第99話 未成の祈り
礼拝堂の奥へ踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
外の雨音が遠のく。
屋根は半分落ちているはずなのに、ここだけなぜか音が鈍い。
床は焼け落ち、ところどころ穴が開いている。
その下には、黒い石の階が続いていた。
地下へ降りる道だ。
アシュは一瞬だけ足を止めた。
ノアも、その穴を見下ろして目を細める。
「また地下か」
「ああ」
アシュが低く答える。
もう疑う段階ではなかった。
灰の村の本体は、この礼拝堂の下にある。
フィアナが、穴の縁に立ったまま息を詰めた。
「……苦しい」
小さな声だった。
だが、それが冗談でも気分の問題でもないことはすぐに分かった。
顔色が悪い。
胸元を押さえる手にも力が入っている。
ルゥも足元で低く唸り、穴の向こうを睨んでいた。
ガルドが短剣を握り直す。
「行けるか」
「はい。行きます」
フィアナは即答した。
だが、声の最後がわずかに震える。
ノアが低く言う。
「ここまで来て、引く選択肢はない」
「そうだな」
アシュは短く返し、そのまま先に石階へ足をかけた。
黒い石は水を吸って滑りやすい。
焼け跡の村の地面より、さらに冷たい。
一段、また一段と下りるたび、空気の重さが増していく。
下から、声がしていた。
はっきりとは聞き取れない。
だが誰かがずっと、何かを囁いている。
ひとつじゃない。
重なっている。
痛い。熱い。嫌だ。苦しい。
そんな断片が、水の底みたいに濁って耳へ触れてくる。
階段の途中、壁に古い文字が掠れて残っていた。
祈りの文句だ。
だが途中で削れて読めない。
読める部分だけを追うと、救いを願う文ではなく、もっと命令に近い響きだった。
「捧げろ、だの、受け入れろ、だの……」
ガルドが嫌そうに言う。
「祈りってより誓約みたいだな」
「いまも昔も、根本は変わっていません」
フィアナが答えた。
「祈らせて、受け入れさせて、逃げられないようにするための」
ノアが先へ目を向ける。
「教会らしいやり方だな」
やがて階段が終わる。
その先にあったのは、広い地下室だった。
いや、地下室と呼ぶには広すぎた。
石柱が何本も立ち、天井は高く、奥は暗がりに沈んでいる。
もともとは祈祷堂か、あるいは儀式のための空間だったのだろう。
だが今は、床も壁も、全部が歪んでいた。
黒い筋が這っている。
泥のようで、血のようで、乾いた祈りが溶け残ったような色だ。
ところどころに白い箱が並んでいた。
長方形。
人ひとり分の大きさ。
蓋は半ば壊れ、開いたものもある。
中身は空だ。
だが、空であることそのものが嫌だった。
フィアナが息を呑む。
「これ……」
「運んでた箱だな」
ノアが低く言う。
王都の巡回で見た白布に覆われた荷。
教会本部で見た処置区画。
全部がここに繋がっている。
アシュは白い箱のひとつへ視線を落とした。
内側には細い爪痕みたいな傷が無数についていた。
胸の奥が、嫌なふうに冷える。
「生きたまま入れてたのか」
吐き捨てるみたいに言うと、誰も返さなかった。
返せるわけがない。
ルゥが箱のひとつに近づき、鼻先を寄せる。
その瞬間、低く喉を鳴らして飛び退いた。
フィアナがしゃがみ込み、そっと蓋へ手を触れた。
「……怖かったはずです」
細い声だった。
「この中で、何をされるかも分からないまま」
地下室の奥から、また声が漏れる。
「……あつい」
「やだ」
「いたい」
「いや……いやだ……」
今度ははっきり聞こえた。
子供の声。
女の声。
男の声。
年齢も高さも違うものが、ひとつの塊の中で混ざっている。
ガルドの顔が歪む。
「胸糞悪いな」
「まだ先がある」
ノアが言う。
その視線の先、地下室のさらに奥には、大きな扉があった。
礼拝堂の祭壇の真下に当たる位置だろう。
扉そのものは開いている。
だが、その周囲の石壁には、白い紋様が幾重にも描かれていた。
封印だ。
もう壊れている。
だが、何重にも重ねて繋ぎ止めようとした名残だけは残っていた。
アシュはその前まで歩く。
床に落ちた白い欠片を踏み砕く。
紋様の一部が、靴の下で脆く割れた。
