ぱぱ、まま、せかいのぜんぶ、ごちそうさま!(5)
愛の巣の空気は、日ごとに煮詰まっていく。
最初はサラサラのコンソメスープだったのに、今はもう水分が飛んで、ドロドロのデミグラスソースみたいに黒ずんでる。
濃厚。重厚。窒息しそうなくらいの濃密な愛。
カズヤくんとサキちゃんが、美羽のためにいろんなものを溶かしてくれるからだ。時間も、お金も、笑顔も、言葉も、そして未来も。全部お鍋に入れて、強火でガンガン煮込んで、グルグルかき混ぜて、美羽の口に運んでくれる。
甘いなあ。重たいなあ。
でも、最近ちょっと味が変わってきたの。
焦げ臭い。キッチンから漂う甘い匂いに混じって、何かがチリチリと音を立てて燃え尽きるような、不思議な煙の匂いがする。
「……ねえ、カズヤ。ちょっと話があるの」
ある夜、サキちゃんが言った。
その声は、研ぎ澄まされた包丁みたいに冷たくて鋭かった。リビングの空気がピキーンと凍りつく。
美羽はソファで、カズヤくんに買ってもらったアイスを食べながら、キョトンとして二人を見る。どうしたのかな? サキちゃん、顔色が悪いよ? お化けみたいに真っ青だ。
「なんだよ、サキ。今、美羽ちゃんとテレビ見てるんだけど」
「テレビなんてどうでもいいでしょ! 家賃、どうするつもりなの? 今月も私が払うの? カズヤのバイト代、どこに消えたの?」
サキちゃんが立ち上がる。
いつも優しいサキちゃんじゃない。髪を振り乱して、目が血走ってる。
悲鳴みたいな声。
見てて痛々しい。そんなに大声出したら、喉が痛くなっちゃうよ?
「うるさいな……来月には払うよ。美羽ちゃんに必要なものがあったんだよ。この子、着替えも持ってなかったんだぞ?」
「だからって、また服? それに新作のゲーム? ふざけないでよ! 私たちが切り詰めて生活してるのに、なんでこの子だけ贅沢させてるの?」
「しょうがないだろ! 美羽ちゃんは傷ついてるんだ! 心が不安定なんだよ! 俺たちが守ってやらなきゃ、また壊れちゃうだろ!」
カズヤくんが怒鳴る。
美羽を庇うように、美羽の肩を抱く。
ああ、あったかい。
カズヤくん、美羽のこと守ってくれてるんだ。サキちゃんが怒ってるのは怖いけど、カズヤくんの腕の中にいれば安心だね。美羽が一番大切なんだって、体温が教えてくれてる。
「守るって……何から? ねえカズヤ、目を覚ましてよ! この子の親に連絡しようって言ってもカズヤが止めるし、児童相談所に行こうって言っても聞かないし……私たちがやってること、ただの誘拐だよ! 共依存だよ!」
「サキ! 言葉を慎め! 美羽ちゃんが聞いてるだろ! この子は繊細なんだぞ!」
カズヤくんがテーブルをバンと叩く。
サキちゃんがビクッとする。目から涙が溢れ出す。
ポロポロ、ポロポロ。
綺麗な涙。まるで真珠みたい。
サキちゃん、泣かないで。美羽、アイス分けてあげようか?
「……変わっちゃったね、カズヤ。昔は、二人で武道館行こうって……どんなに貧乏でも、音楽だけは真剣にやろうって……」
「今だって真剣だよ! うるさいな、説教なら他でやってくれよ!」
カズヤくんがサキちゃんを睨みつける。
その目は、もう恋人を見る目じゃない。邪魔な障害物を見る目だ。
サキちゃんが、糸が切れたお人形みたいに座り込む。
「もう……無理……。私、もう無理だよ……」
サキちゃんから、ポキッて音が鳴った気がした。
あれ? 疲れちゃったのかな? みんなで仲良く暮らしてるだけなのに、どうしてサキちゃんだけ辛そうなのかな? 大人は難しいね。美羽にはよくわかんないや。
でも、カズヤくんが美羽の頭を撫でてくれてるから、きっと大丈夫だよね。
翌朝。
目が覚めると、サキちゃんは荷造りをしていた。
乱暴に服をバッグに詰め込んで、化粧品を投げ入れてる。背中が泣いてるみたいに丸まってる。
美羽は布団から顔を出して、無邪気に声をかける。
「サキちゃん、おはよ! どこ行くの? 旅行?」
サキちゃんの手が止まる。
ゆっくりと振り返ったその顔は、幽霊みたいにやつれていて、目の下がどす黒く窪んでいた。
美羽を見る目。
そこにはもう、いつもの優しさがない。
あるのは底知れない恐怖と、触れたくないものを見るような拒絶だけ。
どうしたんだろう。美羽、なにか悪いことしたかな?
