第98話 焼け跡に残るもの
灰の村が見えてからも、しばらく誰も口を開かなかった。
近づくにつれて、匂いが濃くなる。
濡れた土の匂い。
湿った木の匂い。
そして、その下に沈んだままの、焼けた灰の匂い。
四日かけてここまで来た。
遠かった。
なのに、最後のこの数歩だけがやけに重い。
アシュは足を止めずに進んだ。
道の脇には、崩れた石垣が残っていた。
昔は村の入りを示す程度の、なんでもない境だったはずだ。
今は黒く煤けて、片側が崩れ落ち、雑草に半分呑まれている。
その先に、村があった。
焼けた家々。
傾いた柱。
屋根の骨組みだけを残して崩れた建物。
雨を受けた木材は黒く沈み、灰は泥に混じって地面へへばりついている。
それでもただの瓦礫には見えなかった。
ここに人が住んでいたと分かる形が、まだ残りすぎている。
フィアナが小さく息を呑んだ。
「……戻ってきましたね」
「ああ」
アシュはそれだけ答えた。
ガルドが低く息を吐く。
「ここに来るといろいろ思い出しちまう」
最初にここへ来た時、ここまでちゃんと見た記憶はない。
火があった。
煙があった。
叫び声があった。
あとは断片だ。
だが今は、いやでも見える。
家の前に転がった焼けた桶。
半分崩れた柵。
炭になりきれなかった木片。
人がいた痕跡ばかりだ。
足元で、ルゥが低く喉を鳴らした。
耳は立っている。
だが唸りというより、怯えを押し殺しているみたいな音だった。
フィアナがそっと白い毛に触れる。
「ルゥ……」
ルゥは答えず、ただ村の奥を見ている。
アシュは剣の柄へ手をかけた。
「行くぞ」
低く言った。
村へ足を踏み入れる。
泥と灰が混じった地面は柔らかく、歩くたび靴底が沈む。
風は弱い。
なのに焼け跡のあいだを抜ける空気だけが妙に冷たくて、頬を撫でるたびにぞわつく。
しばらく進むと、道の脇に小さな井戸が見えた。
石積みはひび割れ、木枠も半分落ちている。
水を汲むための縄は焼け切れたのか、途中でなくなっていた。
アシュの足が、そこでわずかに鈍る。
覚えている。
ここで村人が水を運んでいた。
子供が二人、井戸の周りを走っていた。
それを見たのは、焼く前か、焼いた後か、自分でも曖昧だった。
「アシュさん」
フィアナの声で、どうにか意識が戻る。
「……何でもねえ」
そう返した声は、自分でも思ったより掠れていた。
ガルドは何も言わない。
ノアも聞かない。
ただ、そのまま先へ進んだ。
村の奥へ行くほど、嫌な感じが濃くなる。
見られている。
家の隙間。
崩れた壁の向こう。
梁だけ残った建物の影。
どこからともなく、視線みたいなものだけが残っていた。
フィアナが立ち止まりかける。
「……嫌」
「何が見えた」
ノアが訊く。
フィアナは首を横に振った。
「見えるというより、聞こえる感じです」
その言葉に、アシュの背筋が少し冷えた。
「聞こえる?」
「たくさん重なっていて、はっきりしません。でも……」
言いかけたところで、焼けた家の中から黒い影が這い出した。
四つ足に近い異形だった。
だが村の外れで出たものより、さらに形が崩れている。
脚が一本多い。
首が長すぎる。
口元だけが、人の泣き顔みたいに歪んでいた。
アシュが前へ出る。
異形は飛びかかってきた。
速さはない。
むしろ重い。
それでも真っ直ぐ来る。
アシュは踏み込みを最小にして、首元へ刃を流した。
黒い液が散り、異形は地面へ崩れる。
だが、その喉の奥から声が漏れた。
「……いた、い」
全員の動きが止まる。
異形はそのまま泥へ沈み、もう動かなかった。
ガルドが低く吐き捨てる。
「嫌な感じだ」
「ああ」
アシュも短く返す。
それしか言えない。
村そのものが祈骸の巣みたいになっている。
外へ漏れたのが、さっきまで出ていた異形。
ここから先は、その源へ近づいていくことになる。
進むしかない。
焼け跡のあいだを縫うように歩く。
途中で、半分崩れた礼拝堂の跡が見えた。
屋根は落ち、壁も焼けていたが、祭壇だけが妙な形で残っている。
フィアナがそこでまた足を止めた。
「ここ……」
声が小さい。
ルゥも、そこから目を離せなくなっていた。
アシュは祭壇の残骸を見た。
最初に来た時は、こんなものが残っていたことに気づいていない。
火と煙で、それどころじゃなかった。
今は逆に、そこだけが不自然なくらい目に入る。
祭壇の前に、焼けた台がいくつも転がっていた。
村人たちが最後まで祈ろうとした痕みたいだった。
フィアナが、ほとんど囁くように言う。
「ここの人たちは知っていたんでしょうか」
「……何をだ」
アシュが低く返す。
フィアナは祭壇を見たまま続けた。
「教会が、人を犠牲にしてまで世界を保とうとしたこと……」
教会がここで何をしていたのか。
地下に何を押し込み、何に蓋をしてきたのか。
もう、だいたい見えていた。
アシュはゆっくり息を吐く。
焼いたのは自分だ。
だが、始めたのは誰だ。
終わらせなかったのは誰だ。
その時だった。
礼拝堂の奥、崩れた壁の向こうから、低い呻きが重なった。
一つじゃない。
二つ、三つ、それ以上。
異形だ。
しかもさっきまでより近い。
ガルドが短剣を抜く。
「まだ来るぞ」
ノアも位置を変える。
フィアナはルゥの背へ手を置いた。
アシュは礼拝堂の奥を睨む。
暗がりの向こうで、白いものがいくつも揺れていた。
目だ。
異形の白い目が、壁の隙間からいくつもこちらを見ている。
アシュが低く言う。
「本体に近づいてる」
その時、風が抜けた。
礼拝堂の奥から、湿った灰の匂いと一緒に、ひどく生々しい声が流れてくる。
「……あつい」
誰かの声だった。
「……いたい」
別の声が重なる。
「……いやだ」
子供みたいな高さの声まで混じる。
フィアナの顔色が一気に悪くなる。
ルゥも毛を逆立てた。
アシュは剣を握ったまま、目を閉じなかった。
もうここまで来た。
祈骸は近い。
終わらなかった村人たちの痛みも、祈りも、全部まだ奥で燻っている。
「行くぞ」
低く言う。
「終わらせる」
誰も返事はしなかった。
必要がなかった。
灰の村は静かだった。
だが、その静けさの奥で、まだ焼かれ続けているものがある。
それが、もう手の届くところまで来ていた。




