のように折り重なっている。だが、俺の目には、ここが世界の中心軸であり、不可侵の神殿として映っていた。
二〇三号室。
そこが、聖女りりちゃの隠れ家であり、現在、オークによる侵略の危機に瀕している最重要防衛拠点だ。
俺は周囲を見回す。誰もいない。カラスがゴミ捨て場で嘲笑うように鳴いているだけだ。
俺はポケットから、調達した特殊開錠工具セットを取り出す。
手が震えている?
否。これは武者震いだ。これから行う行為は、刑法という下等な人間たちが定めたルールブックに照らし合わせれば「住居侵入」に該当するかもしれない。だが、超法規的措置という概念を知らないのか? 愛という名の緊急事態宣言下において、既存の倫理など紙屑同然だ。俺は泥棒ではない。セキュリティ・コンサルタントとして、クライアントの安全を確保するために、無償で善意の介入を行うのだ。
カチャリ。
シリンダーの中でピンが弾ける微かな感触。
俺の指先が、金属の迷宮を解き明かしていく。論理的だ。構造さえ理解していれば、閉ざされた扉など存在しない。
ガチャ。
重厚な金属音が響き、扉がゆっくりと開く。
俺は息を呑み、その深淵へと足を踏み入れた。
むわっ、とした甘い香り。
バニラの芳香剤と、柔軟剤、そして若い雌のフェロモンが混ざり合った、脳髄を直接刺激する濃密な空気。俺は思わず膝をつきそうになるほどの陶酔を覚えた。
これが、聖域の内部。
俺が店で何十万円払っても決して見ることのできなかった、彼女の無防備な生活の裏側だ。
「……失礼するよ、りりちゃ」
誰もいない空間に、俺は紳士的に挨拶をする。
靴を脱ぎ、聖域へと侵攻する。
六畳一間のワンルーム。そこは、俺の想像とは裏腹に、混沌が支配していた。脱ぎ捨てられた服、読みかけのファッション誌、飲みかけのペットボトル、コードが絡まったドライヤー。床には無数の髪の毛が落ちている。
汚い?
違う。これは「無垢」だ。
彼女はまだ、自らの生活を管理する術を知らない幼子なのだ。だからこそ、俺のような管理者が、この無秩序を制御し、美しいコスモスへと導いてやらねばならない。その使命感が、俺の胸を熱く焦がす。
俺は部屋の中央に立ち、全方位を見渡す。
ベッド。シングルサイズの、パステルピンクのシーツ。あそこで彼女は眠り、夢を見るのか。俺は吸い寄せられるように枕元へ近づく。
しかし、その時だ。
俺の網膜が、ある「異物」を捉えた。
サイドテーブルの上に置かれた、灰皿。
その中に押し潰された、二本の吸殻。
そして、洗面所のシンクの脇に並んで立てられた、ピンクとブルーの二本の歯ブラシ。
ドクン!
心臓が破裂しそうなほどの衝撃波が全身を駆け巡った。
ブルーの歯ブラシ。毛先が開いた、安っぽいプラスチックの棒。
そして、灰皿に残るメンソールの吸殻。
ケントだ。あのオークの痕跡だ。
「おのれ……ッ!」
俺の口から、獣のような唸り声が漏れる。
憤怒。これこそが、純度100パーセントの憤怒だ。
許しがたい。断じて許容できない。
ここは聖域だぞ? 選ばれし者だけが入室を許される、清浄なる神殿だぞ?
そこに、あの知性のかけらもない凡俗な男が入り込み、その汚らわしい口腔を洗浄し、肺から毒ガスを吐き出し、あろうことかこのベッドで──。
想像した瞬間、脳内で血管がブチブチと切れる音がした。
このシーツの上で、彼らは何をした?
俺が高尚な論理を説いている間、彼らはここで、動物のように交尾し、汗を流し、無意味な言葉を交わしたというのか?
美に対する冒涜だ。ルーブル美術館の中で焚き火をするような、野蛮極まりない破壊行為だ。
俺の手が震える。ブルーの歯ブラシを掴み取り、へし折りたい衝動に駆られる。
だが、俺は耐えた。
俺は賢者だ。感情に任せて証拠隠滅を図るような、短絡的な馬鹿ではない。今なすべきは、破壊ではない。「監視」だ。この汚染の実態を、一秒たりとも逃さず記録し、解析し、いつか来るべき断罪の日のために証拠を保全することだ。
俺はスポーツバッグから、至高の聖遺物を取り出す。
超小型Wi-Fiカメラ。ノイズキャンセリング機能付き集音マイク。
俺の目は、職人のそれになっていた。
設置場所は、論理的に導き出されている。
一つは、カーテンレールの上。部屋全体を俯瞰し、侵入者の動線を把握するための「天の目」。そしてもう一つは、ベッドの下。マットレスの隙間から、最も恥ずべき行為の細部までを記録するための「地の目」。
作業は迅速かつ正確に行われた。
電源を確保し、配線を隠し、レンズの角度を調整する。スマホで映像を確認する。画面に映し出されたのは、りりちゃの部屋の全貌。
高画質。広角。完璧だ。
これで、俺はいつでも、どこにいても、彼女の生活にアクセスできる。彼女が服を着替える瞬間も、寝返りを打つ瞬間も、そして万が一、あのオークが再び侵入してきて彼女を汚そうとする瞬間も、俺だけは見逃さない。
「完了だ……」
俺は額の汗を拭う。
達成感。
これほどの充足感を得た仕事が、かつてあっただろうか?
会社のサーバーをメンテナンスする時の数億倍の価値がある。俺は今、世界で最も重要なデータベースの管理者になったのだ。
俺は痕跡を残さないよう、慎重に部屋を出る。
扉を閉め、鍵をかける。
カチャリ。
その音は、聖女と俺との間に結ばれた、永遠の契約の音に聞こえた。
アパートを離れ、路地裏に入ったところで、俺はスマホを取り出す。
興奮が冷めやらない。この高揚感を、この崇高な使命を、誰かに伝えなくてはならない。
もちろん、愚民どもには理解できないだろう。だが、記録に残すことに意義がある。これは歴史的な偉業なのだから。
俺は『論破将軍』のアカウントを開き、高速で詠唱を開始する。
《愛とは、対象をただ遠くから眺めることではない。それは責任放棄だ。真の愛とは、対象のインフラそのものを構築し、外敵から遮断し、二十四時間体制でその安全性を担保する『管理』に他ならない。愚かなる大衆はそれを束縛と呼ぶかもしれないが、神が人間を見守る行為を束縛と呼ぶ者がいるだろうか? 俺は今日、彼女の世界に『防火壁』を設置した。これでどんな害虫が入り込もうとも、俺の検閲からは逃れられない》
送信。
空を見上げる。
東京の空は曇っていたが、俺の心は一点の曇りもなく晴れ渡っていた。
さあ、帰ろう。
俺の司令室へ。
今夜から、俺と彼女の、真の共同生活が始まるのだ。