「……美羽ちゃん。あなた、自分が何をしてるかわかってる?」
サキちゃんが低い声で言った。
「え……? わかってるよ? 美羽、みんなでご飯食べて、ねんねして、仲良くしてるだけだよ?」
「……そう」
サキちゃんはバッグを肩に担ぐ。
玄関で、靴を履く。
まだ寝ているカズヤくんの方を一度だけ振り返って、唇を血が滲むほど噛み締めた。
すごい顔。痛くないのかな。
「カズヤを……なんとかしなきゃって思ったけど、もうだめみたい。空っぽだもん」
「空っぽ?」
「ええ。あなたが全部、食べちゃったから」
サキちゃんは吐き捨てるように言って、ドアを開けた。
「さよなら。二度と会いたくない」
バタン!
鉄の扉が閉まる音。
それが、サキちゃんの最後の音だった。
お部屋から、お母さんの匂いが消えちゃった。
美羽は、静まり返った部屋で首をかしげる。
食べちゃった、ってどういうことだろう?
美羽、カズヤくんのこと食べてないよ? ご飯しか食べてないよ? サキちゃん、変なの。きっと疲れてて、変な夢でも見たんだね。
でも、いなくなっちゃったのは寂しいな。
カズヤくんはまだ寝てる。昨日の喧嘩で疲れちゃったのかな。
美羽はカズヤくんの寝顔を覗き込む。
ねえ、カズヤくん。
サキちゃん、お出かけしちゃったよ。
これからは二人っきりだね。
三人でサンドイッチも楽しかったけど、二人ならもっと広々眠れるね。カズヤくんの全部、頭のてっぺんから爪先まで、全部美羽のものだね?
美羽のお腹の虫が、嬉しそうにグルルと喉を鳴らした。
サキちゃんの分のご飯も、これからは美羽が食べていいってことだよね?
いただきまーす。
それからの日々は、止まることを忘れちゃったメリーゴーランドみたいだった。
サキちゃんがいなくなって、カズヤくんは一瞬だけ呆然としたけど、すぐに美羽の方を向いた。むしろカズヤくんの愛はもっと激しくなった。
「美羽ちゃん、大丈夫だよ。俺がいるから。俺だけは絶対に美羽ちゃんを離さない」
「サキはわかってなかったんだ。美羽ちゃんの繊細さを。俺だけが理解者だよ」
「欲しいものある? 何でも言って。美羽ちゃんの笑顔のためなら、俺は何だってする」
カズヤくんは、狂ったように美羽に尽くす。
でも、お金がない。
家賃も滞納してるし、電気も止まりそう。冷蔵庫の中身も空っぽだ。
ある雨の日、カズヤくんが大きな荷物を持って出かけていった。
ギブソンのギターケース。彼が学生時代からバイトして買った、命よりも大事な相棒。
美羽知ってるよ。カズヤくんが夜中にこっそり、そのギターを磨いてたこと。
帰ってきたとき、ギターケースはなくなってて、手にはコンビニの袋と、少しのお札があった。ズブ濡れのカズヤくんが、ヘラヘラ笑ってる。雨水と涙で顔がぐちゃぐちゃだけど、口元だけは笑ってる。
「カズヤくん、ギターは?」
「ああ……あれはもう、いいんだ。重いし、場所取るしね。それより見て、美羽ちゃんの好きな高級プリンと、うな重買ってきたよ!」
カズヤくんの声が震えてる。
大切なものを切り離した痛みを、無理やり飲み込んでる音。
わあ、すごい! 魔法だ! すごいすごい! 愛の力だね!
プリンを一口食べる。
甘い。とろける。
そして、ほんのり鉄の味がする。いいアクセント。濃厚で美味しいね。
それからカズヤくんは、なりふり構わず働き始めた。
日雇いの解体工事、深夜の警備員、治験のバイト。
毎日、ボロ雑巾みたいになって帰ってくる。指先は傷だらけで、爪の中は真っ黒。かつてギターの弦を押さえていた綺麗な指は、もう見る影もない。
でも、その瞳だけは、美羽を見ると異常な光を放つ。
「ただいま、美羽ちゃん。いい子にしてた? 俺がいないとダメだもんな」
ギューって抱きしめてくれる。
力が強い。加減を知らない子供みたいに強い。
痛いよ、カズヤくん。
でも、その痛みが愛の証拠。
カズヤくんの命が、ロウソクみたいに燃え尽きていく音が聞こえる。
ジリジリ、ジリジリ。
美羽のために、自分が灰になるまで燃やし続けてくれてるんだ。
でもね。
一ヶ月もすると、美羽は首をかしげるようになった。
──なんか、味がしなくなってきたなぁ。
最初は濃厚な豚骨スープみたいだったのに、今はお湯で薄めた味噌汁みたい。
カズヤくん、中身がなくなってきちゃったのかな?
