絶対に盗まれないストリートピアノ
ここは帝都の下町にある老舗駄菓子屋。穏やかな昼下がりを過ごすトキの耳に届いたのは、どこか遠くで鳴り響く鮮やかなピアノの旋律だった。
「へぇー、中々うまいじゃないか。誰が弾いてるんだろうね」
「そういえば、この近くにストリートピアノが設置されてましたね。そこからじゃないですか?」
リリカはここに来る途中の道路に、ピアノが置かれていたことを思い出していた。いったいいつから置かれていたかは分からないが、中々立派なピアノだったのは記憶している。
「ストリートピアノって、要するに路上にポン置きされてるピアノのことだよね。盗まれたりしないのかな」
「もー、トキ様はいつもそうですよね。浪漫とか感じたりしないんですか?」
「確かに感じないね。なにせ私と言えば浪漫、浪漫と言えば私だからだ。浪漫という概念そのものである私にとって、浪漫とは感じるものではない。ただそこにあるだけ、なのさ」
「ちょっと何言ってるか分からないです」
などとリリカが呆れている間に、遠くで鳴っていたピアノの旋律は止まった。
「コンサートが終わったみたいだね。それが意味するところはつまり、ピアノの椅子は空いているということ……行こう、リリカちゃん」
「まさかトキ様が演奏なさるんですか?」
「もちろんだとも。早くしないと先客に席を取られちゃうよ」
「は、はい! ところでトキ様ってピアノ弾けたんですか?」
リリカが尋ねると、トキは振り向くこともなく、しかしながら少し考えたのちに「鍵盤ハーモニカなら、あるいは」と答えた。
「それって……小学校の授業ぶりってことじゃないですかー!」
音楽とは技術ではなく、心で奏でるもの。トキは格言めいた何かを残し、件のストリートピアノがある場所へと向かった。目的のものは、閑静な住宅地付近の、人通りの少ない路上に佇んでいた。
「ほう。本当に路上に置いてあるんだねぇ。中々立派なピアノじゃないか」
誰かが毎日手入れをしているのだろうか、そのピアノは路上に置かれているとは到底思えないほどに黒々と艶めいている。ちょうど蓋が開いていたので、試しに鍵盤を押してみると、何も問題なく音は出てくれた。
「よしよしいい子だ。さっそく一曲弾いてみようか」
「何の曲を弾くのですか?」
「私のオリジナル、とでも言っておこうか」
そう言うとトキは深呼吸をし、静かに鍵盤上へ指を置いた。周りにはリリカ以外の観客はいない。しかし、観客はいなくて正解だったのかもしれない。必要な物は、ただただ適当に鍵盤を叩く行為を演奏と呼んであげる寛容さ。今、この場にいない人間はきっと世界で一番の幸せ者だ。逆に、世界で一番不幸な人間は誰かと問われれば、間違いなく今この瞬間にトキの傍にいた者と答えてしまうだろう。滅茶苦茶な理論だと思っただろう。あるいは読み飛ばした者もいるに違いない。こんな所まで目を通す寛容さ、その寛容さのせいであなたは間違いなく不幸が訪れる。そう、この文章は滅茶苦茶なのだ。しかし、トキの演奏に比べれば理路整然としているのは一目瞭然であろう。程なくして地獄のソロコンサートは幕を閉じ、唯一の観客であるリリカは涙を浮かべてトキの偉業を称えた。
「私の演奏、どうだった?」
「素晴らしく刺激的で悲劇的でした」
「そっか。腕はなまっていないようで安心したよ」
無事に演奏を終え、席を立とうとしたその瞬間。二人は向こうから近づいてくる老人の姿に気が付いた。
「いやぁ~実に独創的な演奏だ。どんな方が弾いているのかと思えば貴女でしたか、聖女様」
「どうもありがとうございます。ところであなたは?」
「私はこのピアノの元持ち主ですよ。昔はプロとして各地で演奏して回ってたのですが、この通り私も歳です。このまま相棒を腐らせるぐらいなら、色々な人の手に触れてもらいたいと思って設置させていただいたのです」
「なるほど。素晴らしい心遣いです」
トキは老人に一礼。せっかくなので、つい先ほどから気になっていた疑問を投げかけみることにした。
「このピアノ、素人目から見ても明らかに高価ですよね。盗まれる心配などはないのですか?」
「心配はご無用。優秀な防犯機能が付いておりますゆえ」
「防犯機能? 持ち上げたらブザーでも鳴るのですか?」
「いえいえ。もっと直接的で根本的な方法ですよ」
いったいなんだろう、そんなことを考えた矢先だった。三人の意識が同時にピアノから離れる瞬間を狙ったかのように、唐突に現れた強盗集団がピアノを持ち上げ走り去っていった。
「え?! さっそく盗まれちゃいましたけど?!」
リリカが反応するも時すでに遅し。報告は完全なる事後報告となってしまった。まさに白昼夢のような出来事に、三人は立ち尽くすしかない。路上に刻まれた四つの白い跡が、ただひたすらに虚しく現実であることを知らしめてくる。この一瞬の出来事は白昼夢ではなく、白昼夢のような紛れもない現実なのだ。
「追いかけた方がいいですか?」
トキが尋ねると、老人はゆっくりと首を横に振る。
「言ったでしょう。優秀な防犯機能が付いている、と」
「しかし、現に……」
「防犯機能の正体は、ちょっとした“術式”ですよ。反転術式とでも言いましょうか、要するに逆転の発想です。盗まれるのを防ぐのではなく、盗まれたという事実を消去する。具体的に言うならば、盗まれることのない世界線へ巻き戻すのです」
「あ、あなたは、まさか……」
トキは何かに気付き、カッと瞳孔を見開く。一方で老人は不敵な笑みを浮かべ、トキたちを一瞥した。
「こんな機密情報をべらべら喋ってよろしいのかって? 問題ありません、巻き戻し地点以降の記憶はすべて忘れてしまうのですから。遡行に必要なトリガーワードは――――
『ここは帝都の下町にある老舗駄菓子屋』。穏やかな昼下がりを過ごすトキの耳に届いたのは、どこか遠くで鳴り響く鮮やかなピアノの旋律だった。
「へぇー、中々うまいじゃないか。誰が弾いてるんだろうね」
「そういえば、この近くにストリートピアノが設置されてましたね。そこからじゃないですか?」