「ここで蓋をしてたのか」
ノアが頷く。
「たぶんな。村ごと使って」
「候補を入れて、祈らせて、歪みを押し込んで、それで足りなきゃ蓋を重ねる」
ガルドが吐き捨てる。
「正気じゃねえ」
フィアナはその場で動けずにいた。
全部を前にして、言葉が追いついていない顔だった。
アシュは扉の向こうを見た。
暗い。
だが、ただ暗いだけじゃない。
奥に、息づくものがある。
その時、ルゥが急に苦しそうに身を縮めた。
「ルゥ?」
フィアナがすぐに駆け寄る。
ルゥは唸りもせず、喉の奥で変な音を鳴らしていた。
白い毛の奥、皮膚の下を、黒い筋みたいなものが一瞬だけ走る。
アシュの目が細くなる。
「……おい」
ルゥはすぐに戻った。
だが、戻ったあとも呼吸が荒い。
ノアが低く言う。
「近いんだろうな」
「何がだ」
「ここの歪みの核だ」
フィアナがルゥの背を撫でながら、かすかに首を振った。
「違います」
全員の視線が向く。
「違うと思います。近いだけじゃない」
フィアナはゆっくり顔を上げた。
その目には怯えと、別の確信が半分ずつあった。
「ルゥは、ここに残っているものと、似ています」
ガルドが眉を寄せる。
「似てるって」
「……わたしにも、まだ全部は分かりません」
フィアナはルゥの毛を撫でたまま言う。
「でも、同じ匂いがするんです。苦しみ方が似てる」
ルゥは何も言わない。
ただ、普段なら嫌がるはずのフィアナの手から離れなかった。
アシュは白い箱へもう一度目を向ける。
器になり損ねた者。
受け入れきれなかった歪み。
その近くにいて、一緒に変わってしまったもの。
ここまで来て、ようやくルゥの存在が別の意味を持ち始める。
「……失敗作、か」
低く落ちたその一言に、フィアナの肩が揺れた。
セレナが吐き捨てた言葉。
あれはフィアナだけに向けられたものじゃなかったのかもしれない。
地下室の奥から、また声が重なる。
「さむい」
「かえりたい」
「いたい」
アシュは目を閉じなかった。
閉じたら、そのまま逃げそうだったからだ。
「行くぞ」
低く言う。
ガルドが短剣を握り直す。
ノアも頷く。
フィアナはルゥを見下ろし、少しだけ迷ってから立ち上がった。
そのまま扉の向こうへ入る。
次の空間は、さらに広かった。
円形だった。
床には巨大な白い紋様が描かれ、その中心が黒く塗り潰されたみたいに歪んでいる。
そこから、無数の腕のようなものが伸びていた。
腕、というより枝。
枝、というより焼けた人の残骸。
人の形を保てなくなったものが、いくつもいくつも絡み合い、積み重なり、それでもなお中心へ縋るように集まっている。
祈骸。
まだ完全には動いていない。
だが、そこにあるだけで十分すぎるほど異様だった。
そして、その表面のあちこちに、顔があった。
溶けかけた顔。
半分だけ人の形を残した顔。
口だけが開いた顔。
子供のものも、大人のものもある。
その全部が、絶え間なく囁いている。
「……あつい」
「いたい」
「たすけて」
「いやだ」
フィアナの顔色が紙みたいに白くなる。
ルゥは毛を逆立て、今にも飛びかかりそうな姿勢になった。
ガルドでさえ息を呑んでいた。
アシュだけが、剣を握ったまま動かなかった。
ここまで来た。
焼いて、それでも終わらなかったものが、目の前にある。
祈骸の中心、黒く歪んだ塊の奥で、何かが脈打つ。
まだ核は見えない。
だが、本体はこれだ。
そしてアシュには、はっきり分かった。
これは、ただの怪物じゃない。
焼かれた村人たちの痛みと、選ばれるために歪められた祈りと、器になれなかったものすべてが、まだ終わることを拒んで残っている形だ。
「……そうか」
掠れた声が自分の口から漏れる。
誰に向けたものでもない。
言葉というより、確認に近かった。
祈骸の表面のいくつかが、ゆっくりとこちらへ向く。
顔がある。
だが目ではない。
痛みそのものが見ている。
アシュは剣を抜いた。
「終わらせよう」
その声は低かった。
だが、揺れてはいなかった。
フィアナがかすかに息を吸う。
ノアとガルドも、それぞれ構える。
祈骸が、初めて大きく脈打った。
地下の空気そのものが、嫌なふうに揺れる。