話すことといえば「金がない」「疲れた」「美羽ちゃん寂しくない?」のローテーション。
前みたいに「こんな曲ができたんだ!」って目を輝かせることもないし、「世界を変えてやる」っていう熱気もない。
ただ、美羽にしがみついて、美羽に依存して、自分の存在意義を確認してるだけ。
あ、チューインガムだ。
最初は甘くてジューシーだったけど、噛みすぎて、もうカスカスな味しかしない。
不思議だなぁ。愛は無限だって言ってたのに、カズヤくんの愛には底があったのかな?
それとも、美羽が噛むのが早すぎたのかな?
ある蒸し暑い夜。
カズヤくんが倒れた。
過労と栄養失調。無理しすぎちゃったんだね。
布団の上で、高熱を出してうなされている。汗びっしょりで、目が虚ろで、呼吸がヒューヒュー鳴ってる。壊れたアコーディオンみたい。
「うう……あつい……くるしい……」
美羽は枕元でスマホをいじりながら見ていた。
つまんないな。遊んでくれないなら、意味ないじゃん。
早く元気になって、また美羽をよしよししてくれないかな。
カズヤくんの手が、ふらふらと伸びてくる。
美羽の手首を掴む。
熱い。湿ってる。ベトベトする。
「……サキ……」
え?
美羽の指が止まった。今、なんて言ったの?
「サキ……ごめん……サキ……」
カズヤくんが、うわ言で呟いた。
焦点の合わない目で、天井のシミを見つめながら、涙を流している。
「帰ってきてくれよ……やっぱり、お前じゃなきゃダメなんだ……俺、バカだった……もう、疲れたよ……サキ……会いたい……」
美羽の手を握り締めながら、別の女の名前を呼んでいる。疲れたって言った。
──プツン。
美羽の中で、何かが完全に切れた。
スイッチが落ちたみたいに、世界が真っ暗になった。
あーあ。
違うよ、カズヤくん。
ここにいるのは美羽だよ? その女じゃないよ?
どうして美羽のこと見てくれないの?
あんなに「愛してる」って言ったのに。あんなに「一番だ」って言ったのに。
全部、嘘だったの?
結局、みんなと一緒じゃん。
最後には美羽のこと捨てるんでしょ?
悲しい。悲しいよ。美羽、こんなに信じてたのに。
カズヤくんは、もう光ってない。
さっきまでは王子様に見えてたけど、今はただの汚れた石ころにしか見えない。
臭い。汗の匂いと、後悔の匂い。
美羽は、キラキラしたものが好きなの。
美羽のことだけを見て、美羽のためだけに生きて、美羽のためだけに死んでいく完璧な輝きが好きなの。
最後の最後で、別の女に助けを求めるような濁った男なんて、いらない。
美羽はカズヤくんの手をそっと振り払った。
カズヤくんの手が布団に落ちる。力なく。
「……サキ……?」
「違うよ。美羽だよ。バカだね、カズヤくん」
美羽は立ち上がる。
部屋を見渡す。
あんなに宝箱みたいだった部屋が、今は薄暗くて、カビ臭くて、ゴミ屋敷みたい。
ギターもない。夢もない。
あるのは、熱に浮かされた抜け殻の男だけ。
食べ終わったお弁当箱。空っぽ。もう、一粒も残ってないや。
美羽は棚の上にあったカズヤくんのお財布を手に取る。
中を見る。
日払いのバイト代が入ってる。一万円くらい。
あと、お財布の奥底に、捨てずに持っていたサキちゃんの写真。カズヤくんがニコニコ。サキちゃんもニコニコ。
美羽は首をかしげる。こんなの持ってたんだ。不思議だなぁ。
美羽は写真をゴミ箱にポイして、お財布ごとポケットに入れた。これから一人で旅に出るんだもん。これくらいのお小遣いは必要だよね。
「うう……水……水を……」
カズヤくんが呻いている。
お水? 水道ならそこにあるよ?
美羽は聞こえないふりをして、自分の荷物をまとめる。化粧ポーチと、カズヤくんが買ってくれた高い服。それだけあれば十分。
「カズヤくん、さようなら」
美羽はニッコリと笑って、病人のカズヤくんに告げた。
美羽ね、とっても感謝してるよ。
でももう、あなたは美羽を満たしてくれないから。ここにいても、美羽が飢え死にしちゃうだけだから。
「早く元気になってね! 美羽はもう行くね」
玄関を出る。
外は蒸し暑い夏の夜。ムッとする湿気の中に、どこかの家の夕飯の匂いが混じってる。
カレーの匂いかな? 急にお腹が空いてきた。
グゥ。
さあ、次はどこに行こう?
世界は広い。
まだ見ぬご馳走が、美羽のことを待ってるはずだから。
美羽はスキップする。
背後のアパートで、一人の男の子が絶望の中で孤独に震えていることなんて、美羽の小さなおつむには届かない。
だって美羽は、お腹をすかせた可哀想な女の子なんだから。
生きるためには、食べなきゃいけないんだもんね?




